【第26回】分業してて何が悪い? 興味の性差(4)
そんなにダメかな…?
前回は先進的な男女平等社会とされる北欧諸国においても、労働市場でははっきりと性別による棲み分けがあり、むしろそれゆえに管理職など指導的なポジションに女性が多いのだという実情を述べた。
さて、このことをどう評価するかである。前回、KY氏の『ジェンダーギャップ指数というザル指標で見落とされてしまう差別』という記事をとりあげたが、タイトルのとおりKY氏はスウェーデンに見られる業種別の男女比の偏りを「差別」だとして批判している。
文面から察するに、KY氏は「スウェーデンでは男性も女性も旧来の性役割分業を強いられており、これは本当の意味での平等ではない」と考えているようだ。
たしかに「目指すべき男女平等社会」として一般にイメージされるのは、「民間企業に男性と同じくらいの割合で女性が勤務し、女性も中核的なポジションで会社の売上に貢献し、管理職も半数近くが女性である社会」といったところだろう。
スウェーデンも含めた北欧の実態はこれとはかなり異なり、女性就業者の半数くらいが(民間企業より競争が少なく家庭と両立しやすい)公的機関に勤め、そうした職場は女性ばかりなので女性の管理職も多い、といったものである。
社会学者の筒井淳也が2005~2009年のデータを集計したところ、スウェーデンでは女性就業者の5割以上が公的部門に雇用されており、そのうち最も構成比が高いのは「サービス・販売職」(約32%)であった。サービス職のうち7割弱が介護関連のケアワーカー、2割程度が保育職で、合わせて9割近くが広義のケアワーカーということになる。2番目に構成比が高いのは「専門職」(約27%)で、その多くは教員である〈1〉。女性が参入しやすい仕事を政府が大量に供給し、多くの女性を比較的高待遇で雇用しているのだ。
これは公共部門が極端に大きい北欧だからこそ可能な在り方である。これをもって「うちの国では女性の社会進出が進んでます。たくさんの女性リーダーが活躍してます」と胸を張られても、「別にウソではないけど、なんかイメージと違うな… 」とは思う。
しかし一方で私には、こうした「業種ごとに男女比が偏っている状態」そのものは、KY氏が言うほど悪いことには思えないのだ。
国民はそれほど不満を感じていないのでは
北欧諸国が公共部門に女性を大量に雇い入れるようになったのは1970年代からであり、これはおそらく国家的な政策として実施されたのだろう。その結果、前回述べたとおりこれらの国では「男性は民間部門、女性は公共部門」というゆるやかな分業状態(先ほどの筒井はこれを「性別職域分離」と呼んでいる)が成立したようだ。
これにより、女性にとっては民間企業への参入障壁が若干高くなっているようで、民間では女性の管理職はそれほど多くない(といっても、日本よりは多いのだろうが)。これには育児休業制度が非常に充実していることも関係しているようだ。女性が簡単に長期の休業をとれるため、民間企業の経営者は女性を積極的に採用したり、責任ある地位に登用したりするのを避ける傾向にある、と指摘する研究者もいる〈2〉。
とはいえ、巨大な公共部門がケアワークを全面的に担うからこそ女性の働き方が制限されずに済むのだし、手厚い育児休業制度があるからこそ女性が子育てのために離職せずに済むのであって、こうした弊害は「女性の働きやすさ」と表裏一体だと言える。あらゆる人の利益に適う完璧な社会設計は不可能なので、このような社会構造を採用している以上、やむをえない事態であろう。
北欧諸国の人々がこの性別職域分離に強い不満を抱いているという話は今のところ聞いたことがない。おそらくだいたいの国民は大枠ではこの体制を支持しているのではないだろうか。
職域の分離が自由な職業選択を可能にしている
前回述べたとおり、北欧では「職域」だけでなく業種や職種においても、他の国と同様、分野ごとに男女比の偏りが見られる。これについては2通りの見方ができると思う。
一つは、単にこれらの国々においても「〇〇は男性の仕事」「〇〇は女性の仕事」というジェンダーバイアスが根強く残っている、という見方。
もう一つは、性別による職域分離があるからこそ職業選択の自由度が高い社会が実現されており、人々の本来の選好が反映された結果として男女比の偏りが発生している、という見方。
どちらが正しいのだろうか。わからない、両方正しいのかもしれない。ただ、この連載の趣旨に照らして私は後者の可能性に注目したい。
よく知られているように、北欧は社会保障が極めて手厚く、教育も医療も老後の生活も国が面倒を見てくれる社会である。そして、これまで述べてきたとおり、公共部門に雇用された多くの女性たちが介護職や保育職や教員、行政事務に従事することで、この高福祉社会の維持に大きな役割を果たしている。KY氏の批判は、女性の活躍がこのような(もともと女性が進出しやすい)分野に偏っている、というものであった。
とはいえ、全ての女性がこうした仕事に就いているわけではないし、これらの仕事に従事している女性たちだって別に嫌々やっているわけではなかろう。女性全体としては、ケアワークの外部化によって育児や介護の負担が大幅に軽減されており、特に民間部門で働こうとする女性たちにとっては職種や働き方を自由に選びやすい社会環境にあるとも言える。
また、これは男女両方に当てはまることだが、子供の教育費や老後の生活費の心配をせずに済むこれらの社会では、経済的な安定のためにあまり興味のない分野の仕事に就いたり、本心では望んでいない働き方を仕方なく選んだりする人は少ないのではないかと思われる。
なんと言っても大学はタダ
