舞台 「未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」ー」 観劇レビュー 2021/06/19
【写真引用元】
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公演タイトル:「未練の幽霊と怪物ー「挫波」「敦賀」ー」
劇場:神奈川芸術劇場 <大スタジオ>
作・演出:岡田利規
出演:森山未來、片桐はいり、栗原類、石橋静河、太田信吾、七尾旅人(謡手)
公演期間:6/5〜6/26(東京)、6/29・30(愛知)、7/3・4(兵庫)
上演時間:約125分(途中休憩15分)
作品キーワード:能、音楽劇、コンテンポラリーダンス、生演奏、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★★★☆☆
岸田國士戯曲賞受賞経験のある、チェルフィッチュ主宰の劇作家・演出家である岡田利規さんの演出舞台を初観劇。
今作は本来なら昨年6月に上演予定だったが新型コロナウイルス蔓延による自粛要請にて延期となり、オンライン演劇版を昨年上演していたが、満を持して今年に劇場で延期公演という形で上演されることになった。
今作は、ダクソフォンという楽器と囃子を用いて能と音楽劇を融合させたような舞台作品であり、国家権力によって廃棄された建築物の鎮魂を、音楽と歌、そして能とコンテンポラリーダンスで表現するという芸術性の高い作品となっている。
今作は「挫波(ザハ)」と「敦賀(つるが)」という2幕構成になっており、「挫波」では新国立競技場のデザインとして採用されるはずだったが途中で廃案となった、建築家ザハ・ハディドのデザインの鎮魂が描かれ、後半の「敦賀」では福井県敦賀市の白木海岸に存在する次世代の原子力発電「高速炉」と讃えられるも、福島第一原発事故等で廃炉となってしまった「もんじゅ」の鎮魂が描かれている。
この建築物に対する鎮魂が、前者は森山未來さんを、後者は石橋静河さんを能のシテと捉えて踊ることによって、その建物たちが「未練」を持って観客たちに訴えかけてくる光景に息を呑んだ。
さらに、そこに重なってダクソフォンや囃子、そして七尾旅人さんの歌声が、日本の古典文化要素を残しつつ現代的に再構築された新しいアートのように感じられて、物凄く芸術性の高い作品に感じられた、正直こんな作品には今まで出会ったことなかった。
ダクソフォンの音色が建物たちの幽霊の叫び声に感じたり、新国立競技場から響くドリルのような音が、そこに存在するはずだったザハの競技場の痕跡を打ち消していくように感じられて苦しく感じたりと、凄く聴覚的に訴えかけるものが多かった。これは最前列で観劇できて本当に良かった。
コンテンポラリーダンス、音楽劇、能が好きな人にはオススメしたい作品。
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【鑑賞動機】
昨年の6月に上演されるはずだった頃から、フライヤーを見ながらこの作品は絶対観劇したいと思っていたから。理由としては、岡田利規さんという有名な方が演出をされているという点、森山未來さん、栗原類さん、片桐はいりさんといった著名な俳優が出演されているから。特に森山未來さんの演技は、以前友人が絶賛していたので非常に楽しみにしていた。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
構成としては、前半に「挫波(ザハ)」、そして途中休憩を挟んで後半に「敦賀(つるが)」という形になっている。
「挫波」
2018年4月中旬、一人の観光客(太田信吾:ワキ)が歩いてやってくる。彼は日本の桜を期待して観光に来たようだが折しも4月中旬だったため既に散ってしまっていた。
観光客は現在建設中の新国立競技場を眺める。するとそこには、同じく新国立競技場を眺める男(森山未來:シテ)がいることに気がつく。観光客はその男に話しかけると、どうやらその男は日本の建築家だったようであり、この新国立競技場に対して未練があるようである。
現在建設中の新国立競技場は当初からこのデザインであった訳ではなく、女性建築家のザハ・ハディドのデザインが採択されるはずだった。彼女の新国立競技場のデザインは流線型でとても滑らかで日本の建築物にはあまり見られない現代的なデザインだった。しかし、ザハ・ハディドのデザインを採択すると建築費用が大幅に膨れ上がってしまう上、東京オリンピック開催後も考慮した、多目的な競技場であること、太陽光発電といった次世代の機能を設置したいという機能面から、彼女の案は白紙撤回されてしまった。その後、彼女は死去している。
