目に見えないものの話
目に見えないものとは
「目に見えないもの」に興味がある。こういう話をすると「そっち系の人なの?」と思われがちだけど、別にそういうわけでもない。いたって普通である。
「目に見えないもの」とは端的に言葉では言い表わせられないもの全般のことだ。"直感"や自分だけの"感覚"あるいはそこに漂う"空気感"だったり、この先起こりそうな"予感"のことだったりである。それらは実際に存在しているはずだと思いたい。
目には見えないけれど、なんとなく自分にとって信頼に足る"感覚"は誰もが持ち合わせているはずだし、何かを決断しなければならないとき、迷っているとき、分析して論理立てても全容を把握しきれないときに、何を拠り所にして前に進むのか、ということである。
とはいえ現代においては、なかなか伝わらない話題だと思うので、事実に基づいて言語化していく。
目に見えるもの=情報+認識
「目に見えないもの」の話をする前にまず「目に見えるもの」とはなにかを考えたい。
「目に見えるもの」というのは文字通り、目の網膜に映る光のことだ。そして実際にそこに”ある”と実感できるもののことだ。
目という感覚器官は光を捉えるためのもので、その光のことを「可視光線」といい、実際にそこにものがあると実感する認識作用を「ゲシュタルト」という。
人間の可視光線の波長はおおよそ(400nm〜800nm)で、その実態は「波」である。波の波長が短いほど青く見え、波長が長いほど赤く見える。
雨上がりに見える「虹」がわかりやすい。あらゆる波長を併せ持った太陽光は肉眼で見ると真っ白だが、空気中の水分を透過するとき、赤から紫までの色にきれいに分かれて見える現象である。波長ごとに屈折角が異なることによって「虹」ができるのだが、実際は紫外線や、赤外線といった目に見えない波長も虹の周りには存在している。
目とは、ある範囲のナノメートル波をキャッチするための装置にすぎないのだ。
そして、驚くべきことに人間は、目がキャッチした情報をすぐさま認識し、脳内に「形」を作り出している。「形」を認識するということは、受け取った情報を「図」とそれ以外の背景である「地」に分割することである。
今こうして文章を読むことができるのも、文字という「図」と背景という「地」を脳内で勝手に分割しているからこそ成り立っている。実際は液晶画面の明滅するピクセル(無数の光る点)の集合体に過ぎないのだが、こうして文字となって現れているのは、脳内でそれらを文字というまとまりに自動的に変換しているからに他ならない。
目に入った情報が認識作用を通して「形」になることによって初めて、目の前に実際に存在している「目に見えるもの」として浮かび上がるのだ。
目に見えないもの=?
「目に見えるもの」が上記で説明してきた2つの要素で構成されているとすれば、「目に見えないもの」はそれらの"片方"あるいは"両方"が欠損した場合のことだと言える。
それらの関係を4象限マトリクスで表してみた。
こうして考えると「目に見えるもの」がいかに小さい世界で起こっている現象なのかがよく分かる。自分が今この瞬間に認識している世界は「氷山の一角」で、それよりも膨大で感覚できない世界が周りに広がっているのだ。
以下それぞれの領域で「目に見えないもの」と自分がどのように関係を持とうとしているか、その実践の一部を記す。
実践1 天体撮影(可視-不可視)
天体写真を撮影することを趣味にしている友人がいる。彼らと遊ぶのは非常に楽しい。楽しすぎて毎年京都に遊びに行くのが通例となってしまっている。
ある年末の新月の日、多くの人たちは帰省し町が静まる時期、澄み切った暗闇の空気の中、3階建ての建物の屋上で、友人と一緒に肉眼では見ることのできない「馬頭星雲」を特殊なカメラで捉えようと試みた。
実はカメラにも人間の網膜と同じように光を感知するセンサーが埋め込まれている。
(APS-Cとかフルサイズとかいろいろな大きさのセンサーがある)
市販のカメラは肉眼で見える風景の撮影を前提に作られているため、写真に悪影響を及ぼしがちな赤外線波長は、情報過多ということでカットされている事が多い。その時使ったカメラは、逆に可視域をカットし、赤外線側の波長を捉えられるように改造したもので、それにより「馬頭星雲」が発する長波長域の電磁波をはっきりと捉えることができるようになるのだ。
赤外線カメラは下記ブログ(抜粋)で説明してくれているように比較的簡単に作ることができる。
この赤外線(長波長)を捉えられるように改造した特殊なカメラを使って、1枚あたり5分間露光の写真を40枚撮影した。5分間もシャッターを開きっぱなしにしていると、地球の自転により星が5分間分移動するため、光がぼやけてしまう。それを赤道儀という地球の自転に追従するようにプログラムされた機械を三脚とカメラの間に挟んで、自転を補正しながら撮影する。1枚の撮影だと星の発する光が微弱なため、40枚分の光を合成し、かつノイズを除去してやっと天体を目に見える「形」に落とし込むことができるのだ。
天体写真を撮影するという実践は、まさしく「目に見えないもの」を捉える実践だと言っていい。天体は地球から遠く、日常生活を合理的に進めていく場合には、ほとんど影響がないものである。けれども、こうした肉眼で捉えている世界の外側の論理を知っているか、それとも知らないでいるかは、日常生活を豊かに過ごしていく場合には、大きな差異が生まれるような気がしてならない。
いま網膜に写っている「波長」の外側に、自分の生活を成立させている原理原則を根底から覆し得る可能性が眠っていて、それを何らかの方法で「形」に落とし込むことができれば、日常生活を今以上に豊かに過ごしていく事ができるのではないか。可視-不可視について考えていくことは、自分の世界を拡張していくことに他ならない。
実践2「自家製味噌」(認識できる-できない)
