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他者の理解って、どゆこと??➇"

※このシリーズは、他者の理解について、メンヘラ気味のオバさんが、世の中でうまく生きられるようにと、考えを深めていく記事です
※この記事は、➇の3個目です
出だしが唐突で分かりにくいと感じたので、2個目の文末を足しました


一番みなさんが、疑問に思われるのは、身体の言葉ではなく、意識や意思の言葉ではないか、ということだと思います

「おなかが、空いた。」

空腹で、何か食べたい!欲求(意思)がある。それに気付いて、「おなかが、空いた。」と言っている。意思、意識が、おなかが空いたと言っているのではないか?……と……わたしもそう思います


ここで、言葉に着目してみましょう


“空腹で、何かを食べたい!”という言葉ですが、それは「」には、どうですか?入っていますか?

入っていないですね

“空腹で、何かを食べたい!”は、あたまの中で補った、想像の話なのです

(想像の話と言われると、物凄くカチンと来て、猛烈に反発したくなるかもしれません

脳の中では、空腹のサインのホルモンが分泌され、神経物質が伝達され、カップラーメンにお湯を注いだり、もらったメロンを切ろうかと行動に移される。あたまの中では、しっかりとなんやかんや起きている。食物を取るよう、次のステップにあたまを働かせている。言葉はあたまの活動も含めた全体から、抽出されたにすぎないんだと思いたいのかもしれない。)

「おなかが、空いた」は
主語(=主格)が、おなかという身体になっています
主格である、おなかという身体が、空いている
言葉は、直接的に、なんの偽りもなく、身体の知覚を表していた
言葉は、あたまのことを語っていない、言葉は不足し、正しい表現になっていない……のか……


言葉はすべて、“あたま”の意思決定で選択していると、わたしもこれまで考えてきました

しかし、日常よく耳にする言葉たちは、その意思決定に関わっていたのは、欲求や欲望、情動、意思や意識ではなく、身体の知覚だったことが、分かりました


※これはあくまで、わたしの推論でして、仮定で書いていることを、どうかご容赦くださいm(_ _)m


➇後半では、
補足的に、どの部分が欲求で、どの部分が身体の知覚を表現した言葉かということと、
“傾聴の言葉と、全く同じ”について、書いていきたいと思います!!
テーマ【他者が話している相手】のことも、書いていきます


最後まで読んで下さり、本当にありがとうございましたm(_ _)m