KY氏は男性の高等教育就学率が女性と比べて大幅に低いことを問題視しているが、これをもって「男性が対等に扱われていない」と言えるのか疑問である。以下の記事によるとスウェーデンでは大学生の数をなるべく男女同数に近づける政策がとられてきたようだ。
アファーマティブ・アクションが批判されるとき、通常は「女性の数を増やすために、能力のある男性が締め出されてしまう」ことが問題とされるが、この記事によると、むしろ「(一部の学部では)男性の数を増やすために、能力のある女性が締め出されてしまう」という事態が起こっており、それが批判されているという。これを受けてスウェーデン政府はこうした措置を撤廃する方針を打ち出したとのことである。
これは2010年の記事であり、その後どうなったのか定かではないが、政府や各大学が「男性が少ない学部には男性を増やそう」と頑張っていたことは確かである。
にもかかわらず、高等教育全体で男性の方が少ないということは、もとから大学へ行こうとする男性の割合自体が女性と比べて低いということではないだろうか(記事には「大学生の約60%を女性が占めている」とあり、すでに2010年時点で女性の方が多かったことがわかる)。ならば、「男性が差別されている」とは言えないだろう。
北欧諸国では公立大学(スウェーデンでは私立大学も)の授業料は無料であり、経済的な事情で進学を諦める男性が多いとも考えにくい。また、リカレント教育が盛んであり、高校を卒業後に何年か働いてから大学に入ったり、働きながら大学に通ったりすることも普通である。性別・年代に関わらず学び直したり転職したりするチャンスが豊富なのだ。
本人たちの希望がかなり反映されているのでは
何が言いたいのかというと、おそらくこれらの国では他の国と比べて相対的に多くの人が自分の希望に合った職種や働き方を選べているのではないだろうか。少なくとも本人の努力次第で希望の仕事に就ける余地が大きい社会ではあると思う。個々人が自由に職種や働き方を選んだ結果として、ある職業が男性ばかりになったり、逆に女性ばかりになっているのだとしたら、それ自体は悪いことではないだろう。
私は前回と前々回で「(平均して)男性は『物』も含めた『無生物』全般にかかわることに惹かれ、女性は『人』も含めた『生物』全般にかかわることに惹かれる傾向がある」という見方を示した(第24回で述べたとおり、Prof.Nemuro氏の見解を取り入れている)。
前回の記事を見ていただくと、北欧諸国で主に男性が従事している職業と主に女性が従事している職業は、それぞれ「物と関わるか、人と関わるか」「無生物系か、生物系か」という区分にほぼ対応していることがわかる。
前述のとおり、総合的に考えて北欧は他の欧米諸国や日本と比較しても職業選択の自由度が高い社会だと思われる。そうした社会でもこのような偏りが発生するという事実は、この男女の平均的な選好の違いが生得的なものである可能性を示しているのではないだろうか。
意欲と能力のある人がやればいい
人と職業とのマッチングにおいては、選好(やりたいと思うか否か)だけでなく適正(できるか否か)も極めて重要である。
建設作業員や職人、インフラ関係の現場労働に男性が多いのは、平均的に言って男性の方が女性より筋力や持久力に優れておりそうした仕事に向いているから、というのも大きな要因として当然あるだろう。
農林水産業は、扱う対象が農作物や家畜や魚介類であるという意味では「生物」系と言えるが、仕事内容においては農業機械や林業機械や漁船の操作に長ける必要があり、その意味では「物」系である。また、やはり体力勝負な仕事だということもあって男性の従事者が多数派なのだろう。
仕事への意欲や適性には、男性にも女性にも大きな個人差があるので、女性でも例えばトラックの運転に興味があり、しかも向いているのならトラックドライバーになればいいし、男性でも例えば子供が好きで勉強を教えるのも好きなら小学校の教員になればいいのである(日本は小学校教員の男性割合が比較的高い方だが、海外では女性割合が圧倒的に高い国が多い〈3〉)。
この「『やりたいこと』の性差」シリーズも随分長くなってきたが、全体として私が言いたいことは割と平凡である。どんな仕事も、性別に関係なく意欲と能力のある人がやればよいのだ。また、より高い意欲と能力を持つ人がより評価されるべきであり、その結果ある分野が男性ばかりになったり女性ばかりになったとしても、基本的には問題ないと思う。
「基本的には」と言ったのは、全く問題がないわけではないからだ。例えば男性が極端に多い業界では
・その分野に対して意欲と適正を持つ女性がいたとしても、新たに参入しづらい
・圧倒的少数の女性に対してセクハラやパワハラが発生しやすい
・製品やサービスに女性の視点や選好が反映されにくい
といった弊害が発生しうるし、職場によっては実際そうなっている所もあるだろう。さすがに男女比が例えば95:5くらいに著しく偏っている場合は女性枠を導入したり増やすことが検討されるべきなのかもしれない。ただ、これは仕事の性質や、潜在的にどれくらいの数の女性が参入を望んでいるかにもよるので、各分野ごとに個別の判断が必要だと思う。
注
〈1〉筒井淳也『仕事と家族 —日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか—』中公新書、2015、p.15-18
〈2〉前掲書、p.125-126
〈3〉『小学校教師の男女比率の国際比較(2018年)』社会実情データ図録
http://honkawa2.sakura.ne.jp/3852.html