「noteを書く」とは人生の棚卸なのかもしれない
私は本が好きです。
本とは、他人の生きた歴史が記されているのですから。
noteの向こうにはたったひとりの「人」がいるということ
noteを読んでいると、自分が何者なのかを知っている人が多いなあと感じます。
世間からこのように評価されている、という表明が得意な人。
就職活動の面接でそのまま答えられそうな自己紹介と、あなたが私をフォローすることで得られるメリットをサラサラと書ける人。
なにかしらのコンプレックスやトラウマを抱えた過去があり、それをどうかして乗り越えたり、共存する道を選んだ人。
noteにはいろんな人がいます。
私に見えるのは、たくさんの人が様々な形をとって、知らないうちに動いている様子。
しかし間違いなく、noteの向こうには私と同じような個人がいて、それぞれに人生があって、私のように悩んだり、あるいは悩まなかったりするのです。
何者かになりたい
私は。
ギタリストを見れば、ギターを弾きたいと思います。
画家を見れば、絵を描きたいと思います。
エッセイストを見れば、文章を書きたいと思います。
ですが、音楽に心を打たれたことはないし、絵を見て美しいと思うこともないし、文章に感銘を受けて涙を流したこともないのです。
そうして、なにもしないのです。
私は何者かになりたいだけで、わかりやすい世間的な評価を求めているに過ぎないと、ようやく気付きました。
顔のない人間があてもなく歩き回っては、底の抜けた器にわずかな水を注ぎ続けるようです。
それでも、20余年が過ぎた
受け入れなければならないと、最近思うのです。
振り返ると、不幸だというと罰が当たるような、恵まれた環境にいました。もしも多少の不自由を感じたとしても、動かなかった自分が悪いのだと。
平等に20余年が過ぎました。
穴だらけの人生にも向き合わなければならないのです。
「noteを書く」とは人生の棚卸なのかもしれません。
濃淡の違いはあれど、それでも20余年の月日が私の人生です。私そのものです。
私は、私の人生を一冊の本のように書き起こして、そして読み返します。
書き手の私は、砂をかむような思いです。
読み手の私は、笑い飛ばすか、涙するか、どうするのでしょう。