中里介山の「日本武術神妙記」にはこんな記述がある。
僕は相手が動いて隙ができたところ,相手が打ち出すところを打つ稽古をしている。それだと遅いということだ。特に相手が打ち出してから打つ場合,技量が同じであれば,必ず先に打たれる。そういう稽古をしているのは,打たれる稽古をしているようなものだ。相手が動いて隙ができる,相手が打ち出す。これを待っているというのは,主体的か受動的かでいえば,受動的だ。相手が動いて,それにつられて自分が動いている。自分がない。
十分に準備をして,そこだと思ったら,自分から打つ。そんな稽古を明日はしてみよう。