ザハ・ハディドの案を後押ししていたその建築家にとっては、この現在建設中の新国立競技場を見る度にザハ案の競技場の虚栄を重ねてしまって複雑な気持ちを抱くのだと。
彼はそう語りながら踊りだす。
建築家が去った後、ジョギングをしていた近所の女性(片桐はいり:アイ)がやってくる。彼女は、観光客が建築家と話していた所を見て彼について語りだす。彼は、いつも新国立競技場を眺めに来ては物思いにふけるような様子なんだと。ザハのデザイン案が白紙撤回されてから、もうその夢見てきたモダンで現代的なアートのような流線型の新国立競技場が建設されることがなかったとしても、その未練だけは胸の内に秘めていて、この現在建設中の新国立競技場を見ながらずっとその幻想を頭の中でイメージしているのだろうと。
近所の女性が去り、透明な面をつけて薄いローブのような衣装をまとったザハ・ハディド(森山未來:後シテ)がやってくる。
彼は、ダクソフォンの音色と囃子と、そして建設中の新国立競技場から響いてくるドリルのような音に合わせて能のように踊りだす。七尾旅人さんによる歌声も入る。ザハのデザイン案は採択されず、別の案が採択されて建設が始まってしまった新国立競技場への未練の幽霊を体現するかのような踊りと演出がなされる。
ここで途中休憩が入る。
「敦賀」
福井県の日本海側の海岸をドライブする旅行者(栗原類:ワキ)がいた。対向車はなくただひたすらと一人で自動車を走行していた。やがて、車は森に入りそこを抜けた白木岬の所で車を降りた。
そこには、「もんじゅ」という原子力発電所の中でも「高速炉」と呼ばれる次世代の原発と称された建物が建っていた。旅行者はずっと一人だと思っていたが、その建物の所に一人の女性(石橋静河:シテ)が波打ち際に立ち尽くしていることに気がつく。
旅行者は恐る恐る彼女に声をかけると、その女性は海を眺めながら「あの子ほど報われない存在はない」と嘆いていた。その「あの子」とはどうやら「もんじゅ」のことらしく、「もんじゅ」は以前は期待を背負った優秀な「高速炉」として注目されていたが、今ではもはや使われることのない廃炉となった原発として日の目を見ることはないと彼女は悲嘆していた。
彼女はそう語りながら踊りだす。
彼女が去った後、近所に住む女性(片桐はいり:アイ)がやってくる。近所に住む女性は、見慣れない顔だと思いすぐに男が旅行者だと気が付き話しかけてくる。
旅行者が「もんじゅ」について近所に住む女性に訪ねると、彼女は「もんじゅ」については、よそ者が知ったような顔で話してくるもんじゃないと、以前の「もんじゅ」を知る地元の住人にとっては深い思い入れのある建造物なんだと語り始める。
この白木岬に「もんじゅ」の建設の話が上がったのは1960年代のこと、「もんじゅ」は次世代の原子力発電所として知られる「高速炉」の建設ということで地元民たちにとっては大きな盛り上がりを見せた。なにせ、この地元敦賀に原発が建設されればこの周辺の地域だけでなく広い地域の生活を支える訳で、大きな社会貢献が実現され地域活性化にも繋がるからである。当時の敦賀は過疎化が深刻化しており、その社会問題を解決させてくれる希望のようなものに「もんじゅ」はなっていた。しかし、それは20世紀までのお話だった。
21世紀に入ると、ナトリウムの漏洩問題や原発事故によって「もんじゅ」の安全性が疑問視されるようになっていた。さらに、3.11も起こり完全に原発稼働停止の運動が起こるようになり、この「もんじゅ」も廃炉処分となってしまった。
現在「もんじゅ」は稼働することなく、かといって解体されることなくそのまま白木の岬にポツンと建っている。以前は地元の夢として、期待され注目された「もんじゅ」は今となっては誰も注目することのない廃炉されたただの過去の建造物となっていた。
近所に住む女性は去り、透明な面をつけて薄いドレスのような衣装をまとった核燃料サイクル政策の亡霊(石橋静河:後シテ)がやってくる。
彼女は、ダクソフォンの音色と囃子と、そしてまるで原子炉の中にいてすぐそばで原子炉が稼働しているかのような音に合わせて能のように踊りだす。七尾旅人さんによる歌声も入る。今後地元を活性化させることのない潰えた夢を背負った「もんじゅ」の未練の怪物を体現するかのような踊りと演出がなされる。
