他者の理解って、どゆこと??⑪
他者理解を書くことは、もう無いだろうと思っていました(^_^;)
知っていることは書き尽くしたよ……もう書けることは無いのよと思っていました
が……
これは他者理解(自己理解)かもしれないと、唐突ですが、完全に唐突ですが(汗)再開!!
ボリュームはあまり無いので、
連続ではなく、単発記事になります(_ _)
が、前編後編になりますm(_ _;)m
という見切り発車で、スタートします!(((^o^ゞ
先だって、早稲田メンタルクリニックさんの動画、しなやかな思考を拝聴した感想記事を、高慢にも書いてしまいました<(_ _)>(滝汗)
その中で、
知覚は、他者理解、ということを書きました
(これは、わたしの考えになります)
知覚を通し、感覚として知ることは、無意識に他者(人間だけではなく、無生物も)を認識することに通ずる感じですかね(^o^;)·····
実際に社会と接している身体が、社会という他者とより良く繋がり続けるために·····
SDGsと繋がりますね
しかし、これは最も大切なことの次ではないかと、ふと、思いました
ふと、
知覚は、自己理解であると
(早稲田メンタルクリニックさんの仰られていたことやお気持ちも、こちらの方ではないかと、また勝手な自己解釈なのですが、そう想像しましたm(_ _)m)
知覚はそもそも、自分の感覚を通して伝わるから、他者じゃなくて自己、だよね?(・・)
はい……そうです
ですが、なかなかこれが出来ない人は、多いのではないでしょうか……?他者の為に囚われ、自分の感覚を見失ってしまう、つい自分をないがしろにしてしまう現実……そんな価値観を取り払いたい……けど、どうしたらいいか分からない……つらい……と。
(ぜひアドラーを。という感じですが、それはさておきまして(^_^;))
この問題の解消になるかどうかは、分からないのですが、せめてわたし自身の救いにもなろうかと思いますので、わたしの考えた知覚と自己理解の関係を前編後編と、書いていきたいと思います
(※注釈:決して健常者思考の、差別主義思想ではないことを、どうか書き添えさせてくださいm(_ _)m)
知覚は、他人の手や耳ではなく、自らの手や耳などを使うことから、“自己の身体を通した感覚的な認識”である
メルロ·ポンティーの本や、國分功一郎さんの動画を観て、他者理解シリーズの身体を、実は書いたのですが(^_^;)テヘ
その中で、“物を知覚する”は、
“物の状態を知覚する”のではなく、
その物を知覚する“身体の状態を知覚している”と書かれています
この解釈は慣れるまで、何を言っているか分からないかもしれません
これは、物に触れたり、音を聴いたり、匂いを嗅いだりする行為が、ダイレクトに物の状態を把握しているのではない、という意味と近いです
その行為をしている自己の身体の知覚状態を経由する、という感じです
(医療従事者の方は、知覚神経、感覚神経のことだと、ピンとくるかもしれません)
例えば、
缶ビールが冷たい
↓
缶ビールを触った手が、冷感を触知している
という感じです
は?缶ビールが冷たいで、ええやん…おかしな表現だな…!と思われるかもしれません((((^_^;)
わたしも理解出来なくて、意識から追放!!脳内消去したつもりでした…(^_^;)
しかしメルロ·ポンティーは、物の状態ではなく、“身体の知覚の方を理解している”と言っています
(畳み掛けると、なんとなくそう思えてきますかね(^_^;)ハハハ)
知覚は、たえず、“何かの存在を感覚として伝えている”
とここで、冒頭への疑念です
であれば、
知覚は、他者理解“のために”でいいんじゃないか?です
自己理解とは、どう繋がるのか?です
知覚は自己理解のためである、という伏線回収!
次回わたしは果たせるのか?!
(珍しくまだ下書きをしておりません(・・;)キケン)
またお詫びは避けねばならない…!!
後編を、乞うご期待ください!!