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舞台 「セツアンの善人」 観劇レビュー 2024/11/02


写真引用元:世田谷パブリックシアター『セツアンの善人』 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「セツアンの善人」
劇場:世田谷パブリックシアター
企画・制作:世田谷パブリックシアター
作:ベルトルト・ブレヒト
音楽:バウル・デッサウ
翻訳:酒寄進一
上演台本・演出:白井晃
出演:葵わかな、木村達成、渡部豪太、七瀬なつみ、あめくみちこ、栗田桃子、粟野史浩、枝元萌、斉藤悠、小柳友、大場みなみ、小日向春平、佐々木春香、小林勝也、松澤一之、小宮孝泰、ラサール石井
公演期間:10/16〜11/4(東京)、11/9〜11/10(兵庫)
上演時間:約2時間50分(途中休憩20分を含む)
作品キーワード:寓意劇、ファンタジー、ラブストーリー、音楽劇、不条理
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆


20世紀のドイツの劇作家を代表するベルトルト・ブレヒト(以下ブレヒト)の代表作である『セツアンの善人』を観劇。
ブレヒトは、役への感情移入を基礎とする従来の演劇を否定し、出来事を客観的・批判的に見ることを観客に促す「叙事的演劇」を提唱し、見慣れたものに対して奇異の念を抱かせる「異化効果」などの演劇理論を生み出し、戦後の演劇界に大きな影響力を与えた劇作家で、代表作に『三文オペラ』『ガリレイの生涯』がある。
今作は日本でも何度も上演されており、今回の上演では世田谷パブリックシアターの芸術監督を務める白井晃さんが演出を担当している。
私自身は、ブレヒトの作品に触れること自体が今回の上演が初めてで、白井さんの演出は舞台『ジャンヌ・ダルク』(2023年12月)以来2度目の観劇となる。
尚、『セツアンの善人』の戯曲は上演後に東宣出版の書籍で読み直している。

物語は、アジアとおぼしき架空の街「セツアン」で善人のシェン・テ(葵わかな)というヒロインを中心に、善人とは何か、お金によって幸福は訪れるのかといった現代社会を批判するような普遍的テーマを描いた寓意劇となっている。
セツアンに三人の神(ラサール石井、小宮孝泰、松澤一之)が、腐敗したこの世界の中で宿泊させてくれる善人を探しにやってくる。
水売りのワン(渡部豪太)は散々宿泊させてくれる街の人々を探し回った挙句、娼婦のシェン・テを三人の神に紹介する。
シェン・テは快く三人の神を自分の家に泊める。
感心した三人の神は、シェン・テこそがこの世界の善人であるとして大金を彼女に渡す。
シェン・テは三人の神から頂いた大金でタバコ店を経営しようと借家に住み始める。
そこへセツアンに住む貧しい八人家族たちがシェン・テの元に押し寄せてここで暮らさせて欲しいと懇願し、シェン・テはそれを許してしまうが...というもの。

まずはなんといっても舞台美術の豪華さに圧倒された。
天井にはシーリングファンのようなものが何台も取り付けられていて、飛行機の音と共にこのシーリングファンが回転し始める演出から一気に引き込まれた。
舞台装置もとてもユニークで、ドラム式洗濯機のような形をした立方体の舞台装置がいくつもステージ上には積み上げられていて、その一つ一つがセツアンの住人の住まいになっていて、この寓話的な世界観に魅了された。
水売りのワンと一緒に大量のペットボトルがステージ上に投げられる演出も斬新で、その時のペットボトルの音が、どこか空虚な世界を物語っているかのようだった。
そして音楽劇と言っても良いほどに劇中曲や劇中歌が多く、会話劇と会話劇を効果的に繋いでくれて観客としても観やすいように感じた。
しかし、後で戯曲を読むと一回の上演ではだいぶ掴めなかった重要な物語設定が沢山あり、上演1回では全てを咀嚼出来なかった点に、もう少し見せ方の工夫があったのではないかとも感じた。
良くも悪くも舞台美術の素晴らしさに釘付けになるので、ストーリーを追うことよりもそちらに意識がいってしまい、物語的に置いていかれる箇所はあったので、もっと舞台美術と脚本の親和性を高めた見せ方もあったのではという気がした。