ここで作品は終了。
「挫波」も「敦賀」も、ワキと呼ばれる旅行者が現れ、建造物の未練の幽霊・怪物を体現するシテが現れ、その後にアイと呼ばれる脇役による解説がなされ、最後に再びシテが透明な面と薄い布をまとって音楽とともに能を演じることによって終了するといった構成。
作品のメッセージ性としては、それぞれただ一つなのだが、それを音楽と能とダンスによって演じられることによって、終始飽きることなく目が釘付けになって惹きつけられた。
このワキ、シテ、アイという登場人物の構成は能由来のものとなっているが、非常に能のようで能でないというか、現代演劇と組み合わさって出来た作品であるため、能ということで敷居の高さは感じられなかったし、逆に能とはそういった構成になっているのかと勉強にもなった。
誰もが馴染みのある新国立競技場と原発の話なので、非常にテーマも掴み取りやすかったし、未練の幽霊と怪物の叫び声をまじまじと汲み取ることが出来たよい脚本だった。
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ステージナタリー
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【世界観・演出】(※ネタバレあり)
今作は、舞台装置と照明の吊り込みが全く存在せず、音響・生演奏と歌とその他演出のみといった感じである。
照明は最後の「敦賀」の場面で後シテがはけるタイミングで暗転して、非常灯が点滅する演出があったくらいである。照明がなくても、舞台は成立していたのでこんな作品もアリなんだと思ったくらい。
音響、その他演出の順に見ていく。
まずは、今作の一番の醍醐味とも言える音響から。
音響には、スピーカーから流れる効果音的音楽と、生演奏による音楽、そして七尾旅人さんによる歌があるのでそれぞれについて見ていく。
まずは生演奏による音楽から見ていくが、舞台中央に横並びに3人の奏者が座っており、下手側から吉本裕美子さん、内橋和久さん、筒井響子さんの順であった。彼・彼女らの周囲には様々な楽器が並べられており、それを見るだけでもこれから摩訶不思議な音楽劇が始まることを感じさせる雰囲気を作っていた。
というのは、その舞台上に並べられている楽器たちがどれもユニークなものばかりだったからだ。まず、吉本さん筒井さんが座る席には能でいう囃子の打楽器のような、叩くと「コーン」と日本の古典音楽に登場しそうな楽器が据え置かれており、中央に座る内橋さんの周囲には2台のエレキギターと、一枚の板に様々なボタンが付けられていてそこを押すと不思議な音が鳴るみたいな、ちょっと何という楽器かさえも分からない楽器が置かれていた。さらに3人の席にはダクソフォンという、今作の目玉となる楽器が置かれていた。
ダクソフォンとは、バイオリンの弓のような形をした楽器で、それをある物体に対してくっつけて引くことによって、「ヒューン」とまるでクジラが鳴いているかのような不思議な音色を奏でてくれる。そしてこの弓の引き方によってその音色は様々に変わるという変わった楽器である。このダクソフォンが、非常に今作の舞台の世界観とマッチしていて素晴らしかった。ダクソフォンから響き渡る音色は、非常にこの建物たちの叫び声であったり悲壮感を物語っていて、さらに能という古典芸能にも非常に相性の良い音に感じられて素晴らしかった、まさに未練の幽霊と怪物と言った感じ。
また、吉本さん・筒井さんが奏でる囃子の打楽器のようなものも良くて、これが入ることによって一番能らしく感じられた気がした。
内橋さんのエレキギターも、非常に哀愁漂う印象を感じた。ただ、片桐はいりさんのモノローグとエレキギターが被るのだが、それによって片桐さんの台詞がかき消されてしまった箇所があって聞こえなかったのが少し残念だった。音量のバランスは難しいと思う。
奏者は全体的にカーテンコールでキャスト陣たちと混じってお辞儀をしていたのもあり、もはやキャストの一員に感じられた。特に、内橋さんが「挫波」の終盤でダクソフォンを大きく振り払う演技で場が引き締まるシーンがあるが、これはもはや内橋さんもキャストの一人だと思った。それくらい奏者が役者として融合していた。
次にスピーカーから流れる音響、というか音楽という訳ではなく効果音を組み合わせた音響といった感じなのだが、こちらは生演奏でカバーしきれない楽器や音を流していたという印象だった。
