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【書評】『スマホを捨てたい子どもたち-野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』

霊長類研究者が見つめる現代社会

ゴリラ研究の第一人者である山極寿一氏による本書は、現代社会における人間関係の変容と、その背景にある生物学的な要因を探る意欲作です。特に注目すべきは、スマートフォンに代表されるICT(情報通信技術)が、人間本来の社会性や共感力を損なっているのではないかという問題提起です。

子どもたちが感じる違和感

著者は大学生や中高生との対話を通じて、「スマホを捨てたい」と考える若者が意外に多いことに気づきます。一見するとスマホ依存に見える若い世代も、実はその状況に違和感を抱いているというのです。この気づきから著者は、人間の社会性の本質を探る旅に出ます。

150人という魔法の数字

人類学者のロビン・ダンバーによると、人間が安定的な信頼関係を保てる集団の規模は約150人だといいます。これは狩猟採集社会の平均的な規模とも一致します。しかし現代では、インターネットを通じて何百何千という人々とつながることができます。ここに大きなギャップが生まれています。人間の脳の容量は変わっていないのに、関係を持つべき他者の数が爆発的に増えているのです。

サルからゴリラへ - フィールドワークの経験

著者は若い頃、ニホンザルの研究からスタートし、後にアフリカでゴリラの研究に携わりました。ゴリラの群れに入り込み、彼らの「行動文法」を学んでいく過程は、本書の白眉といえます。ゴリラたちは互いの距離を2メートルに保ち、相手の目を見て交渉します。また、子育ては群れ全体で行い、シルバーバック(年長の雄)が重要な役割を果たします。

人間の特異性 - 共食と共同育児

著者によれば、人間の特異性は「共食」と「共同育児」にあります。人類は熱帯雨林からサバンナに出た際、食物を持ち帰って分配する習慣を発達させました。また、早期の離乳により、母親以外の養育者の助けが必要になりました。これらの習慣が、強い信頼関係と共感力を育んだのです。

言葉の両義性

言葉の発明は、人類に大きな可能性をもたらしました。距離を保ちながら関係を築くことができるようになり、より大きな社会を形成できるようになったのです。しかし同時に、言葉は身体的なコミュニケーションを減少させ、時として暴力の道具ともなりました。

音楽と踊りの力

著者は、人類の二足歩行には思いがけない利点があったと指摘します。それは「踊る身体」を獲得したことです。直立することで上半身が自由になり、より豊かな声を出せるようになりました。音楽や踊りを通じた身体的な同調が、共感力を高める重要な要素となったのです。

現代社会への警鐘

本書は、現代社会の問題点を鋭く指摘します。たとえば、「孤食」の増加は人間の社会性を損なうものです。また、AIの発達により、人間が「考えること」をやめてしまう可能性も危惧されます。しかし著者は、悲観的な結論は避けています。

新しい社会の可能性

著者は、物の所有よりも共有(シェア)が重視される社会の到来を予想します。働く必要性が減少する代わりに、芸術活動や生活のデザインが重要性を増すかもしれません。そこでは、デジタル技術を適切に活用しながら、人間本来の社会性を保つことが求められます。

生物としての人間を取り戻す

本書の核心は、人間を「生物」として捉え直すことの重要性です。人類は長い進化の過程で、共感力や社会性を獲得してきました。それは単なる文化的な産物ではなく、生物学的な基盤を持つものです。現代の技術革新の中で、この生物としての特性を忘れてはならない、というのが著者からのメッセージです。

新型コロナウイルスへの言及

あとがきでは、新型コロナウイルスの感染拡大について触れられています。皮肉なことに、人々の対面的な交流を制限せざるを得ない状況で、デジタル技術の重要性が増しています。しかし著者は、それはあくまでも一時的な代替手段であり、人間本来の社会性を忘れてはならないと説きます。

本書は、霊長類研究の知見を基に、現代社会の課題に切り込んだ意欲的な著作です。専門的な学術書ではありませんが、生物学的な視点から人間の本質を探ろうとする姿勢は一貫しています。若い読者に向けて書かれた部分が多いものの、すべての世代に示唆に富む内容となっています。特に、テクノロジーと人間性の調和という現代的な課題に対して、独自の視座を提供している点が特徴的です。


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