脚本のテーマは非常に現代社会を生きる私にも突き刺さるものばかりだった。
所謂お人好しと呼ばれる善人は、確かに周囲の人から気に入ってもらえるかもしれないけれど、その善意ゆえに損してしまうことも多く生きづらくなることも多々ある。
一方で、金を儲けることを第一として生きると、金銭面では成功するかもしれないが、今度は周囲の人々の反感を買いやすくなって追い詰められることもある。
どんな人間も、この資本主義社会において生きてゆく限りは、この二つのバランスを上手く取り持つ必要に迫られるなとつくづく感じた。
自分がどうありたいかではなく、そうさせられてしまうと思った。

役者は歌も演技も全体的に素晴らしかったが、特に主人公の娼婦の女性シェン・テとビジネスマンの従兄のシュイ・タ役を演じた葵わかなさんの素晴らしさには圧倒された。
少しネタバレをしてしまうと、シュイ・タという人物は登場せず、皆シェン・テがシュイ・タに成り代わって周囲の目を欺くのだが、善良な貧しい娼婦とサバサバしたビジネスマンの男性を瞬時に早着替えまでして演じ分ける葵さんの演技スキルの高さが、今作の素晴らしさを決定づけているなと感じた。
このシェン・テ/シュイ・タの役が上手くいかないと、他がどんなに完璧でも作品の魅力を半減させてしまう極めて重要な要素だと思うが、そこが完璧に機能していて葵さんの名演に尽きると思う。

かの有名なブレヒトの代表作ということで、ぜひ多くの人に観てもらいたい舞台だと感じた。
また違う方の演出バージョンでも観てみたいと思わせる作品だった。

写真引用元:ステージナタリー 「セツアンの善人」より。(撮影:細野晋司)


↓トレーラー映像


↓戯曲





【鑑賞動機】

ブレヒトの作品はまだ触れたことがなかったので触れてみたいと思ったのと、葵わかなさんは以前舞台『パンドラの鐘』(2022年6月)で演技を拝見したことがあって、その時非常に演技が上手い印象を受けたので、今度はヒロインとして観てみたいと思ったから。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

上空を飛ぶ飛行機の音と共に、シーリングファンが回転し始めて照明も切り替わる。ステージ上には様々な人々が行き交い、ペットボトルを投げ捨てていく。ペットボトルがステージ上を転がる音がする。
そこへ客席側から大きな荷物をキャスターで引っ張りながらやってくる水売りのワン(渡部豪太)がやってくる。その荷物というのはウォーターサーバーのボトルが3つほど縦に積まれたもので、そこには蛇口がついてる。ワンはこの貧しい「セツアン」の街で水を売り歩いている。人々は、水不足になるとこぞって水を欲しがって追い求め、水が十分に足りていると水売りなんて見向きもしないとぼやく。
三人の神(ラサール石井、小宮孝泰、松澤一之)がやってくる。三人の神は、この貧民窟の街セツアンで、神々たちを泊めてくれる善人を探していた。三人の神はワンに話しかける。この街で、三人の神を泊めてくれる善人はいないかと。ワンはすぐさま街の人々に話しかけて三人の髪を宿泊させてくれるか尋ねるが、誰も泊めようとしてくれない。三人の神は、どうやらこのセツアンの街にもそんな善人は残っていないかと絶望しかけていた。
そんな中、ワンは娼婦のシェン・テ(葵わかな)の元を訪ねて三人の神を泊めてくれるよう頼む。ワンはシェン・テが断ったのだと思って呆れてその場を立ち去ってしまったが、その後シェン・テは三人の神を泊めることにする。三人の神はシェン・テに感心し、このセツアンの街には善人がいたと言って、彼女に大金を渡す。