新しく始めたことのひとつに自家製味噌づくりがある。
作り方はとても簡単で、柔らかく煮た大豆と塩と麹を2:1:2で混ぜ合わせ、空気に触れないように容器に入れて(ジップロック等でもOK)10ヶ月ほど安置するだけである。この10ヶ月の間に麹菌が大豆のタンパク質を分解し発酵することにより、それらがぶどう糖やアミノ酸に置き換わり、塩辛い大豆の集合体が甘くて旨味のある味噌なる食品へ変貌を遂げるのである。日本の伝統的な発酵文化はまさに「目に見えないもの」と良い関係を築くところに生まれている。
味噌を寝かして1ヶ月ほど経った頃、沖縄県の宮古島に出張する機会をいただいた。宮古島には宮古味噌と呼ばれる麦麹からなる味噌が存在するということを事前に教えてもらっており、味噌作りを経験していて興味もあったので、これを期に現地の味噌蔵(マルキヨ味噌:https://marukiyomiso.jp/)を訪ねることにしたのである。
店主のご夫婦に「目に見えないもの」に興味があるという話、味噌づくりをしてみたという話をしたら、せっかく遠いところから来たんだから、ということでありがたく醸造スペースを見学させてもらえることになった。
「目に見えない」ということは、単に可視光域の外側というだけの問題ではない。このように、人間が認識できるスケールを甚だ逸脱した場合にも認識不可能という意味で「目に見えないもの」となってしまう。発酵の様子を肉眼で見ることはできないが、微生物のような小さきものが実際に存在たらしめている証拠の一つに発酵からなる味噌という人間にも認識できる現象があるのだ。
微生物は普段意識には上らないが確実に存在し私たちと共に生きている。人間にとって良い関係を結べる微生物は、発酵という「形」で認識され、人間にとって良い関係を結べないような微生物は腐敗という「形」で認識できるに至っている。
「目に見えないもの」の論理は人間の論理とは全く違う様相をしているが、発酵文化が示すように、そのフィールドは地続きにつながっている。微生物の論理を妨げない形で、うまく人間の側の論理を通すことができれば、発酵文化のように、どちらも共存しながら持続していけるのではないか。
認識の解像度を高めて一つずつ互いの論理をすり合わせていくことができるのであれば、潔癖的な態度が取りこぼしてしまっている、広くて緻密な世界の方へと抜けていけるのかもしれない。
試論「目に見えないものを直観する」(不可視かつ認識できないもの)
言語化した上記2つの実践以外にも、自分がしていること、してきたことはたくさんあるがその個別の言語化は追々進めていくことにする。
(建築の話、仏教の話、料理の話、制作の話、アートの話、生き物の話、家族の話、音楽の話、読書の話、映画の話、科学の話)
しかし不思議なことに別々のカテゴリーであるはずのこれらの話が、何段回か抽象的なレベルでは「同じ」であるように感じられることがたまにある。例えば「料理をする」ことと「建築を設計すること」は材料とタイムスケールは違えど似ているし、「部活の厳しい練習」は「禅の厳しい修行」に似ている。「科学」と「言葉」もロジックで物事を考えていくという部分で似ている。そして「天体撮影」と「味噌作り」は目に見えないものという軸で似ているのだ。
他の人はどう感じているかはわからない。わからないのは自分の身体を通して得た生身の感覚から直観される唯一無二のことだからである。自分が日頃接している環境は他者とは違う、であるならばそこでの学びは十人十色だ。そうした自分の実践の連続を1本の線に例えて、それが複雑に絡まっていくさまを人類学者のティム・インゴルドは『メッシュワーク』と名付けている。非常に興味深い。
自分の中で浮上してきたこれらのカテゴリーはインゴルドのメッシュワークの結び目に当たる部分である。自分の1本の実践が行ったり来たりしながら複雑に絡み合い、あらゆるコンテクストにさらされることで一つの話題という結び目の「形」を成したのだ。
それらは今後も死ぬまで続いていくだろうし、結び目も増えたり解けたりながら変わっていく。
インゴルドは「ネットワーク」的なものを忌避しているようにも思えるが、自分は肯定的に捉えている。それは自分の内面を構築していく手段であるからだ。ネットワーク的な考え方として代表的なものは、やはりブリュノ・ラトゥールの『アクターネットワーク』だろう。
『メッシュワーク』は実践に基づいているため嘘偽りはない。あるのは解像度が高いか低いか、広範囲をカバーしているか、していないかということに尽きる。一方『アクターネットワーク』は実践に基づいていない。机上の空論だ。机上の空論であるために必ず全体像を導き出せるのが良い。関係性を自分の内面においてのみフィクションとして完全に記述することができるのだ。しかしそれは実践が伴わない自分の内側だけのものであるため、外部と関係を持った時点で嘘になってしまう。なぜなら他者の内面を完全に知ることはできないからだ。想像しながら自分の内面にネットワークをつくっていくしかない。
重要なのはその両方を使って、世界をなるべく広範囲かつ精細に把握していくことのような気がする。メッシュワーク的実践における「結び目」とアクターネットワーク的記述における「アクター」を往復しながらなるべく一致させるということである。
こうして実践と記述を往復して「メッシュワーク」の結び目と「アクターネットワーク」のアクターが一致するようになったとき、冒頭で記述した、目に見えない"直観"が働き出す。"目"には見えないし"頭"で認識もできないが、"身体"がそうあることのみを望んでいるような、それ以外の有り様ができなくなるくらいの腑の落ち方をする。
目に見えないものをすべて把握することはできないけれど、部分的になら自分の体を通して直観することもある。その直観を頼りに、更に実践と記述を積み重ねていきたい。