短編小説【田々井村から】
《あらすじ》
山村の田々井村から都会に出てきた私は、あるとき地図を拾う。都会は美しく、ふるさとは違う。そう思いながらも、自然豊かな情景が書かれた地図に興味をひかれる。地図がきっかけで、田舎の美景を目にした私は、田々井村にもそれがあったと気づきはじめる。
『田々井村から』
大学の門を出ると、秋の虫が鳴いていた。田舎では毎日鳴いていたから、うるさかった。都会だと珍しいからか、新鮮にさえ思えた。ついこの間まで明るかったのに、いつのまに日の入りが早くなったのか、電灯があちらこちらにつきはじめた。林立するビルから漏れる明かりが、イルミネーションのようにきらきらと輝いている。無数に光る星のようで、都会の景色に感心した。田舎と違って、都会は何でも美しく見える。
外灯に照らされた道端で、きらりと輝く一片の紙切れが目に入った。雑踏は紙片を避けるように通り過ぎていく。立ち止まった私は、それを思わず手に取った。透かし模様が入った和紙だった。灯りにかざすと花の模様が浮き上がり、品のある趣だ。
遠目には落書きかと思ったが、それは手書きの地図だった。名もなき山がそびえ立ち、山すそに楕円形の湖があり、ほとりに家々がいくつか書かれていた。段々畑が山奥まで続き、曲がりくねった道が畑を縫うように通っていた。場所は、山奥の山村だろう。都会にはふさわしくない落とし物だ。誰かが田舎の地図でも落としたか。
目をこらすと、ところどころにびっしりと細かい字がしたためられていた。集落の中で一番高いとおぼしき場所には、
「高台から、山に囲まれた赤い屋根の集落を一望。湖面からわきたつ朝霧が山々を包むと、集落は空に浮かぶ。朝日がさしこみ、山肌の木々が赤みを帯びて燃える。ここでは、印象派の絵画のような景色を望む」
と書いてあった。観光用の地図か、それとも観光地を訪れた人が感想を書いたメモか。
「棚田に稲穂が実る時、黄金色の絨毯が広がりを見せる。辺りは芳しい稲の香りで満ちて、深呼吸をすればむせかえる」
秋の情景か。えらく感動したようだ。
「一面が深紅に染まる。緑葉との対比が目に鮮やかで、彩りが一層の輝きを放つ。甘美な香りがそこら中に流れ、漂う芳香が身体をまとい、華やかな時間が訪れる」
場所は記されていなかった。私も見てみたい。思いに駆られた私は、どこの地図か推測し始めた。まだ見ぬ土地に思いをはせながら。
変わった落とし物に時間を食われたので、スマホの地図を見ながら、足早に目的地へ向かった。バーで友人のマサと会う約束をしていた。目先に見えた、つたの絡んだ洋風建築の外観は瀟洒なたたずまいで、アーチ窓から漏れた明かりが、道路を柔らかく照らしている。バーはそこだった。重厚な扉を押して入ると、砂糖を焦がしたような甘い香りが店内に満ちていた。
レンガ造りの内装に、ガスランプの灯りが優しく照らされ、落ち着いた雰囲気だ。棚には色とりどりの酒瓶が整然と並び、芸術作品のようだ。こじゃれた都会的なバーで、嘆息した。私の田舎ではありえない店構えだから。田舎が嘆かわしく、都会がうらやましい。装飾が施された椅子に深く座り、カタカナばかりのメニューとにらめっこをした。
説明を読んでも分からなかったので、カクテルは都会風を吹かせそうなものを注文した。着飾った客とテーブルに置かれた色鮮やかなカクテルをぼんやりと眺めていると、田舎の農作業が脳裏に浮かんだ。泥だらけになった作業着で田んぼを耕して、切り株に置かれるのは白いおむすびと日本茶だ。これが同じ世界なのかと憂いに沈み、気もそぞろにマサが来るのを待っていた。
「いらっしゃいませ」という店員の声が聞こえると、ラフな服装の男性が姿を現した。マサが来た。私を見つけるといなや、「遅れてごめん」と言ったあとの二言目には、お店の感想を口にすることはなかった。都会的なお店に、田舎者の私も不釣り合いだからだろう。
「おしゃれなの飲んでるね。何それ」
「ジャック・ローズ」
マサは失笑したのをごまかすように、袖で口を覆った。すまし顔をしている私を尻目に、彼はスマホで検索していた。「これか。りんごの蒸留酒と」画面を見ながら、ぶつぶつとつぶやいている。
「りんご、好きだっけ」
マサは顔を上げた。
「いや、好きじゃないけど」
「なんだそれ。じゃあ何で飲んでるの」