場面展開して、ステージ中央には長屋が登場する。シェン・テは三人の神からもらった大金で、長屋を借りてタバコ店を経営することになった。今まで貧しかったシェン・テは、三人の神のご加護によってタバコ店を経営するまでになった。
そこへ、八人家族の夫(粟野史浩)、妻(枝元萌)、弟(斉藤悠)、弟の妻(大場みなみ)、甥(小日向春平)、姪(佐々木春香)、祖父(小林勝也)がシェン・テの元に次々とやってきて、このタバコ店を経営している借家に住まわせて欲しいと懇願する。善人であるシェン・テは彼らを哀れに思って彼らが住むのを許可してしまう。
しかし八人家族はシェン・テの借家に住んでいるとどんどん騒々しくなって、挙げ句の果てには家具を壊してしまう。そこへこの借家の大家のミー・チュウ(栗田桃子)がやってくる。家具が壊されてしまったことに呆れて、これはシェン・テがお人好しで数多くの人に住まいを与えるからだと言い、保証人になってくれる人を立てるように言う。シェン・テは保証人に、自分の従兄のシュイ・タの名前を上げる。シュイ・タはビジネスマンでお金を持っているので保証人になってくれると。
そんなシェン・テの様子を水売りのワンは遠目で見ている。一体シェン・テは貧しい娼婦だったのにどうやってあそこまで成功したのだろうと。そこへ三人の神がやってくる。三人の神は、ワンがシェン・テを紹介して立ち去った後に、神々を泊まらせてくれて、そのお礼の大金であそこまでの成功を収めたのだと言う。ワンは驚く。

朝、シェン・テが経営するタバコ店にはシェン・テはいない、八人家族たちは眠っている所に若い男性がやってきた。八人家族が目を覚ますと、そこに立っていたのはシュイ・タ(葵わかな)だった。
シュイ・タは貧しい八人家族たちにお金を渡す代わりに、ここから出ていって欲しいと交渉する。もうシェン・テは八人家族たちの面倒を見られないから出ていって欲しいと言っていたと。八人家族たちはそんなことシェン・テが言うはずがないと反論し、シュイ・タと八人家族で口論が始まってしまう。
そこへ警察(小柳友)がやってくる。口論を聞きつけて飛んできて仲介しようとする。大家のミー・チュウもやってきて、こんな事態になってしまうことに呆れる。シュイ・タは、彼女は元々貧しい娼婦であったこと、神からの賜り物があってこうやってタバコ店を経営出来ていること、善人ですぐに人に住まいを与えてしまうなど良い噂、悪い噂を口にする。

夕方の市立公園にて、年上の娼婦(七瀬なつみ)と若い娘(大場みなみ)がいる。そこへ飛行機の操縦士の格好をしたヤン・スン(木村達成)がやってくる。彼は首吊り自殺をしようとしているらしい。二人の娼婦がスンに話しかけようとするが、雨が降ってきていなくなってしまう。
スンしかいなくなった公演にシェン・テがやってくる。シェン・テはスンに話しかけると、スンは飛行機が飛べなくなってしまったため首吊り自殺を図ろうとしていた。シェン・テはそんなスンの首吊り自殺を止めようとする。スンは最初はシェン・テが自殺を止めてくることに対して苛立ちを覚えていたが、お互いの話を聞いているうちに恋に落ちていく。

昼、セツアンの街では水売りのワンが理髪店のシュー・フー(ラサール石井)によってヘアアイロンで手を火傷させられてしまい大騒ぎだった。ワンはセツアンの街の人々に手の火傷について心配される。
シェン・テはセツアンの街の絨毯商の夫妻(松澤一之、枝元萌)から、善人のシェン・テが家賃を支払えないのではないかという心配で200元を渡す。しかしこれは渡した訳ではなく一時的に貸したものであることをシェン・テに言う。
シェン・テはその後、この前出会ったスンの母親(七瀬なつみ)に出会う。スンの母親はシェン・テにこういう。息子のヤン・スンは優秀なパイロットだから資金援助して再び飛行士として活躍させてあげたい。そのために500元が必要で用意してくれないかと。シェン・テは先ほど絨毯商から手渡された200元をスンの母親に渡してしまう。しかし、それでも300元足りない。シェン・テはスンのために残り300元を今経営しているタバコ店を売ることによって用意すると約束する。
セツアンの住民たちは、無力な神と善人の歌を歌う。

