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【読書】『夜露死苦現代詩』 都築響一 ちくま文庫(2010)

都築響一の本は、「ちくしょー」と悔しくなる、と書いたことがある。
なんでだろう、という都築響一論はとりあえず置いといて、この本を読んでも悔しいのだ。

 
僕にとって、「詩」は長いあいだ関係のない分野だ。
ちょっと、知っているのは宮沢賢治の代表作と小学校、中学校で習った俳句、短歌くらい。
この本にあるように歌の歌詞を入れると、もうちょっと多くなるけど、それはカラオケで歌っているうちに覚えたもので、メロディなしで味わったことはない。
 
「詩」を「うた」としたときに、白川静の『詩経』(白川静 中公新書 1970)に気になることが書かれている。
この本は中国古典である「詩経」と日本の古典である「万葉集」の類似性から古代歌謡について掘り下げたものだ。
 
『詩経』と『万葉集』とは民謡から展開した歌謡である。その点では、特定のえらばれた司祭者や予言者、あるいは語部的なホメリダイ(注:ホメーロスの叙事詩をギリシャ各地に歌い広めた吟遊詩人)の手になる他の古代歌謡と異なる成立をもつといえよう。それはひろい発生地盤をもつ、民衆の生活の中から生まれた。(P12)
 
歌謡は神にはたらきかけて、神に祈ることばに起源している。そのころ、人びとはなお自由に神と交通することができた。そして神との間を媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそういう時代に生まれた。(P19)
 
『夜露死苦現代詩』での「詩」は書かれた文字であるけれど、すべて「ことば」として発せられるものが文字となっているだけで、元は「ことば」だ。
今の僕らには、神と交通することはできないけれど、古代では民衆の生活のなかにあったのであれば、僕らにはこういった能力が残されているのかも知れない。
本「第1章 痴呆系」を読むと、そうとしか思えない。
 
そして、とても乱暴な推論でいうと、本書「第9章 最大の印税が最高の賞賛である」にあるアメリカ発祥のヒップホップが世界を席巻している現在をみると、人間本来の持つ能力かも知れないなどと思う。
 
冒頭に戻るけれど、格好をつけて白川静の引用をしたのではなくて、「詩」とは何か、を知らなかったのだ。
世の中知らないことだらけ、こういったことを教えてくれる都築響一に嫉妬するのであった。

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