「都会らしいから、かな」
笑っているのか、呆れているのか、マサは何も言わずに視線を外した。
「俺らには合わない店だな。ビールにするよ」
図星だが、本当のことを言われると心外な気もした。都会になれない自分が仲間外れにされているようで、しばらく沈黙してしまった。
マサの注文したビールが、薄いガラスの細長いグラスに注がれてきた。
「そういえば、さっき変な紙切れを拾ったんだよね」
ポケットに突っこんでいた紙を、マサに見せた。
「立派な和紙だな。手すきのいいやつだ」
何度もなでるように、彼の親指が動いた。
「へえ。マサは詳しいね」
「まあな。おれの生まれた町は、和紙で町おこしとかしてるぐらい身近だからな。ヒロの故郷も、和紙で有名だったろ」
高価な茶碗でも扱っているかのように、マサはそっと紙きれを置いた。
「そうだっけ」
私の田舎は山奥で、何もない。村内のどこに行っても山ばかりで、いつも山に追いかけられているようだった。昼間でも薄暗い森が背後に迫り、朽ちた倒木が森に飲みこまれていく様を見ると、人も同じようにされるのではと、恐れを抱いた。鉛色の空に覆われると、田畑や山は色を失い、光に閉ざされた景色が広がり、城壁のような山に囲まれた村から出られないのではと思い、息苦しいほどにうんざりした。何も変わらない景色の連続に、嫌気がさした。早く外に出たい。逃れるように、都会に出てきた。都会は、日々変わる。変わり続ける景色に圧倒された。
「紙はいいとして、どこの地図なのか分かるかな」
マサはうなりながら地図を見て、微動だにしない。
「山あいに湖があって、赤い屋根と棚田かあ。紅葉がきれいなのかね」
紙切れに書かれた文章を音読して、マサは目を閉じた。景色を思い浮かべたようで、息が漏れた。
「自然あふれる、絶景なんだろうなあ。ヒロの故郷にもたくさん自然があるだろ」
「何もないよ」
「そんなことないだろ。もっと自信持てよ」
「いやいや、都会に比べれば自然はたくさんあるかもしれないけど、自然がいいわけじゃないから」
語気が強くなった。自然豊かなところが、総じて美しいとは限らない。自然にも醜い面や、汚いところがある。たまに訪れるから感化されるのであって、毎日暮らしていれば、自然の嫌な一面を垣間見る。本当の自然は、美しさを通りこして、薄気味悪い。
「毎日、代りばえしない景色ばかりで、うんざりだったよ。それに、たくさんあっても怖いだけだね」
ほろ酔いなのか、私の声は大きくなる。呼応するかのように、マサの声も大きくなる。
「毎日見てるとさ、それが当たり前になって、何も感じなくなるんだよ。同じ景色に見えるかもしれないけど、日々変化してるのに気づいてないだけだろ。畏敬と恐怖は紙一重だ。畏敬に感じれば美しくもなるし、恐怖に感じれば美しくもないだろ」
早口でまくしたてられ、私は押し黙った。しばらくの静黙を破るように、マサの深く息をついた風が伝わった。
「地図の場所が、いいところなのは間違いないな」
マサは言い終わると、ゆっくりとうなずいた。結局、地図の場所は分からなかった。絶対に地図の場所を突き止めてやると心に誓った。互いのグラスには、まだお酒が残っていた。
帰宅して玄関を開けると、ほろ酔い加減で足がふらつき、箱につまずいた。実家から送られてきた段ボールの箱が、封をしたまま放ったらかしになっていた。側面には「りんご」の文字が見えている。田舎の匂いがあふれてきそうだったから、そのままにしておいた。りんご畑が多い村だったから、りんごは田舎の食べ物だと思っていた。それでも母の顔が脳裏をよぎり、箱を開けた。瞬間に、りんごの甘酸っぱい芳香が鼻へ抜けた。一つ手に取ると、べとべとした感触が手に伝わった。離しても残る粘つきに辟易し、洗面所に向かった。箱のふたはそっと閉めた。
部屋に戻ると、まるで悟られたかのように母から電話があり、驚いた。開口一番、
「りんごの収穫が始まったのよ」
と、母は言った。そういう時期なのは、私も知っている。忙しいのだろう。口には出さないが、暗に呼び寄せている気がした。
「講義やアルバイトで忙しいんだ」
拾った紙切れを眺めながら、返事は上の空だった。
「そういえば、田々井村って和紙が有名だっけ」
「あら、有名よ。そんなことも忘れちゃったの」