特に印象に残ったのは、「挫波」の終盤の後シテが能を演じるシーンで、新国立競技場の建設音によるドリルの音がリズミカルに流れて、それに合わせて後シテが能を演じている箇所が物凄く印象的だった。ドリル音が良い感じにリズムを打って音楽として成立させていることと、本来ならザハ案を採用して欲しかったという願望を潰すかのように新国立競技場が現在進行系で建設されているという現実を強く突きつけている感じがあって非常に素晴らしい演出に感じた。
「敦賀」では、まるで我々が原子炉の中にいて「もんじゅ」が稼働しているかのような効果音がリズミカルに流れていて、それに合わせて後シテの石橋静河さんが能を演じている場面が良いと思った。
最後に、舞台の上手側で歌を歌っていた七尾旅人さん。
彼が歌う歌詞には、シテとして能を演じる者(「挫波」だったらザハ・ハディド、「敦賀」だったら核燃料サイクル政策の亡霊)の気持ちを代弁するかのような内容で、よく耳をすませているとそこには悲壮感と苦しさを感じられる。訴えかけるような、未練を物凄く引き摺ったような感じを受ける歌い方で心に響いた。
また七尾さんの歌い方が独特で、語尾を伸ばすものが多く、ちょっと仕掛けは分からないが七尾さんの足元にあるペダルのようなものを踏むことによって、その語尾がエコーのように「ウアンウアン」と響き渡る演出が面白かった。
途中ゴスペラーズのように一人でリズムを踏みながら歌う箇所もあって、歌い方にも強弱や多様性があった。
最後にその他の演出について見ていく。今作は能の形式をベースとした作品なので、そちらに対する解説は考察パートで触れることにして、それ以外の箇所を見ていく。
少し気になったのが、「敦賀」のワキである栗原類さんは普通の演者といった演技だったのだが、「挫波」のワキである太田信吾さんは演技をしながら軽く体をくねらせたりとコンテンポラリーダンスに近い身体表現をされていたことである。何か特別な意味があったのかどうかは分からなかったが、序盤でそういった身体表現を使いながら物語が始まったので、凄く特殊な作品のように最初から感じた。
また、ワキが語るモノローグは非常に情景の浮かぶ台詞が多くて非常に好きだった。例えば、「挫波」だったら4月中旬の桜がとっくに散っている頃で、千駄ヶ谷の新国立競技場建設期と聞いただけで、非常に建設中の新国立競技場の姿と音が思い浮かんでくる。「敦賀」だったら、福井県の白木海岸を対向車もなく一人で車を走らせて、森を抜けた岬の所で車を降りて海岸へと聞いただけで、静かな田舎の海岸沿いを思い浮かべられる。その向かいには稜線が広がりと言われれば丘のようなものをイメージ出来る。そういったイマジネーション力の高い台詞を心地よい速度とタイミングで発してくれるからこそ、情景が思い浮かんで色々と風景を想起させられて非常に贅沢な時間を過ごせたと感じられた。
【写真引用元】
ステージナタリー
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【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
豪華キャストかつハイレベルな演技力を持つ俳優陣だった。「挫波」「敦賀」の順に全キャストについて触れていく。
まずは、「挫波」でワキを務めた太田信吾さん。太田さんは普段映画監督として活躍されているそうだが、今作ではキャストとして参画している。
彼の演技で印象に残ったのは、脱力感のあるけれど何か惹かれるものを感じる演技と、奇妙に体をくねらせながら演技をするという点である。先述した通りなぜワキまで体をくねらせて演技をしているのか分からなかったが、特に序盤でのシテ(森山未來さん)とのやり取りは、お互いうっつらうっつらと体を奇妙に動かしながら対話しているので、非常に印象に残っている。
終盤で、完全にシテが舞台中央で能を踊りだすシーンで、ワキの太田さんは舞台の隅でそれをただ眺めるといった構造になるのだが、この存在感を上手く消すという演技も素晴らしいと思った。能において、ワキがしっかり存在感を消してシテに舞台の座を譲って演じさせることが重要とされているそうだが、そこをしっかりとワキとして全うしている感じがあった。
次に一番今作で注目していた、「挫波」でシテを演じた森山未來さん。実は初めて森山さんの演技を拝見したのだが、最前列中央で観劇したということもあってとにかく彼の能というかコンテンポラリーダンスに魅了された。