シェン・テの経営するタバコ店に、従兄のシュイ・タがやってくる。そこへスンもやってくる。スンはシェン・テに会いたがっているが、シェン・テは今はここにはいないと言う。そのままシュイ・タはシェン・テから聞いた話で、スンの母親がスンがパイロットとして再び活躍して空を飛べるようにするために500元用意して欲しいと頼まれたそうだが、この店を売ることは出来ないと言う。スンはそんなこと言わずなんとか300元用意してくれと懇願する。
シュイ・タはシェン・テのことが好きで結婚したいと申し出る。300元渡してくれればシェン・テと結婚すると。シュイ・タは、ではシェン・テと結婚して飛行士も出来るようになったらシェン・テも連れて旅に出ると言うことかと聞くと、スンはシェン・テはこの地に置いて行くと言う。二人分となると旅費もかかってしまうので。
それを聞いたシュイ・タは、スンをシェン・テと結婚させることに反対する。シェン・テをこの地に置いていくのなら、ただ飛行士として戻りたいだけでシェン・テが好きであるという訳ではないと思ったからだと。シェン・テと結婚したいセツアンの住人は他にもいると言い、シュー・フーを上げる。
シェン・テが戻ってきたらしく、シュイ・タは彼女と相談してくるから待っていてもらうようにスンに言う。するとシェン・テが出てくる。スンはシェン・テを見るや否や会いたかったと言ってそのままプロポーズしてシェン・テもそれを受け入れ、二人は結婚することになる。

ここで幕間になる。

シェン・テとスンは結婚式を挙げている最中である。セツアンの街の人々もシェン・テの結婚式とあってみんな集まっていた。しかし、シェン・テの従兄のシュイ・タは現れなかった。スンの母親も、シュイ・タはどうして現れないのか疑問だった。シェン・テはシュイ・タは旅に出てしまっていると言う。しかし、こんな従妹の結婚式ともあるのに旅に出てしまうのかと疑問を持つ。
足音が聞こえたので、一同はシュイ・タが来たかと思う。しかし違った。
その後、スンはシェン・テを置いて500元を手に入れて北京に向かって飛行機で飛び去ってしまう。シェン・テはシュー・フーから気の毒がられる。タバコ店もなくて住む場所もない。結婚した旦那には逃げられる。おまけに絨毯商には借金までしている。シェン・テのことを哀れに思ったシュー・フーはシェン・テに1000元の小切手を渡す。これはシェン・テが善人であるからだと言う。
しかし実はシェン・テのお腹には子供がいることが発覚する。シュー・フーにはしてやられたなと思われて立ち去る。シェン・テは今自分のお腹にいる赤ちゃんが産まれてきた時をイメージして、自分が母親として振る舞う仕草をする。
そこに水売りのワンが孤児を連れてやってくる。するとシェン・テはその孤児たちを可哀想に思って彼らも引き受ける。シェン・テは親がいない子供達を、自分が代わりに引き取って育てると言う。ワンはなんてシェン・テは善人なんだと感心する。

その後、シェン・テはシュー・フーから長屋を借りてそこで暮らすことになったが、そこに現れたのはシュイ・タだった。シュイ・タの話によるとシェン・テはどうやら長い旅に出たようでしばらく戻らないと言う。大家のミー・チュウがシェン・テの暮らすシュー・フーの長屋にやってきて、これからの新郎新婦のためならこればかりは出すと300元を持ってきたが、シェン・テはすでに小切手で1000元を手にしていたので、全く最近の娘はと愚痴を言われてミー・チュウは去る。

