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【書評】『無気力の心理学』

誰もが生き生きと暮らせる社会を目指して

この本は、現代社会に広がる無気力の問題に、心理学の視点からアプローチした意欲的な研究書です。著者の波多野誼余夫氏と稲垣佳世子氏は、人間が本来持っている「効力感」という概念を軸に、無気力の原因を探り、その克服の道筋を示しています。

無力感と効力感の関係

著者たちは、無気力の根本に「無力感」があると指摘します。無力感とは、自分の努力が何の役にも立たないと感じる状態です。実験心理学者セリグマンの研究によると、逃れられない電気ショックを与えられ続けた動物は、後に逃げることができる状況でも、もはや逃げようとしなくなります。人間の場合も、努力しても報われない経験を重ねると、同様の無力感に陥りやすいのです。

一方「効力感」は、自分の努力で環境や自分自身に好ましい変化を起こせるという自信や見通しを持ち、生き生きと環境に働きかけている状態を指します。著者たちは、この効力感こそが無気力を克服する鍵だと考えています。

乳幼児期からの発達

効力感は人生の早い段階から育まれます。乳児が泣いて不快を訴えたときに、養育者が適切に応答することで、自分の働きかけが環境を変えられるという基本的な信頼感が育ちます。逆に、泣いても応答がない状態が続くと、施設児に見られるような無気力な状態に陥りやすくなります。

また幼児期には、自分で選んだ活動に取り組み、それが成功する体験を重ねることで、効力感が育っていきます。この時期に重要なのは、外からの報酬や評価ではなく、活動そのものの面白さや達成感を味わえることです。

学校教育の課題

学校教育においては、相対評価や過度の競争が効力感の発達を阻害する可能性があります。テストの点数だけを重視する評価は、子どもたちの自律性や挑戦する意欲を損なってしまいます。

著者たちは、個人の成長の度合いを評価する「到達度評価」や、生徒同士が教え合う協同学習の導入を提案しています。また「オープン・スクール」のように、子どもたちが自分の興味に応じて学習内容や方法を選択できる教育システムにも可能性を見出しています。

熟達と効力感

効力感を育むもう一つの重要な要素として、著者たちは「熟達」の概念を挙げています。熟達とは、ある分野で高度な技能や知識を身につけ、それを自分なりに評価できる状態を指します。職人や芸術家が自分の仕事に誇りを持てるのは、このような熟達があるからです。

ただし、熟達は時間がかかります。著者たちによれば、ある分野で本当の意味での熟達者になるには、5000時間から1万時間程度の練習が必要だといいます。しかし、この時間をかける価値はあります。なぜなら熟達は、単なる技能の向上だけでなく、創造の喜びや他者への貢献、自己実現といった深い満足をもたらすからです。

管理社会の問題点

現代の管理社会は、効力感の育成に適した環境とは言えません。生産性第一主義の下では、人々の活動が管理者によって定められ、評価されます。その結果、自律的な熟達の機会が失われ、外的な成功や評価にばかり目が向けられがちです。

著者たちは、この状況を改善するために、労働者の自己向上を奨励し、意味のある熟達の機会を増やすことを提案しています。実際に、社員全員が学習会を行い、創造的な仕事に取り組める環境を作った企業の成功例も紹介されています。

日米の文化比較

本書の特徴的な視点として、無力感と効力感についての日米比較があります。アメリカの達成志向社会では、個人の能力の証明が重視され、失敗は能力の欠如と結びつけられやすいため、無力感に陥りやすい面があります。

一方、日本社会は親和志向が強く、努力の過程も評価される傾向にあります。ただし、集団への同調圧力が強く、個人の多様な価値観が認められにくいという課題も抱えています。

現代社会への提言

著者たちは、効力感を育む社会を実現するためには、次のような変革が必要だと主張しています。第一に、生存の基本的保障を確保すること。第二に、誰もが意味のある熟達の機会を持てるようにすること。第三に、外的な成功や評価にとらわれず、内的な満足を重視できる文化を育てること。

特に日本社会においては、画一主義から脱却し、多様な価値観を認め合える風土を作ることが重要だと指摘しています。それによって、一人一人が自分らしい熟達の道を見出し、効力感を持って生きていける社会が実現するというのです。

おわりに

本書は、現代社会の無気力という複雑な問題に、実証的な心理学研究の知見を基に迫った労作です。特に、効力感という概念を軸に、乳幼児期から成人期までの発達過程を丹念に描き出し、教育や労働のあり方についても具体的な提言を行っている点が優れています。

また、日米の文化比較を通じて、効力感の育成には文化的な文脈が重要であることを示した点も、本書の独創的な貢献といえるでしょう。1980年の初版から40年以上が経過していますが、その問題意識と分析は今なお色あせていません。むしろ、管理社会化が進み、若者の無気力が深刻化している現代において、その意義はさらに増しているように思われます。


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