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『局所性ジストニアを見つめる』 5. アレクサンダーテクニークの学校 2時間目

前回のおさらい

学校と銘打っているので、おさらいから始める。

前回、アレクサンダーテクニークを「無意識の意識化」という観点から紹介した。おさらいになるが、アレクサンダーテクニークが注目する無意識とは私たちの持つ習慣である。特に、私たちが自分で気がついていない習慣のことを指す。

「無意識 = 気がついていない習慣」なんてそんなにたくさんはないだろうと思うかもしれない。しかし、それこそが盲点である。身近なところに実はたくさんある。それが私の実感である。

アレクサンダーテクニークで注目するその際たるものが、椅子から立ち上がる、椅子に座る動作である。
あなたがもし椅子に座ってこれを読んでいるのであれば、是非立ち上がってみてほしい。立っている読んでいた方はもしよければ座ってみてほしい。

さて、あなたは今どうやって立ち上がったか、どうやって座ったか、立ち上がる/座るまでにしたことを詳細に説明できるだろうか?



ほとんどの方は、この質問にうまく答えられないのではないかと思う。それは座っているところから立ち上がる、立っているところから座る、という動作が無意識でもできるくらい頻繁に繰り返してきた動作だからである。立ち方や座り方が習慣として染み付いているのである。これも私の言う無意識だ。
私たちは皆、自分の慣れたやり方を持っている。
椅子から立ち上がるなんて皆同じようにやっているのでは?と思うかもしれない。それこそ、その動作が無意識によって為されていることの傍証である。もちろん、多くの人に共通する動作や仕草はある。それでも、それぞれ少しずつ違うやり方があり、自分には自分の慣れたやり方がある。

そう考えると日常の中に無意識で行なっていることはたくさんある。上手くいっている時、これは非常に便利な仕組みである。椅子に座ろうとする度に「どうすればいいんだっけ?」と考えるのは面倒だろう。
しかし、例えば膝が痛くて立ち上がるのが辛い、座るのが辛いといったような問題が起きた時はどうだろうか。私たちは多くの場合痛みのある部分をケアするためにゆっくり動いたり、「どうすればいいんだっけ」と考えることもあるかもしれない。このとき無意識 = 気がついていない習慣に気がつけるかがとても大切になる。そうすることで、自分の行動を変えることで問題を解決するチャンスが生まれるからだ。アレクサンダーテクニークが注意を向けるのはこの点なのである。


少し矛盾したようなことを言うが、本当のところ、習慣自体に良い・悪いはない。習慣を形成する過程で、その時にはそうする合理性があったはずだからだ。私が大切だと思うのは、改めてその習慣を意識できた時に、その習慣に今も合理性があるのか、それは必要なものなのか、と考えることである。l繰り返しになるが、自分の習慣に気がつかないことにはこの考えるチャンスを掴むことすらできない。



では、その「無意識 = 自分が気がついていない習慣」にはどうしたら気がつけるのか?
自分で気がつくのが難しい以上、アレクサンダーテクニーク教師の力を借りるのが有効である。正直に言えば、アレクサンダーテクニーク教師だけがそのための役に立つ人物というわけではない。力になってくれるなら、信頼できる方がいるなら、その方にまずは相談してみるのが良いだろう。
とはいえ、アレクサンダーテクニーク教師の力を借りるのは良いアイデアである。


気が付くために

では、「自分が気がついていない習慣」に気がつくためにアレクサンダーテクニークではどうアプローチするのか?

私が考えるに、

アレクサンダーテクニークの根幹には、「私たちに必要なものは元から揃っている」というアイデアがある。そして、必要なものは揃っているけれど、私たちは何らかの理由でそれを上手く使えないでいると物事を見る。そしてその理由を、私たちがそれらを上手く使うのを自分自身で妨げてしまっていると考える。

自分の力の発揮を妨げている最たるものが自分の習慣である。

アレクサンダーテクニークにも色々な流派がある。大元にある原理は共通しているが、方法論には多少の違いがある。アレクサンダーテクニークを実践し、教える人間としての私が無意識の意識化のためにまず注目するのは、 実際に「問題が起きている動作」と「筋肉の緊張」である。

当たり前といえば当たり前なのだが、実際に問題が起きている動作を観察し、そこで何が起きているのかを知るのはとても重要である。冗談めかして「犯行現場へ向かう」などと言ったりもしている。
それは、大袈裟な言い方になるが、「自分に対する自分の犯行」を現場で観察するのである。
ほとんどの場合、私達はその動作の中で自分が何をしているのかに気がついていないことが多い。これは、それだけその動作に慣れて習熟していることの証左でもある。だが、それが問題の原因に気がつけない理由でもある。そうするのがあまりに普通だからだ。
実のところ、アレクサンダーテクニークはこの「犯行現場の観察」から始まった。ここで少し歴史の話をしておこうと思う。