まず体が物凄く柔らかくて、どうやったらそんな格好出来るんだよというくらい体をくねらせて演じてみたり、正座のまま上半身を完全に後ろに倒して上下させたりと、恐ろしくハイレベルな身体表現を観させられたと言った感じだった。凄く迫力を感じた。
上記は「挫波」終盤のザハ・ハディドの能のシーンだが、序盤の一人の建築家としてのシーンでは、ゆっくりゆっくり体を丁寧にくねらせて身体表現する箇所が印象に残った。また台詞も、まるで力の抜けたかのようなでもそこにはしっかりと惹きつけられる力のある得体の知れない魅力を感じさせられた。ただただ素晴らしかった。
「挫波」と「敦賀」の両方のアイとして登場した片桐はいりさんは、この作品の中では浮いている感じのちょっとコメディ要素のある演技が素敵だった。客席からも彼女のシーンでのみ笑い声が聞こえた。
片桐さんはとても口角を上げて台詞を発される役者で、非常にひょうきんな印象を感じた。どちらも近所の住民という設定で登場するが、見ず知らずの人間にもタメ口で平気で語りかけてきてしまうくらいの図々しさと、滑稽さを兼ね備えたキャラは非常に片桐さんの役として合っていた。
しかし、ちゃんとそこにはアイという役柄をしっかり担っていて、物語の重要要素を一歩後ろに引いた俯瞰した状態で語る感じが非常に能らしさを上手く醸し出していたんじゃないかと思う。
この流れで、「敦賀」の方に移るが、こちらのワキを務めた栗原類さんは、ちょっと固い印象を受けた。
少し片言で、おそらく外国から来た訪問客だろうという設定は、衣装のシルクハットも相まって良かったのだが、ちょっと太田さんと比較して自然でない感じがあって、もう少し洗練して欲しかった。
しかし、「敦賀」でシテを演じた石橋静河さんには驚いた。私自身石橋さんという女優の存在すら知らなかったのだが、TBSドラマ「この恋あたためますか」などに出演されている有名な女優さんだった。
凄く透明感のある女優さんで、「敦賀」の最初のシーンでコンテンポラリーダンスをするシーンで彼女の身体のしなやかさに惹かれた。当たり前だが森山さんとは全く違う、女性らしいなめらかなダンスが、迫力というよりかは癒やしという形で安らかなものに感じられた。
さらに、終盤の能のシーンではまず体の透けるドレスを着ていてそれが非常に女性としての魅力を十分に感じさせられた。「敦賀」の最初のシーンが割と私服といった衣装だったので、ここで割と肌着以外脱いだ状態で透けるドレスを着ていたので、ぐっと異性としての魅力に惹かれた。
そこからの、なんともしなやかな能のパフォーマンスは時が経つのも忘れるくらい釘付けになっていた。特に終盤で音が盛り上がってさらにダンスも盛り上がるといった箇所があったが、まだいくのかと思わせるくらい限界値までパフォーマンスを披露していたという印象だった。
彼女は1994年生まれで若いので、これからの女優としての活躍が楽しみである。
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【舞台の考察】(※ネタバレあり)
この作品における考察は大きく3つに分けて書き上げようと思う。1つ目は能としてこの作品に触れた時の考察、2つ目は「挫波」のテーマについての考察、3つ目が「敦賀」のテーマについての考察である。一つずつ見ていく。
まずは、能としてこの作品を捉えて考察していく。
私自身、能を観劇したことがなく知識もゼロであったため、「シテ」「ワキ」「アイ」といった役回りも今作を観劇するまで知らなかった。
一応解説しておくと、「シテ」というのが能における主役のことであり、この役を欠いた能は存在しない。「ワキ」というのは言葉通り能の脇役なのだが、能でいう脇役は非常に重要な役回りであり、シテと会話をして話を進行させていく役となっている。なぜワキが重要であるかというと、シテが亡霊だったり怨霊だったりと人間でないことがあるため、そのシテと会話できる唯一の人間ということでワキは重要なのである。「アイ」も脇役なのだが、「ワキ」とは異なりナレーター的な立ち位置で物語を進行していく、半ば解説役的存在である。
この「シテ」「ワキ」「アイ」という役回りを理解した上で今作を改めて観てみると、たしかに「シテ」に該当する森山未來さんや石橋静河さんは人間ではなく、建造物の亡霊のような存在である。そして、ワキである太田信吾さんと栗原類さんはその亡霊と対話している。
