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【書評】『学ぶとはどういうことか』

『学ぶとはどういうことか』(佐々木 毅)は、私たちが「学ぶ」という行為をどのように捉え、実践していけばよいのかを、歴史的・哲学的な考察を通じて明らかにしようとする意欲作です。著者の佐々木毅氏は、2011年の東日本大震災という衝撃的な出来事を導入部として取り上げ、それまで私たちが「学んできた」ことが一瞬にして覆された体験を出発点に据えています。

学びの歴史的文脈を読み解く

著者は、学びを考察する際の重要な視点として、歴史的・社会的文脈の重要性を強調します。その代表的な例として、明治時代の思想家・福沢諭吉の議論を詳しく分析しています。福沢は『学問のすゝめ』や『文明論之概略』において、当時の日本が直面していた「追いつき型近代化」という課題に対して、どのような学びが必要とされるのかを鋭く論じました。

福沢によれば、当時の日本に求められていたのは、単なる西洋の物質文明の模倣ではなく、「文明の精神」を理解し、それを自らのものとすることでした。形だけの文明化ではなく、「人民の気風」という目に見えない精神的要素こそが重要だと説いたのです。

四つの学びの段階

著者は、学びの形態を四つの段階に整理しています。第一は「知る」という段階。これは事実や確実とされている知識・情報を習得することです。第二は「理解する」という段階で、知識や情報の内容を因果関係や構造的に把握することを指します。

第三は「疑う」という段階。これは既存の知識や情報を批判的に検討することです。そして第四が「超える」という段階。これは既存の知識・情報を乗り越えて、新たな可能性を追求することを意味します。

著者は、真の学びとは、この四つの段階を行き来しながら、絶えず新しい知見を得ていく営みだと主張します。特に重要なのは、単なる知識の暗記や理解にとどまらず、「疑う」「超える」という批判的・創造的な段階に到達することです。

専門知の可能性と限界

本書では、現代社会における専門知の意義と限界についても詳しく論じられています。専門知は確かに重要ですが、それだけでは十分ではありません。専門知は往々にして細分化され、全体像を見失いがちだからです。

著者は、真のプロフェッショナルとは、専門知を持ちながらも、それを超えて広い視野から問題を捉えられる人だと指摍します。それは「考える専門家」であって、単なる「考えない専門家」ではありません。

政治における学びの重要性

本書の後半では、特に政治の分野における学びの重要性が論じられています。政治家には、目の前の利害関係だけでなく、より長期的・総合的な視点から問題を捉える力が求められます。しかし現実には、日本の政治は近視眼的になりがちで、真摯な学びの姿勢が失われているのではないかと著者は危惧します。

著者は特に、政党という組織が本来持つべき「学びの場」としての機能が失われていることを批判します。政党は単なる権力争いの場ではなく、賢慮(フロネーシス)を培う場でなければならないのです。

現代社会への示唆

本書の意義は、「学び」という人間の基本的な営みについて、その本質的な意味を問い直したことにあります。現代は、情報があふれ、専門知が細分化される一方で、それらを統合し、新たな知見を生み出していく力が失われつつあります。

著者は、このような時代だからこそ、「学び」の本質に立ち返る必要があると説きます。それは単なる知識の習得ではなく、現実と向き合い、新たな可能性を切り開いていく営みなのです。

本書は、学びについての深い洞察に満ちた著作といえます。特に印象的なのは、学びを個人の営みとしてだけでなく、社会全体の課題として捉える視点です。私たちは誰もが、生涯にわたって学び続ける存在です。その意味で本書は、現代を生きる私たちに重要な示唆を与えてくれる一冊だといえるでしょう。

一つ気になる点を挙げるとすれば、やや抽象的な議論が多く、具体的な事例がもう少しあれば、より説得力が増したかもしれません。しかし、それは本書の本質的な価値を損なうものではありません。学びの本質を考えたい人、教育や政治に関心がある人に、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。


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