「コミュニケーション」という言葉に惹かれて読んだ本の話
平田オリザさんの「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」を読んだ。
正確に言うと、読んだのは二度目。
去年の冬休みに入る前くらいに借りて、読み始めていたのだけど、なんだか読み切らず、本棚にしまわれていた。最近小説をよく読むようになったので、もっかい初めから読んでみるか、と読み始めたら、面白くて、「なるほど」とか「確かにねぇ」とか言いながら、一気に読みきった。
「察しあう」文化
というのは時に美徳として語られる。自分自身「察して」もらって助かった、という場面があるので日本とか周辺文化圏にすむ、そこに馴染んだ人間には過ごしやすい環境をつくるひとつの文化なのだろう。
しかし、他文化圏の方とのコミュニケーションとなると話しは違うようだ。本著には演劇やその他アートの世界での「事細かに作品を語れる、アピールできる」ということの重要性についてが述べられている。
演劇をやっていたことがある身としては(学生演劇なのでたかがしれているが)他文化圏の方とのコミュニケーションでなくても、この「語れる」ことは必要だと感じていた。
私の所属していた演劇部は、スケジューリングが下手で、毎公演バッタバタしながら作品を作り上げているようなところだった。演者やスタッフとの演出のイメージのすりあわせも忙しい中でバタバタとやっていく感じ。
そんな演劇部で、最後の大会で披露する作品の演出をさせてもらった。
演出プランや作品の読み込みやなんやらすごく頑張ったけど、一番苦労したのは演者に演出の細かいニュアンスやどこが良かった悪かったを伝えること。語彙がないったらありゃしないし、ダメなことばっかに言ったらモチベーション下がるだろうなとか考えて、全然話せない。でも「察して」もらうのなんてもっと難しいから「察して」なんて言えなかった。
あの時、もっと「語る」ことができたら…!!!!!と思っていたことを、この一節を読んで思い出した。
本著を読んで、「対話」がしたい、と思った。
平田さん曰く、対話的精神においては、自分の意見が変わることが悪いことではないし、むしろ潔いことであるとされるらしい。
このごろ、所属している団体で、代表やら副代表やら役職につかせてもらうことになったこともあって、何かについて話し会う機会が多い。話をするうちに「すっかり意見が変わってしまったな」となんとなく後ろめたい気持ちと自分の考えが浅かったことを後悔するのだが、この考え方からいけば、それも潔いことになるだろう。なんて素晴らしい。後悔してメンタルを削るより、話し合っていい案が生まれたなぁ!と思う方が絶対に自分にとっても団体の活動モチベーションにもプラスになる。例え誰かのものすごくいい案がほぼそのまま採用されても、それはその話し合いで生まれた案なのだ、として受け止めれば「私はいい案が生み出せない人間だ…」と日頃の私のように落ち込まなくてすむ。最高だ。今すぐ取り入れたい。
有名企業の社内公用語が英語になった、
というニュースは数年前よく耳にしたもので、「あぁ国際化って知らないうちにどんどん進んでるんだなぁ」なんて思っていたのだが、話し方の文化的な面からみると、英語の方が日本語よりも、性差や年齢を越えて議論がしやすい、というメリットがあるらしい。
パワハラ、セクハラ、こんな言葉が出てきて久しいが、上の世代というのは何でこんなにも年下を押さえつけるのか、と思っていたのだが、日本語の敬語や言葉自体にもその要因があったとは。
本著で例に出されている「女性上司からの指事語に適当なものがよく分からない」「対等な関係で誉め合う言葉が少ない」ことなど、自文化であることからだろうか、全然気づいたことがなくて、日本語って思ったよりこれから変えていきたい姿になっていこうとする上で、不自由な面も多いのだなと思った。
しかし、英語やその他言語のなかで対等な関係で議論できる言葉になっているのはそれ相応の背景があってのこと。日本は島国で、鎖国が解除されてから徐々に国際化してきている国であって、これから言葉だってどんどん変わっていくだろう。
そう思うと、日本語がどう変わっていくのか、またどこが変わらず伝承されていくのかを生きながら感じていくのが、とても楽しみになった。
コミュニケーション教育は、人格教育ではない。
この言葉が沁みた…。というか嬉しかった。万年「コミュ障なんで…」とヘラヘラしている私も、それでいいと思っているわけではない。だからこそタイトルに惹かれて本著を手に取ったので、コミュニケーション教育はいい人になるための、要は「人格教育」だったり、社交性のバカ高い人になるために受けるものじゃなくって、「論理的に喋れない立場の人々の気持ちをくみ取れる人間」になるために受けるものだという捉え方を本著によって知れたのはとても嬉しかった。
だって、コミュニケーション教育を受けてきました!って言ったとき、「なのに友達が少ない」とか「人見知り」だとかを後ろめたく思わなくていいんじゃないかと思ったから。
この解釈は正しいんだか、ちょっと違うんだかわからないが、とにかく私は嬉しくなったし、少し自由になれた気がしたんだ。
さいごに
こんな風に、私にとってこの本にはたくさんの発見があって、出会えたことが嬉しかった。
まだまだ、「ずれ」の話や「いい子を演じることを楽しむ」話、「人間は玉ねぎのようだ」という話や「会議セッティング」の話なんかも面白かったのだが、どうにもまとめられそうにないので、ここで終える。
平田さん、多くの発見を、ありがとうございました。またきっと、何度も、読ませていただきます。