つまり、何が言いたいかというと、森山さん、石橋さんが演じる建造物としての亡霊は、普通観客のような人間には見えないはずのものなのだが、このワキの存在を通してその亡霊を観客にも見えるような存在にしているということである。
「挫波」でも「敦賀」でもそうなのだが、最初はワキとシテが対話をする所から物語はスタートしている。その時のシテが表現する矛先はワキになっている。しかし、物語が進行していくうちにワキの存在感はかき消され、次第にシテの表現の矛先は観客に向かっていくことになる。
では果たしてこのような能の形式が、今作においてどう影響を及ぼすのだろうか。個人的には、このザハ・ハディドの新国立競技場デザイン案の白紙撤回の件と、次世代の原発「高速炉」の「もんじゅ」の廃炉の件が世間一般的にはあまり問題として取り上げられていないからこそ、この能の形式による訴えかけが有効なのではないかと思った。
どちらも国家権力によって過去に葬られて片付けられた事案である。もうザハ・ハディドの新国立競技場のデザインが採択されることはなく、「もんじゅ」が再稼働するという未来はやってこない。だからこそ、このままだと人々に忘れ去られてしまう事案だからこそ、この亡霊、未練を持って成仏出来ずにいる幽霊となって現れ、ワキを通して観客に訴えかけることによって、人々の脳裏に焼き付くことでこの事実が伝えられていくんじゃないかと思った。
そう考えると、このテーマに対して能というフォーマットを用いて作品作りをする意義というものは十分感じられるんじゃないかと思う。
【写真引用元】
ステージナタリー
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次に「挫波」のテーマである、ザハ・ハディドさんの新国立競技場デザイン案の白紙撤回について考察してみる。
実はこの白紙撤回の件についても、この作品にふれるまで私は正直存じ上げなかった。ザハ・ハディドさんという建築家の存在も知らなかった。
どうやら、ザハ・ハディドさんのデザイン案はモダンで奇抜なデザインでなかなか建設費用が膨らんでしまうために白紙撤回されたようで、代わりに隈研吾さんのデザイン案が採択されたが、その採択されたデザイン案は平凡なもので太陽光パネルが設置されたりと今後のことを考えた機能性を重視したデザインだった。
芸術家としては、やはりデザイン性を重視したザハ・ハディドさんのデザイン案が白紙撤回され、機能性を重視した隈研吾さんが採択されたことに関して、些かショックだったという気持ちがあって今作を上演するにあたったのではないかと思う。
そして、そこには国家政府の思惑も絡んでいて、彼らの意思決定によりそういった結果になったという、一種の国家によってデザインを切り捨てられたとも解釈出来るのかもしれない。
そういう意味において、ある種国家政府に対する皮肉も込められた作品だったと言って良いのかも知れない。
この流れで「敦賀」のテーマである、「もんじゅ」の廃炉についての考察に入るのだが、「挫波」のテーマと共通している点は、国家権力によって建築物が犠牲になったという点である。
「敦賀」で扱われる「もんじゅ」も、結局は安全性の観点から廃炉に向かうことになるのだが、これも国家政府の意思決定によってなされたことである。
「挫波」では、国家権力の意思決定によってデザイン性というものが否定された結果となったが、こちらの「敦賀」では国家権力の意思決定によって、地元民の夢と希望が奪われたことにある。
20世紀の頃は、過疎化の進んだ敦賀に原発が作られ、広範囲の地域の生活を支える基盤として重宝され、地域が活性化されると期待されたが、その夢は叶わず国家政府の鶴の一声によって廃炉と化してしまったのだ。個人的には、能のパフォーマンスという観点では「挫波」の方に軍配が上がる(森山未來さんの演技力の高さが大きい)が、能をフォーマットとした時の作品テーマと照らし合わせた妥当性は、こちら「敦賀」の方が適切かなと思っている。
このテーマは敦賀だけではなく福島にも通じることなんじゃないかと思う。はたまた、全国の原発設置地域についても言えることではないかと思う。
その未練というのは、時間が経つにつれて忘れ去られてしまうものかもしれない、でもこうやって能としてワキが仲介して観客に思い起こさせることによって、こうした地元民の苦しみと未練は後世まで受け継がれていくんじゃないかと思っている。
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