紙切れをじっと見る。つややかな手触りを感じる。和紙の匂いがほんのりと漂ってくる。
「絶景みたいなところ、田々井村にあったかな」
「えっ。いきなり言われてもねえ」
そう言うと、母はしばらく黙りこんんだ。
「観光地じゃないからね。わかんないわ」
母は笑っていた。私は胸をなでおろした。やはり田々井村は何もない田舎なのだ。
「りんご、体にいいから食べなさいよ」
母は最後に言いたいことを言って電話を切った。寝転んでいると、和紙から部屋の天井が透けて見えた。
それから、日本地図を見てはネットで検索する日々が続いた。探していると、矢島村に目が止まった。観光情報サイトを見ると、霧が湖を包みこみ、集落が浮かんでいるように見えた。幻想的だ。山々を彩る紅葉が鮮やかな朱色を集落に落として、陽光で輝いている。屋根が燃えているようだった。地場産業に和紙もあり、ここかもしれない。
しばらく講義は全休するとマサに伝えて、出発の準備を整えた。もう心はここにあらずだった。
矢島村は人里離れた、山奥にあった。最寄り駅からバスで揺られること二時間半。渓谷のわずかな道を縫うように、バスは進んだ。車窓は山、また山の山ばかりだった。田々井村以外にもこんな場所があったのかと驚いた。終点のバス停で降りると、眼前に迫る山々に圧倒された。
木の色合いが柔らかなログハウスの建物が、観光案内所だった。田舎者の私としては、山奥と観光が結びつかなかった。何もない山奥に誰が好んで観光に来るのだろうかと、失礼ながらに思っていた。
中に入ると、松の木の力強い香りがした。不安と期待が入り交じり、心臓の鼓動が聞こえた。地図を握りしめて、案内所の人に声をかけた。
「あの、この地図は矢島村でしょうか」
「どれどれ。ああ、確かに似ていますね。ここにも絶景がありますよ」
待ちわびた瞬間が訪れたようで、声は上ずった。見るならガイドツアーがおすすめということだったので、迷わずお願いした。いよいよだ。地図の中の絶景と会えるのは。
ガイドは父親くらいの年齢の人で、飛び入りの私を笑顔で出迎えてくれた。面接でも受けるかのように緊張した私は、
「田々井村出身の森村広人です。今日はよろしくお願いします」
と、言葉が出てしまった。
「かしこまらなくて大丈夫ですよ。生まれも育ちも矢島村で、ガイドをしてます吉川です。よろしくね」
ガチガチになった私を、ほぐしてくれた。
「田々井村なんだね」
「えっ、知ってるんですか」
知っていることに驚いた。
「もちろん。矢島村も和紙が有名でね。でも、珍しいね。うちは都会のお客さんが多いから。田々井村もうちと似ていてきれいでしょ」
「いえいえ、田々井は田舎だけですよ」
「うちも田舎だよ」
吉川さんは謙遜していたが、矢島村は明るい田舎だ。柔らかい陽射しが広葉樹の山々に注いでいる。
「棚田がきれいに見える景色とかありますか」
「もちろん。まもなく収穫の時期だから、見事だよ」
山の頂きに向かって、湖を見下ろすように棚田は続いていた。曲がりくねった道を登ると、目の前に現れたのは、視界いっぱいに広がる稲穂だった。空と湖の境界が無いほど濃紺に満ちた世界に、稲穂の黄金色が際立っている。二色だけで織りなす自然の色彩に見とれた。深呼吸をすると、むせた。稲の匂いが鼻からあふれそうで、息がつまった。新鮮な空気を求め、棚田から足早に離れた。心配そうに吉川さんが私の顔をのぞきこんだ。
「どうだったかな」
「運動不足で、ぜえぜえしちゃいました」
嘘をついた。田舎の匂いを思い出した。稲の香りが充満していた田舎を。それを田舎臭いと思っていた私は恥ずかしくて、いたたまれなくなった。こんなにも美しい場所が、田舎と似ているなんて。
「今日はここまでです。霧を見るには、朝が一番だからね」
明朝、案内所の前で待ち合わせをする約束をして、宿に向かった。湖に向かって吹く陸風が頬に触れると、山の匂いがした。無機質な都会のビル風との違いに、鼻が驚いて脳が刺激を受けたようだった。都会の風は無臭だったから。風は匂いがしたのだ。
朝、外に出ると別世界だった。案内所まで向かう道のりは深い霧が立ちのぼり、視界がまったくきかなかった。道路の白線を頼りに歩いてるだけで、方向感覚を失うようだった。
霧の中に吉川さんの姿が突如として現れた。
「すごい霧でしょ。これも名物なんですよ」
