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上飯田の話

映画の話をしよう。

たかはしそうた監督の作品は、『パパの腰は重い』、『文化の日 製本前の 紙重し』、『移動する記憶装置展』と観てきました。

『パパの腰は重い』はドキュメンタリー、『文化の日 製本前の 紙重し』はフィクション、そして『移動する記憶装置展』は、ドキュメンタリーとフィクションが融合した新しい作品でした。

今回の『上飯田の話』は、恐らく『文化の日 製本前の 紙重し』と『移動する記憶装置展』の間に作られたもので、『移動する記憶装置展』で見せたドキュメンタリーとフィクションの融合の片鱗を覗かせるものでした。

ちなみに、『移動する記憶装置展』に関しての記事はこちら。


『上飯田の話』は3部構成。
第1話の『いなめない話』で、既にたかはし監督の感性が爆発している。
生命保険の話が、見ているこちらが「長いな…」と感じ始めた頃にそれは起こる(それは見てください)。実は、それも長いと言えば長いのですが、「果たしてそれは何だったんだろう?」と疑問が浮かんだところでカットが変わる。普通の編集なら、それを挟まずにカットを切り替えるところだけど、「それ」を挟む事で、僕らは一瞬中に浮いたような感覚になり、それがふと落ち着くと、僕らは上飯田の町に降り立っている。ああ、ここはこういう場所なんだと。

『いなめない話』で、監督に是非聞きたかった事があるのですが、劇中語られる保険の話があまりにも具体的で、あれはセリフとして一語一句書いたものなのだろうか?
あのリアルさが、この映画の特色のようにも感じます。

あと、最後のアップになるカット。
あれで僕らは、「ああ、そういえばこれはフィクションだったんだ」と意識を引き戻される。
秀逸なカットだと思います。

第2話の『あきらめきれない話』もまた、どこかに存在してそうな人達の話。
ギリギリの攻防が、ハラハラしつつも、やはりどこか生々しくて、これはフィクションなのか、ドキュメンタリーなのか境界線が曖昧になってくる。
この話の終わり方もまた秀逸。
いや、終わっていないのかもしれない。

あと、車で走る景色が、実に「都市部ではない横浜」ならではで、僕の実家の周りもあんな感じで、「どこに行くにも坂」な感じが懐かしかったです。

第3話の『どっこいどっこいな話』は、構成的に『移動する記憶装置展』に近い感じがありました。
あの、「本当に存在する物、人」を映画の中に取り込んで、融合してしまう手法に於いて、たかはし監督は、他の誰も真似できない独自の感性を会得しているように思います。

あと、ここから「人が斜めに立つ」という演出をしていたんですね。

そういえば、この第3話に、以前「深入」という映画で共演した荒川流氏が出演されていて、劇場で再会しました。映画が繋いだ奇跡…。
※ちなみに、以下が「深入」の予告編です。


『上飯田の話』、『移動する記憶装置展』に共通するのが、環境音をそのまま使用しているという事。
普段なら絶対NGの、バイクが爆音で通り過ぎる音もそのまま爆音で使用しているのだけど、実際、普通に生活している中で、そんな音は全然普通に聞いているもので、それがまた、フィクションとドキュメンタリーの境界を緩やかに溶かしていくように感じます。

あと、たかはし監督の、僕が今まで拝見させていただいた作品に共通するものとして、「画が広い」という特徴がある気がします。

役者の立場から言わせていただくと、カメラが遠いと、当然ながら近い時よりも緊張感が和らぎます。それは、存在しやすさにも繋がります。
「演じる」事に力を集中する事から、そこに「存在する」という事に自然とスイッチしていくような感じになります。まあ、僕の個人的な見解ですけど。
それがもまた、たかはし監督の映画の良さなんだと感じます。

総じて、「録音部さんが大変そう」という事にもなりますが(笑)、僕もたかはし監督の映画の中に存在してみたいと強く思いました。

商業映画でも見ない、他のインディペンデント作品でも見ない、全く独自の映画となっています。

ご覧になる機会があったら、是非観る事をお薦めします。

想像以上にポップなオープニングが、あなたを新しい映画体験に導いてくれるはずです。


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