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【書評】『教育現場は困ってる - 薄っぺらな大人をつくる実学志向』

著者の危機感から始まる警鐘

本書は、教育心理学者の榎本博明氏が、近年の教育現場で起きている様々な問題について警鐘を鳴らす一冊です。著者は40年にわたる教育現場での経験を基に、「楽しい授業」の誤った解釈や、知識軽視の風潮、実学志向の行き過ぎなど、現代の教育が抱える問題点を鋭く指摘しています。

「楽しい授業」の落とし穴

著者はまず、「授業が楽しい」とはどういうことかという根本的な問いから議論を始めています。近年、子どもたちが「授業がつまらない」という声に応えようと、教育現場では「楽しい授業」を目指す動きが強まっています。しかし、著者によれば、それは往々にして表面的な「楽しさ」の追求に終始し、本質的な学びを軽視する結果になっているといいます。

例えば、小学校での英語教育。子どもたちは英語活動を「楽しい」と感じていますが、それは実質的には「幼稚園でやってきたお遊戯を英語でやるようなもの」であり、知的な発達には寄与していないと著者は指摘します。

知識軽視がもたらす弊害

本書で特に重要な指摘は、「知識偏重からの脱却」という掛け声のもとで進められている教育改革への批判です。著者によれば、知識を軽視する風潮は、かえって生徒たちの思考力を低下させる結果となっています。

現在の大学生の約半数が1日の読書時間が0という調査結果や、中学生の約5割が教科書の内容を読み取れていないという現実は、まさにこの問題の深刻さを物語っています。著者は、知識なしに思考することは不可能であり、豊富な知識があってこそ、深い思考が可能になると主張します。

アクティブラーニングの誤用

近年推進されているアクティブラーニングについても、著者は重要な指摘をしています。グループ討論や発表を取り入れれば自動的に「能動的な学び」になるという考えは誤りだと著者は説きます。むしろ、講義形式であっても、学生が能動的に聴講し、自ら考えを深めている場合もあるのです。

実学志向への警告

本書のタイトルにもなっている「実学志向」の問題も重要なテーマです。2022年度から実施される新しい学習指導要領では、国語の授業で実用文(契約書や広報文書など)の学習が重視されることになりました。しかし著者は、このような実用的な文章だけを学ぶことで、文学作品から得られる想像力や思考力が失われることを危惧しています。

受験勉強の意外な効用

興味深いのは、しばしば批判される受験勉強の価値を著者が擁護している点です。受験勉強には、基礎学力の定着だけでなく、忍耐力や自己コントロール力といった「非認知能力」を育てる効果があると著者は指摘します。これは、近年の心理学研究でも重要視されている能力です。

教育のあるべき姿

著者は、現代の教育に欠けているものとして、以下の点を挙げています。第一に、読書や思索の時間。第二に、基礎的な知識の習得。第三に、思考力を育む文学や評論の学習。第四に、表面的なスキルではなく、深い教養を身につける機会です。

このような要素を軽視し、実用的なスキルばかりを重視する現在の教育は、「薄っぺらな大人」を生み出す危険性があると著者は警告します。

おわりに

本書の価値は、現代の教育が抱える問題点を的確に指摘するだけでなく、具体的な改善の方向性も示している点にあります。著者は、「楽しい」授業と「楽な」授業を混同せず、適度な困難さを含んだ学びの重要性を説きます。また、知識の習得と思考力の育成は対立するものではなく、むしろ相補的な関係にあることを強調しています。

結論として、著者は教育の本質的な目的を見失わないことの重要性を説いています。それは、単なる実用的スキルの習得ではなく、幅広い教養と深い思考力を備えた人間を育てることにあるのです。

本書は、教育関係者はもちろん、子どもの教育に関心を持つすべての人々にとって、示唆に富む一冊といえるでしょう。現代の教育が直面している課題を理解し、その解決の方向性を考えるための貴重な指針となることでしょう。


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