シュイ・タはシュー・フーの長屋をタバコ店に変え、セツアンの住人たちをタバコ工場の従業員として雇ってタバコを生産し始める。セツアンの住人たちは、元々自分たちでタバコの葉を仕入れて製造していた人もいたが、強制的に従業員にさせられて渋々シュイ・タの工場の元で仕事をした。
そこへ、スンもセツアンに戻ってきて働き始めることになる。スンの母親も一緒にいて、この息子をどうか働かせてやって欲しいと言うのである。再び飛行士として飛べなくなってしまって行く宛がなくなったのである。シュイ・タはスンを従業員として迎え入れる。最初の2週間はスンは全く仕事が出来ず向いてないのではと思っていたが、3週間目に突入してスンは急に頭角を表してマネージャーにまで昇進した。

シュイ・タは何ヶ月もタバコ工場を経営しているのに、シェン・テが一度も家に戻ってこないことにセツアンの人々は疑問に感じ始める。絨毯商の夫婦もシェン・テに貸した200元の返済を求めている。シュイ・タはセツアンの人々からシェン・テは一体どこに行っているんだ、何か知らないのかと追及される。旅に行ったまま戻っていないとシュイ・タは言う。シュイ・タのお腹がどんどん大きくなっている。
しかし、シュイ・タの家からシェン・テの衣服などが発見され、シュイ・タはシェン・テをどこかで監禁しているのではないかという疑いがかけられる。そしてシュイ・タは警察によって裁判所へ連れて行かれる。

法廷にて、シュイ・タは立たされ、その後ろには三人の裁判官の格好をした神々と、セツアンの住人たちが集まってくる。セツアンの住人たちは口々にシュイ・タに今までされた仕打ちを暴露する。シェン・テの借家に住んでいたのに追い出されたとか、お金のことしか考えてなくてタバコ工場の経営でこき使われたとか。
散々追い詰められたシュイ・タは全てを自白するから許してくれと懇願する。そして、裁判官以外この場から立ち去ってくれと。裁判官三人とシュイ・タだけが残る。
シュイ・タは全てを自白する。シュイ・タは仮面を取って自らがシェン・テであることを告げ、今お腹に子供を授かっていることを言う。裁判官たちは想定外のことが起こったと騒ぎ立てる。そなたがシェン・テであったとはと。裁判官はシェン・テの無罪を宣告する。
そこにセツアンの住人たちも帰ってきて、シュイ・タが実はシェン・テであったことに驚き、彼女の罪を許す。人々は天井の飛行機が飛び去って行くのを見る。

祖父が出てきて、これで終わって良いとは思っていません、しかしこれを楽しむかどうかは皆さん次第ですと観客に問いかける。シェン・テが出てきて、良い結末をと何度も呟き上演は終了する。

上演中は、なんとなくのストーリーだけ追えて、細かいストーリー展開が追えない部分もあって、どうしてこうなったの?と疑問の残る箇所も複数あったのだが、改めて戯曲を読み返してみると全てに合点がいって、素晴らしい戯曲なのだと思うことができた。
戯曲を読まなくても、葵わかなさん演じるシェン・テとシュイ・タが同一人物であるということで、善人で人から慕われてすぐにお金が無くなって損をしてしまう人物像と、ビジネスマンとしてやり手でお金を稼ぐのは上手いけれど人から慕われない人物像というのは二律背反ではあるものの、社会に生きていく上ではどちらも必要で、そんな側面をバランスよく保ちながら生きて行かないとこの資本主義の社会では通用しないよなと改めて感じさせられる作品で素晴らしかった。
そして戯曲を読んだ上での感想は、ストーリーとしても面白いなと感じられた所。ヤン・スンとその母親には常に憤りを感じたし、セツアンに暮らす貧しい人々もどこか嫌いになれない個性を持った登場人物ばかりで好きだったし、お金を巡って色々展開されるあたりが、最近観た芝居で行くと『三人吉三廓初買』を想起させられて美味いなと感じた。この辺りのややこしさがあるから、もっとストーリーを丁寧に観せてくれる演出でも良かったのかなと思うが。
さすがはブレヒトの戯曲とあって面白かったので、『三文オペラ』や『ガリレイの生涯』にも触れてみたいと感じた。深い考察は考察パートに記載する。

