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【書評】『ものがわかるということ』
理解することの本質を探る-養老孟司氏の新著
「わかる」とは何か。そう問われれば誰もが立ち止まるでしょう。この問いに真摯に向き合った一冊が、解剖学者・養老孟司氏の新著『ものがわかるということ』です。理解という行為の本質に迫りながら、現代社会の課題と人間の本来的なあり方を浮き彫りにしています。
「わかる」と「知る」の違い
本書は、「わかる」ことの意味を問う編集者からの質問に端を発しています。養老氏は、「知る」と「わかる」を区別することから議論を始めます。「知る」とは具体的な一つのことを記憶することですが、「わかる」とは応用が利く状態を指します。たとえば数学で「2a-a=2」と解答するのは間違いです。2aとはaが二つあることだと「知っている」だけでは不十分で、4a-a=3aになることが「わかって」いなければなりません。
理解の土台には身体がある
養老氏は「わかる」ための重要な要素として、身体性を挙げています。たとえば解剖学の理解には、実際に手を動かして解剖するという体験が不可欠です。理論だけでなく、身体を通じた学びがあってこそ、本当の理解に至ると説きます。
同様に、子どもの発達においても身体を通じた学びが重要です。赤ちゃんが自分の手を動かして観察する行為は、入力(見ること)と出力(動かすこと)の関係を脳に刻み込んでいく過程です。このような身体を介した学びなくして、真の理解は生まれないと著者は指摘します。
情報化社会における「わかる」の変質
一方で現代社会では、身体性が軽視され、情報や記号だけで物事を理解しようとする傾向が強まっています。SNSやデジタル機器の普及により、人々は実体験より情報処理を重視するようになりました。養老氏は、このような「脳化社会」では、本質的な理解が失われていく危険性を警告します。
たとえば医療現場では、患者の顔を見ずにデータだけで診断する傾向が強まっています。環境問題を議論する場でも、実際の自然との接点を持たないまま、概念的な議論だけが行われています。このように身体性を欠いた理解は、表層的なものに留まると著者は指摘します。
自然との共鳴による理解
では、どうすれば本質的な理解に至れるのでしょうか。養老氏は自然との関わりの重要性を説きます。虫の観察や里山での経験など、自然と向き合う中で、人は感覚を研ぎ澄まし、物事の本質を理解していくと言います。
特に印象的なのは、著者が提唱する「共鳴」という概念です。理性で対象を分析的に理解しようとするのではなく、身体ごと対象と響き合うような理解の仕方を重視します。このような理解は、近代的な科学的理解とは異なる次元のものかもしれませんが、それこそが本当の「わかる」ことの本質だと著者は示唆します。
子どもの理解を育むために
本書では子どもの教育についても重要な指摘がなされています。現代の教育は効率や成果を重視するあまり、子どもたちから自由な探究の時間を奪っているのではないか。著者は、目的を定めない自由な活動こそが、子どもの本質的な理解力を育むと主張します。
たとえば、子どもが虫を観察する様子や、絵を描く過程には、大人には理解できない深い意味があります。このような、一見無駄に見える活動を通じて、子どもたちは世界との関係を紡ぎ出していくのです。
都市と自然の関係を見直す
本書では、都市化の進展による自然との乖離も大きな問題として取り上げられています。著者は「現代の参勤交代」として、都市住民が定期的に地方で過ごすことを提案しています。自然との関わりを取り戻すことで、より豊かな理解が可能になると説きます。
おわりに
本書は、現代社会における「わかる」という行為の危機を指摘しつつ、より本質的な理解のあり方を模索する試みと言えます。情報化や都市化が進む中で、私たちは身体性や自然との関わりを失いつつあります。しかし、本当の理解には、それらが不可欠なのです。
著者自身の研究者としての経験に基づく具体例も豊富で、抽象的な議論に陥ることなく、「わかる」という行為の本質に迫っています。現代社会に生きる私たちが、もう一度立ち止まって考えるべき重要な示唆に満ちた一冊と言えるでしょう。
著者は八十代半ばを超えてなお、虫の研究を続けています。その姿勢自体が、本書で説かれる「わかる」ことの本質を体現しているように思えます。理解とは終わりのない営みであり、それは同時に生きることそのものでもあるのです。
本書は、現代社会における認識や理解のあり方を根本から問い直す、示唆に富んだ著作と言えます。教育関係者はもちろん、子育て中の親や、自身の理解や学びのあり方を見直したいと考える方々にもお勧めしたい一冊です。