映画『とりつくしま』
※ネタバレが含まれるため、読まれる際はご注意ください。
この世に未練があったまま死んでしまった人が、何かモノに憑りついて現世に戻れる、というお話。
歌人、作家の東直子さんの小説「とりつくしま」が原作の映画。
そもそも、「とりつくしま」は漢字にすると「取り付く島」であり、基本的には「取り付く島がない」という言葉として使われます。
由来は、海で溺れても上陸する島がないこと、頼りとしてすがる手掛かりがないこと、相手を顧みる態度が見られないこと。
そのことから、頼りにして取りすがろうとしても相手にもしてくれないことを意味する表現だそうです。
そもそも、「ない」事が前提の言葉から、「あったらどうか」という発想で物語が作られているのが面白いというか、そういう点に着目することに脱帽しました。
みんな、想いを寄せる人だったり、家族だったりの元に、その人との思い出の品に宿って、大事な人のところへと行きますが、見守る事しかできない。
元々が、未練があって、モノに宿ってまで現世に戻る事を選択しているので、一歩間違えると、「怨」とか「念」とかの話にもなりかねない。
実際、「トリケラトプス」という話では、元夫が、別の女性と仲良くする様子をただただ見る事しかできない様子が描かれています。
でも、そこに涙もありつつ、時に笑いも交え、軽やかに「怨」や「念」という方向からは違う方向へと進みます。
一度思いが通じ合った人と人との間に生まれた絆の強さを、「ババーン!」と押し出すのではなく、そっとそこに映し出す、そんな印象を持ちました。
1番好きなエピソードが、「ロージン」という話で、この時の母親の考え方が描かれている事が僕にはとても響きました。
野球を知っている人ならピンとくる「ロージン」
ピッチャーが球を投げる時に指が滑らないようにする、あの白い粉の事です。
母親が、中学生の息子の元には帰りたいけど、そんなに長くいなくていいと、野球部の息子の最後の公式戦を見届ける事ができればと、ピッチャーである息子が使うロージンに「とりつく」事を選択する。
使われる度に徐々に減っていき、結果、試合の最後まで見届ける事ができなくなってしまうが、それすらも「それでいい」と。
息子なら、自分で考えて、自分の力で進んでいくと、信じているからこその見守り方。
それは、きっと死別ではなくても、成長過程で離れる事はあるけど、そうなったとしても、息子を「信じて遠くから見守る」という選択をしたであろう事が想像できます。
その人が大事だから、「ずっと見守りたい」という気持ちでモノに宿り、現世に戻る選択をする事がほとんどだろうと思われる中、この考え方がきちんと描かれている事に、本当に感激しました。
そもそものそのエピソードを、母親である東直子さんが書き、それを娘である東かほりさんが映画として実写化している事も、なんだか胸熱でした。
すみません、勝手に…。
このお話を書かれたこと、そして、映画として完成させて届けてくれたことにありがとうございます、とお伝えしたいです。
最終回のマウンドに立った息子もまた、とてもいい顔をしていました。
そういえば、とある撮影で一緒になった事のある、村田凪くんが出演していました。
その時は、お互い絡みはなかったし、お話しする機会もなかったので、彼にしてみれば、「なんか黒い人いたな」くらいの認識があればまだマシな方な感じですが…。
こうして、映画の中で印象に残る役を演じられているのを観ると、刺激になります。
映画の上映期間や、劇場も限られているようで、劇場でご覧になるチャンスのある方は、是非、劇場でご覧になってみてください。