痛みの分け合い、傷の癒し合い
窪美澄さんの「やめるときも、すこやかなるときも」を読んだ。3回目か4回目になる。
窪美澄さんと言えば、ふがいないぼくは空を見た、が有名だし、読んでよく覚えてる一つだけども、個人的にこの、やめるときも、すこやかなるときも、の方が好きである。ふがいない〜もそうだけど、窪さんの作品は結構性描写が強めで、おぉっ、となりがちだけど、この作品はそれまでと違う感じだとあとがきでも書かれていた。
映画ファーストラブの感想を書いた時も似たようなことを書いたが、不思議と同じ痛みを共有する人は引き合う傾向にあると思う。
「傷を舐め合う」という表現があるが、私これあまり好きじゃない。だってこれって軽蔑を含む表現。でも同じような苦しみを持つ人がお互いにもたれ合うのは悪いことではないと思う。世間一般の人が思う不幸を共有できる相手に出会えるってすごいことだと思うのに、なんでこんな蔑みな感じの表現をあてがわれるのか謎である。
小説に戻って、私はまず、主人公の壱晴さんが好きである。椅子職人。下半身だらしない。でもそこには理由があって苦しんでる。そしてその師匠の哲先生。ザ職人で素敵。そして桜子。まず名前が好き。そして32歳で処女、父親は酒を飲んで暴れる、給料は家に入れないといけない。すごく私的にはかわいいなと思う女性のタイプである。男に慣れてなくて、家族と問題があって、仕事にプロ意識を持ってて頑張りすぎてて、純粋で、自分の強さに気づいてなくて自信がない、そんな女の人。お互い最初は違う意味で必要としてて、そこから関係性が発展してく。二人とも不器用でそこにも共感してしまう。
人ってもちろん多かれ少なかれ、そしてレベルは違えど、30も過ぎれば色々と経験しているものだ、というくだりが何度もあって、でも普段はそれを見せない、だから大変さとか苦しみって表には見えてない。そしてそれを共有してもいいって思える人と出会うって結構難しいと思う。
私も昨年に母とのことで決着をつける際、この人には話せるというのが自分の中でかなり明確にあったように思う。付き合いの長さや日常的なコミュニケーションは関係なかった。この人なら話したいと思える人は限られているが、必ずいる。
壱晴さんの苦しみは壮絶なもので、私とは段違いだけど、桜子になら話せるってなった時のその感じはわかった。そして桜子はその苦しみを受け止め切れるのかみたいな葛藤も。彼の性格から苦しみを共有したいと思える人が現れたのって奇跡だったんだと思うし、同時に運命でもあったと思う。痛みを分け合える、傷を癒やしあえるそんな人をずっと探してて、そしたら現れた。それは桜子にとっても同じだった。
椅子職人という仕事も興味をそそられる感じで描かれていた。工房のシーンがとてもほっこりする。松江の町も、そこに住む人たちも、あったかい雰囲気が常にある作品だった。
暇だし身体が辛いから、食事もせずにコーヒーだけで半日くらいで一気読み。作品的には決して軽くないけど、爽快感のある話だと改めて思った。