うっすらと恐怖を覚えた私とは違い、吉川さんは平然としていた。笑っているのを見ると、アトラクションでも楽しむかのようだった。
目指すべき高台に進む道で、私は吉川さんに離れまいと必死に後を追った。上がるにつれ、霧はもやに変わり、白一色からだんだんと色のある景色を取り戻していった。そうすると、高台では朝のまぶしい陽が姿を現し、盆地が雲海に覆われているのを見ることができた。山際の色づいた落葉樹が、雲海を染めるように薄っすらと赤みを帯びているのがわかった。集落は雲海に埋もれて、はっきりと見えなかった。
私たちは時間を待った。やがて日が高くなるにつれ、潮が引いたように、霧は後退していった。湖に彩りをまとった山容が映り、湖面が色鮮やかに輝いていた。そこには、自然の色や光が混ざりあった絵画のような景色があった。
「すごいきれいでしょ」
吉川さんは、嬉しそうに破顔した。
「はい、きれいです」
目の前に広がる情景に心を奪われた。吉川さんは、自信に満ちた表情で案内してくれた。その理由を聞いたら、「ガイドですから」と笑いながら言っていたが、故郷の良さに自信を持てることがうらやましかった。
「矢島村は美しいですね。田々井なんて、暗くていつも同じ景色ですから」
「同じなんてことはないでしょう。毎日、景色は変わっていますよ。山は、この瞬間も変わっています。日々変わり続けているから、いつ見ても美しいですね」
目を見開いて凝視する私を見て、吉川さんは「あはは」と笑っていた。
「そんな肩ひじ張らずに。もっとリラックスして見てください」
深呼吸をして、秋の空を見上げると、はるか上空に見える巻雲が、波のように押し寄せている。目を閉じると、すすきのざわめきが耳を優しくなでた。リュックから紙切れの地図を取り出した。矢島村には一面が深紅に染まる場所は無かった。
「その和紙、すてきですね。田々井村のですか」
「いえ、それが分からなくて。てっきり矢島村のかと」
「うちのじゃないですね。それは良質だから、きっと田々井村のでしょう」
爽やかな風に秋気がにじみ出ているが、頬にあたる山おろしは冷たかった。今、田々井村はりんごの収穫の最盛期だろう。久しぶりに帰る決心がついて、矢島村を後にした。
窓から見えたビルや家々が一つ一つ消えていくと、ついには無くなってしまった。電車はやがて深い山に覆われた。トンネルばかりが続いた線路は、ようやくホームに導かれる。乗降客は私だけだった。古びた駅舎を出ると、母が待っていた。田々井村までのバスは朝夕に一本ずつしかなく、日中の移動手段は車だけだった。
「急に帰ってくるなんてどうしたの」
「りんごの収穫の手伝いだよ」
「あらやだ」
紙切れの地図を強く握りしめた。秋が深くなっても、針葉樹林の山々は深緑にあふれている。下界の色が乏しくなったせいか、余計に深い色を放っていた。こんな色は都会に無い。都会に慣れてしまったせいか、見ていたはずの景色が驚きをもって目に飛び込む。
「絶景が田々井村にもあったんだね」
「そんなとこあったかしら」
「お母さんは毎日見てるから、慣れちゃったんだよ」
車を降りると、そびえ立った山が出迎えた。湖風が山に向かって吹き上がり、段々畑の赤い果実が揺れる。
畑を仰ぐと、深紅の色に染まったりんごがあふれるばかりに実っている。段ボール箱から香るものとは比較にならないほどの甘酸っぱい芳香が、こぼれ落ちる。山すそまで続く段々畑を、りんごが深紅に染めあげた。
翌朝、集落が消えるほどの濃い霧に覆われた。矢島村の時と違い、不安や恐怖は無かった。あるのは自信と高揚感だ。高台に登ると、視界が晴れた。雲海に赤い小島がいくつも浮かび、さながら山の多島美だ。太陽の光が島を照らすと、反射した光は赤みを帯びて、山肌を照らす。針葉樹林が紅葉したかのように、山は燃える。色と光が揺らぐ景色は、印象派の絵画を見ているようだった。
紙切れは、田々井村の地図だ。忘れていた故郷からの手紙だったのかもしれない。持ってきたりんごにかじりつくと、甘酸っぱい味に稲の香りが混ざった。棚田は稲を刈り取った後だったが、余韻を残していた。まもなく、田々井は、氷雪の村となる。
(おわり)
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