悲しみのミルク / 映画感想
1週間ほど前、図書館の視聴覚コーナー、DVD表写真の女の子の表情に惹かれながら、南米だぁ。。と、あまり内容を把握しないまま受付カウンターへ。
2009年公開のペルー映画
(ベルリン映画祭 金熊賞など受賞)
鑑賞後の頭を整理したくてnoteの下書きに記していたら、今朝フジモリ大統領さんの訃報を聞いた。
その歴史や文化等、無知な自分を大前提にしての拙い感想文です。
重いテーマかもですが、よろしかったらどうぞ。
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フジモリ政権前の圧政下、テロにより残忍な体験を持つ母がベッドの上で横たわりながら歌い語る。その横にいる娘、ファウスタ。の、冒頭。
のっけから絶句
。。。 。。 。
、、、 、、 、
キリキリと果てしない位に痛く乾いた映像が続くなか、時折織り込まれるゆらめきに吸い込まれた。
死と生と慣習と歴史と暴力と土着と信仰と身体と性と心と親と子と属と個と血縁と被害と加害と侵犯と抑圧と表現と非言語と中と外と現在と過去と
描かれているこれらは、遠い国の遠いあり得ない出来事。では全くなく、ヒエラルキー構造を生きる人々のまんまの営みなのでは。。(古代遺跡にも似た階段がモチーフとして頻繁に出てくる)
対立だけで成り立つ(メディア的)日常社会、普通に見受けられる(た)事が大半なのではなかろうか。。と、感じた。
主人公ファウスタは、〈悲しみのミルク(母乳)〉=〈忌まわしい記憶〉を受け継いでいて、残る唯一の肉身であるその母が逝く。
共に暮らす親戚はいてくれるものの、ある意味心身共に極限状態にあり、想像を超える手段で身を守りつつ、母を故郷の村に埋葬するお金を稼ぐ為、町に働きに出る。
その徹底的な息が詰まるような態度は、あらゆる仕組みや理不尽やコミュニケーションを拒絶しているようでもあるけれど、ひとりの庭師に出会ってから微かに変化を見せ始める。
即座に何かを手にしなくとも、風向きが変わること、それ自体が凄いことなんだよなぁ。。
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話が少し逸れますが、noteもされている、4000人に奢られてきたプロ奢ラレヤーさんが
「人はもれなく親の呪いか祝いを受けている。思春期までのそれを解消昇華するべくその後を生きる。」みたいな事を仰っていらしたっけ。(一字一句正確ではないです。失礼があったらすみません。)
勿論それを生きるのも当人の自由だし、望むならそれを手放すのも本人にしか叶わない。
加え、一見ひとりの女性のお話だけども個々の性別の違いではなく、ひとりの人間の内なる女性性が失なわれるということは、大げさではなく、こういう事でもあるのかもな。と、考えた。
そのラストシーンは言葉は全くないながらに、これまでを包み込み、これからを示唆する。
後からだけど、そのラストとテーマが邦画「川の底からこんにちは」に似ているなぁ。と感じた。(表向きは全然違うけど)
枝葉は違っても根っこにあるものはどこか似通っていた(る)のかな。。
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どんなにどんながどれだけにどんなでも、の、先の、あるやもしれぬ、なにか。を、寡黙に映像の力で伝えてくれる映画。
概念は光の当て方次第、如何ようにでも変わり得る。
後半もさしづめ、彼女の意志に導かれるように現れた場所で瞬間身体ごと、ファウスタは何かに触れ得たんだろうかな。の場面は、赤い花のシーンと等しく強く鮮やかに印象に残った。
ちゃんとリストアップしたことないけど、忘れたくない映画ベスト20に入りそう。。
いや、10かな。。
個人的に、今、観られてすごくよかった。
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