私の人生は、何にも侵させない。〜産める身体と向き合って考えたこと〜
産めるとは限らないけれど、とりあえず今のところ、私は妊娠や出産が可能だと想定されている。やってみたら案外妊娠できないかもしれないが。
婦人科で薬をもらい、生理なんてほぼないみたいに暮らしているけれど、薬がなければ生理に振り回される身だ。
そんな私が、妊娠、出産に関して考えたことの変遷、そして結論に至るまでを書く。
結論としては、私は産まないし卵子提供もしないし、直接子どもと関わることはしない。なぜなら私がそれを望まないから。
出産なるものへの恐怖
小学生になったばかりの頃、分娩台で苦しそうにする母を見た。家族で出産に立ち会ったのである。
新たな生命がやってくるのだから、それは神々しくて素晴らしい光景になるのではないかと子どもなりの期待はあった。そんなことはなかった。
ただただ痛みに耐えて、耐えて、苦しくてつらい思いをして、出てくるのは紫のよくわからない、泣く生き物。出産で、美しい母はボロボロになっている。
子どもの私は非常に混乱した。痛くてつらくて汚くて、ボロボロになることが、いいことなの? 嬉しいの?
出産への忌避感はここから形作られた。現在の私は、そんなに過酷でも出産を望む人がいると知っているが、その発想を共有はできない。ただ、否定はしないだけだ。
自分は産まない! あんな痛くて苦しくてつらいこと、絶対やらない。それが原点となる一つの結論だった。
中学、高校と進学していってもその気持ちは変わらず、むしろ強化された。生物を学び、生物学や医学の書籍に手を伸ばせば、出産のリスクなんて簡単に知ることができた。
私は痛みに弱い。他人の怪我ならどれほど重傷でも淡々と見ていられるが、こと自分となると、少しの出血でもゾッとする。
そういう性質だから、痛くて苦しくて汚くて、さらにリスクもある出産を望むなんてありえなかった。
子どもを望まない人を奇特なもののように扱う人もいるが、高校生の私に言わせれば、奇特なのは子どもを望む方だ。
当時は、こんなに科学が発達してもなお、人間がリスクや痛みを負うことでしか子孫を作れないなんて、未成熟な社会だと思っていた。
今は、科学が追いつくかどうかだけでなく、産むひとの痛みやリスクを軽視したり、母性神話に踊らされたりした結果なのだろうと考えている。
お金出してくれるなら産んでもいいよ
妊娠、出産、育児を丸ごとセットになっていると見ていた節もあって、私は産みたくなかった。でも、産むのみのケースもあると知って、それならいいのかもしれないと考えた。
それくらい、次世代に貢献しない女への風当たりは強かったのだ。
産まないにせよ、産めないにせよ、次世代を支えるべきだ。親戚の子どもや、地域の子どもを支えるべきだ。
そんなプレッシャーは、産まない、あるいは家庭を持たないひとからもかけられた。私はそれに必死で抗った。
産みたくない。
育てたくない。
私のあり方を奪われたくない。
そんななか、妊娠や出産、次世代への貢献をできるだけ自分の利にかなうようにハックしようと試みた。それが、「お金くれるなら産んでもいいよ」であり、「学術的興味を満たすために卵子提供ならしてもいい」だった。
このとき私が想定した、支払われるべき額とは、最低でも、大学生だった私が博士課程を修了するまでの学費と生活費であり、最高は生活レベルを変えなければ一生暮らすに困らない額である。
出産とは、苦痛を伴い、リスクのあるものだ。それを買おうというのなら、それくらいの支払いは当然だと当時から考えている。
出産を労働にすることの問題点はあるけれど、そのようにして進学費用を稼ぐひとも海外には現実としているらしい。
でも、通常の出産であれ、代理出産であれ、わざわざ遺伝疾患持ち(その疾患は、大学生になったばかりの当時にはただの遺伝疾患だったが、現在は国の指定難病である。)には頼まないだろうと思い、金銭的に切迫していなかったこともあって、実現はさせなかった。
卵子提供には差別がいっぱい
数年前から最近に至るまで、卵子提供は割と本気でしてみたかった。日記には、ヒトの遺伝を解き明かしたいと書いてはいるが、次世代に貢献しなくてはならないという呪いにかけられていたと、今ならわかる。
卵子提供、精子バンク。それらはアメリカではありふれたものらしく、検索すれば、アメリカの事例がたくさん読めた。
精子提供により生まれた子どもたちのルポルタージュも読んだ。伝え方が適切で、育ての親とよい関係が築ければ何とかなるようだった。
それに、私は卵子提供の責任があるだけで、どう育つかは育ての親と生まれた子の話である。だから割と気軽にやってみるつもりだった。
どこにでもありふれた、”心身ともに健康な方“というドナーの条件を見るまでは、そもそも自分が提供できないかもしれないなんて、思わなかった。
健康って、何だ。遺伝子変異は知らないだけで誰もが持っている。その遺伝子に病気に関連するものがまったくない人間なんて、おそらく皆無だ。変異はそのレベルで存在するのだから、病気の遺伝子を避けようなんて無駄な試みなのだ。
心情的に現在発症しているひとの卵子は嫌なのも理解するが、科学的には、人類は病の遺伝子から逃げられないのが真実だ。
でも、病歴や家族歴、容姿や学歴までセットになって、卵子が取引されることも少なくない。優生思想、ルッキズム、能力主義、さらにはレイシズムまで許される世界だ。
なぜなら、子どもを持つことは選択の結果であり、個人的なことだから。その個人的な営みの結果が社会を作るけど、そこは無視されている。
私は、卵子提供のドナーに申し込むことをやめた。
私は子どもが欲しいひとを否定しない。子どもを育てるのは父親と母親でなくてもいいと思う。
でも、差別の温床ともいえる環境で選ばれて、それで、生物学的な私の子どもが生まれたとしても心から喜べない気がした。心を曇らせることを自分でするのは、違う。
だから、卵子提供もしないことにした。
誰一人として、次世代や社会に貢献するために生きていない
改めて、自分に正直になることにした。
私は子どもが嫌い。
どう対応したらいいかわからない。
子どもを産みたくもないし、育てたくもないし、関わりたくもない。
親にもなりたくない。
それなら、やらなくていい。
やりたくないのだから、やらなくていい。
子どもに関わることは義務じゃないし、義務とされても抵抗する。
公的な再分配は必要だけれど、何も私が直接子どもに関わったり支援したりしなくてはいけないわけではない。
私の人生は私だけのもので、何にも侵させない。「子どもを望まない」「子どもは苦手」と発言することを私は躊躇わない。
ひとは、社会や次世代に貢献するために生きているわけじゃない。ビジネスの側面ではともかく、人生はそのひとだけのものであるべきだ。