芋煮会は、花見やBBQに勝る人と人とをつなぐコミュニケーションツールだった
11月のある日曜日。東京都・荒川河川敷のBBQ場で、山形県出身の友人主催の「芋煮会」に参加した。
まず、芋煮会とはなんぞやと思っている方に向けて説明しておきたい。
熊本県出身のわたしも、主催の友人と出会う前は存在を知らなかった。
芋煮会の当日は、主催者の友人のつながりで15名が集まった。そのうち、わたしは10名と初対面だった。
BBQ場のまわりのグループは肉を焼いてお酒を飲む中、わたしたちはおしゃべりをしながら芋煮と玉こんにゃくを作り、完成したそれらと新米のつやひめのおにぎりをひたすら食べ、またおしゃべりをした。
帰り道、「この満足感、幸福度の爆上がりは一体なんなんだ...」と自分の感情に整理がつかなかった。
はじめましての人たちが大半の場所だと、ほぼ100%の確率で緊張してどっと疲れるのに、芋煮会ではなにを話そうかと考えこむことがなかったからだ。
もちろん、主催者の人柄がすばらしくて、そのつながりで魅力的な人たちが集まったことも要因のひとつだと思う。
でも、わたしは「芋煮会」というコンテンツが、疲労度ではなく幸福度を増幅させた大きな要因ではないかとぼんやり感じていた。
芋煮会から1週間がたった今、わたしは「つくる人と食べる人が一致していて、一斉にいただきますをする芋煮会の特徴が、幸福度爆上がりの正体なのではないか」と考えている。
山形県民は花見よりもBBQよりも芋煮会がすき
主催者から受け取った事前情報には、「山形県民は、花見よりもBBQよりも芋煮会がすき」と書かれていた。どんだけ芋煮愛が強いんだ???
今回の企画は、山形での日常だった芋煮会を東京でもやりたいという彼女の思いから開催された。
また、彼女から、芋煮会は学校行事のひとつであることを教えてもらった。花見は家族や職場などプライベートの範囲で楽しむ行事だが、芋煮は学校行事として位置付けられているのだな。
上記のサイトには、「小学校6年生が遠足で40分歩き、河川敷で河原の石をひろってかまどをおこし、みんなで芋煮を調理しました」という、県外出身者から見ると超ハードな芋煮の英才教育がさらっと行われている。
芋煮会に参加していた山形県出身の彼は、「普段料理をしないが、芋煮なら作れる」と言っていた。県をあげた教育の賜物だ。
花見やBBQよりも、芋煮がコミュニケーションツールになる理由
河川敷などの屋外で芋煮を作って食べることは、芋煮会の特徴のひとつだ。
しかし、みんなで屋外で食べるという主旨ならば、全国で花見やBBQが行われている。でも、わたしは芋煮会に参加してみて、それらのイベントとは明確に違いがあると感じた。
花見は多くの場合、お弁当の作り手は限定的で、食べ手はお弁当作りに関わっていないことが往々にある。さらには、出来合いの食材を買ってくるとだれが作ったかはわからない。
また、バーベキューをイメージすると、焼く人と食べる人が分かれがちだ。一斉に食べようとすると、焼く人の高度な技術を要する。
一方で芋煮会は、食べる人全員で作って、出来上がるのを待つ。
一斉にいただきますをすることで、「おいしいね」と感じるタイミングが同じで、食べるときに「ネギがちょっとシャキシャキしているけどおいしいね」「さといも、型くずれせずに残っているよ」「なぜ山形では芋煮会をするんだろう」と、できあがった芋煮に対して自然な会話が生まれた。
一緒に芋煮を作り、共通話題が生まれることで難なくコミュニケーションが取れ、さらにおいしい料理をともに食べたから、幸福度が爆上がりしたのではないかと感じている。
芋煮会のようなコミュニケーションツールは、ほかにあるだろうか
わたしの出身地・熊本県には、だご汁という郷土料理がある。さといもや油揚げなどが入った具だくさんの味噌汁に、小麦粉と水を混ぜた団子を入れた料理だ。
芋煮と同じく、ひとつの鍋で作れる手軽な郷土料理だが、熊本にだご汁会は存在しない。
芋煮の起源について、こう書かれていた。
最初から、複数人が退屈をしのぐためにはじめた食事だと考えると、芋煮会がコミュニケーションツールだと感じたのも納得できる気がした。
全国に目を向ければ、芋煮のようにコミュニケーションツールになるような料理は存在しているのだろうか。
新たな疑問が浮かびつつ、来年の芋煮会をもう心待ちにしている。