写真は芸術か
ホビージャパン2024年11月号が届きました。パラパラ見てみると、面白そうです。図書館で借りている「マシーネンクリーガーvol.2」(横山宏)を見終わったら、暫く図書館で本を借りるのは辞めて、所有している本や雑誌を読みたいと考えています。
同じく図書館で借りた「写真の歴史」(クエンティン・バジャック)を最終章以外、読み終えました。最後の章は「写真の普及(1840〜80年)」で、そこは今の私は読まなくても良いかな、と感じたので。
巻末の資料篇「写真は芸術か」が私的に1番面白く、1850〜1870年ぐらいの期間に、決定的な写真論が語られていることが分かりました。
「写真は芸術か」では、ジョン・ラスキン、ウジェーヌ・ドラクロア、シャルル・ボードレール、オディオン・ルドンの文章が引用されています。
私なりに纏めて捉えると
・写真は絵画を複写することに長けている
・写真はいかなる芸術にも優っていない
・写真は科学と芸術の召し使い
特にボードレールの皮肉たっぷりの文章が面白く、マトを得ているように感じました。
「印刷術と速記術が、文学を生み出したり文学の代理を務めたりしなかったのと同様に」
或いはルドン。
「(写真によって複製された美術館)そのような複製の絵画が突然、文学の分野やこの時代の他の確たる芸術の分野にとってかわるほどの重要性を帯びるなどとは誰も思いはしないだろう」
写真は印刷術や速記術のような、唯一無二の長所があり、絵画の複製や科学的なアプローチには優れているが、他のどの芸術よりも優っていない。という感じです。
また、自然についても語れています。写真は正確に上部だけを模写したものに過ぎない、と。
ここから私の考えを述べます。
写真は模写に過ぎないから、本物には敵わない。
写真は恣意的で不完全な模写である。
その通りだな、と私は思います。だから、写真は如何わしくて魅力的だとも思います。
それはディックにおける「模造品」的であり、現実の危さであり、身体と自然の再現です(写真論で身体性が語られるには、写真の進歩を待たなければならないのでしょう)。
写真には何処か、インチキっぽさが付き纏います。デジタル時代になって、さらに加速しました。
例えば満開の桜の色合い。
自撮りアプリ。
フェイクニュース。
風景も人物も事実も、幾らでも、誰でも簡単に加工出来てしまうわけです。
私はアンビエントミュージックを作っていますが、フィールドレコーディングはしません。全て電子楽器を使っています(ピアノなども打ち込みです)。
私の心の内にある「自然」を音楽で表現していますが、それはある種、フィクションです。言い換えれば、不完全なノンフィクションです。
私が撮影する風景写真も、不完全なノンフィクションだという自覚があります。
私にとってプラモデルも何処か如何わしい感じがします。どうしてわざわざ現実にあるものを模倣して作るのでしょう?
キツツキのプラモデルを自分で組み立てて、筆塗り塗装をする。それはもう一つの現実であり、世界を作り出す行為なのだと思います。
その意味では芸術的なのですが、キツツキのプラモデルも写真も、現実を模倣しているに過ぎません(写真は目の前にあるものしか撮れないし、プラモデルは金型から作られた既製品です)。
私にとってアンビエントミュージックを作ることも、私なりの現実世界の模写です。
この「模倣」であり「模写」というのが、面白いわけです。
それを機械的にやってしまうことによって、自分という存在が1度消えてしまう。カメラ、プラモデルキット、電子音楽。今の私は意図的にデジタル写真を現像処理せず、プラモデルキットを改造せず、音楽のEQを弄りません。
写真は自動補正を掛けるだけです。
そうすることによって、私の作品がより機械的になるのではないか、と思うのです。
写真は商業やメディアと結びつき、プラモデルはホビー商品です。
だから、写真やプラモデルは芸術より以前に、お金であり、社会であり、玩具なわけで、それは写真やプラモデルの歴史を少し紐解けば自明なことなのですが、例えばレトロプラモデルの子供騙しな感じだとか、不完全なキットに私は魅力を感じてしまいます。
スナップ写真なんて窃盗みたいなものですよ。だから私のスナップ写真は人物を写さないと決めていて(人様を窃盗しない=そんなことで人間や社会を表現していると自惚れない)、私は基本的に「自然」を模写していますが、そんなことで自然を完全に再現出来ているとは思っていません。
私の中の自動的な部分(機械的、或いはシュールレアリズム的な何か)を出来れば模写したい、と考えています。
無意識とは機械的(機能的)である、と仮説を述べて、終わります。