アレクサンダーテクニークの始まり


アレクサンダーテクニークのスタートは、俳優フレデリック・マサイアス・アレクサンダーが舞台上で起こる声の嗄れを克服するための取り組みにある。

アレクサンダーは20代の頃、シェイクスピアの朗読を一人で行うのを得意とした俳優だった。時は1892年頃、オーストラリアでのことである。
少しずつ俳優としての評判は高まっていき、アレクサンダーはより多くの人々の前で公演ができるようになっていった。だがそれとともに、彼はパフォーマンスの途中から声が嗄れるトラブルに見舞われるようになった。

彼はこのトラブルに非常に悩まされた。声の嗄れは当時の俳優の職業病のようなものだった。だが、自分はそんな問題とは無縁だと思っていた。また、演劇は彼にとってキャリアであるだけでなく、社交の場であり、何より生活の場であった。これはいわば、彼の生活を根こそぎ奪いかねないトラブルだったのだ。


彼を診察した医者は声帯の炎症を指摘し、次のステージまでの2週間の間、喉を完全に休ませるようにアドバイスした。2週間声を出さなければ、ステージでは間違いなく上手くいくと請け負ったのである。アレクサンダーはそれに従った。

2週間後、公演の日が訪れた。ステージに立ち、声を出した時、アレクサンダーは自分の声が完璧に復活していることに気がついた。だが、喜びも束の間、公演が半分を過ぎる頃にはまた声の嗄れが戻り、遂にはほとんど声が出ないほどになってしまった。

翌日改めて医者を訪ねても、その医者は喉を休ませる期間をさらに長くすればもっと良い結果が出るはずだ、と言うだけ。しかし、3週間、1ヶ月も全く声を出さずに生活できるものだろうか?しかも、それを生涯続けるなんてことができるだろうか?これはアレクサンダーには受け入れられない提案だった。

そこでアレクサンダーは医者に向かって
「公演の初めには声が出て、公演の途中から声が出なくなったということは、自分がパフォーマンスをしている時にしている何かが問題の原因なのではないか?」
と切り出した。医者は少し考え、アレクサンダーに同意した。
「では、私のしていることのうち何が問題の原因かわかりますか?」
アレクサンダーのこの問いに、医者は率直にわからないことを認めた。
「わかりました。では、自分で探し当てるしかないようですね」
そう言って、アレクサンダーは医者の元を後にし、長い探求の取り組みを始めた。
これがアレクサンダーテクニークの始まりである。


その後、アレクサンダーは鏡の前に立ち、自分が普通に声を出している様子と、パフォーマンスをしている時に声を出している様子を観察し始めた。普通に話をしている際に声が嗄れたことはなかったから、何か違いがあると睨んだのだ。当時はもちろん録画などできない。鏡に映った自分をひたすら見つめ、特徴を見つけ出すしかなかった。

しばらくして、アレクサンダーは自分が声を出す時に大きな特徴が3つあることに気がついた。つまり、自分がこれまで気がついていなかった自分の習慣に気がついたのだ。それも3つも。これがアレクサンダーテクニークにおける「犯行現場の観察」の原型である。
アレクサンダーは様々な実験を繰り返し、これらの習慣が自分の問題の原因であることに確信を持った。そして、これらを止めるための試行錯誤を長い間繰り返し、最終的に声の嗄れという自らの問題を克服するに至った。


この噂は瞬く間に広まり、同じような問題を抱えた俳優やパフォーマーがアレクサンダーの元を訪れるようになった。こうして、アレクサンダーは自分のメソッドを体系化しながら人々に伝えるようになった。これがアレクサンダーテクニークの始まりである。
始めは、声や呼吸のためのメソッドだったのだ。だが、その後、このメソッドは、声や呼吸だけでなく、健康全般に対して有効であることが経験的に知られるようになり、今日の形へと発展していったのである。

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この一連の取り組みの詳細は、アレクサンダー自身の著作『The Use of the Self』やアレクサンダーの伝記、アレクサンダーテクニークの入門書で確認することができる。さらに知りたい方は是非。

次回は、この「犯行現場の観察」を私の局所性ジストニア的症状に当てはめ、「問題が起きている動作」で何が起こっていたかをまとめていこうと思っている。

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