写真引用元:ステージナタリー 「セツアンの善人」より。(撮影:細野晋司)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

白井晃さんの演出の元、海外でも舞台美術経験のある松井るみさんを迎え入れての美術で非常に見応え抜群の世界観が広がっていた。寓意劇として非常にファンタジーの要素が強くて私は非常に好きだった。
舞台装置、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージ上の下手側、奥側、上手側の三方の壁際に、立方体の形をしたドラム式洗濯機のような巨大な舞台装置が複数積み上げられていて、まるで西洋の異世界にでも来てしまったかのようなファンタジックな世界観を形成していた。立方体の中には人が入れるように作られており、その中にセツアンの住人たちが暮らしていたりした。また奏者もその中で演奏していた。
ステージの壁側以外には何も固定で仕込まれていない素舞台が広がっている。そこに、シェン・テがタバコ店を経営しているシーンでは、大家ミー・チュウから借りた平家の一軒家が移動式で登場したり、シュイ・タがタバコ店を経営するシーンでは、シュー・フーから借りた長屋を工場にした建物が移動してきたりと、割とシーンによってステージ上にある舞台セットは異なった。
移動式の舞台装置の中には、棚や家具などが置かれていて、真っ二つに分かれるようになっていた。その上にシェン・テとスンが乗って移動するシーンもあった。
シュイ・タが経営するタバコ工場は、どこか理科の実験室的な感じの奇妙なオーラが、この世界観と似合っていた。
ステージ自体、世田谷パブリックシアターのステージの上に仕込まれていると思われ、水売りのワンはこのステージの床下から登場するシーンなどもあった。
天井にはシーリングファンが合計6台ほど(もっとあったかもしれない)取り付けられており、こちらの一部が回転することによって舞台全体に動きがあったりと機能していた。
大量のペットボトルとウォーターサーバーのボトルが登場するのも印象的だった。これは序幕がメインだったが、ステージ上に数々のペットボトルが投げ捨てられる様は、もちろん水不足を象徴しているのもそうなのだが、どこか空虚で何の希望もない世界を生音で表しているようにも感じた。
全体的にファンタジーの世界ではあるのだけれど、ちょっと中世の西洋っぽくもあって、太古の中国らしさも感じさせる世界観で何とも形容し難かった。ある人が、映画『ブレード・ランナー』のような世界観とも言っていて、私は観劇中は全く思わなかったが、ディストピアっぽさは共通しているなと感じた。

次に衣装について。
衣装は全体的にどこかの民族衣装のようにカラフルで奇抜だった。赤、青、黄色、緑、紫、ピンクなど多種多様なジャンパーと衣服を着こなして、みんな頭にバンダナのようなものをしている。とても民族的な衣装に感じられて独特の世界観だった。
シェン・テの衣装が特に良かった。全体的に赤とピンクの濃い色彩を使った衣装で、確かに娼婦というイメージはしっくり来る。そしてその赤系の色が葵わかなさんに似合っていた。
ヤン・スンの衣装も個人的に好きだった。昔の古風なパイロットという感じがあってレトロ感があって好きだった。茶色くて、ゴーグルみたいなのを上につけていて、いかにも第一次世界大戦中の航空機のパイロットと行った風貌だった。

次に舞台照明について。
一番印象に残っているのは、客席後方天井からステージのメインキャストに向かってまっすぐ照らされたシーリングライト。特にシェン・テが際立たせられるように彼女に向かって真っ直ぐ当てられていた。そしてその背後に出来るシルエットがまた良かった。私は1階席だったのだが、2階席で見ればまた違った形でこのシルエットとシーリングライトも楽しめるのだろうなと感じた。
夕方の市立公園のシーンのどんよりとした紫色の照明も好きだった。雨が降ってくるので天気の悪い夕方という感じが、確かにディストピアの世界では似合っていたのだと思う。
シュイ・タが第二幕でタバコ工場を経営するシーンの不気味な感じの照明も舞台装置と相まって好きだった。あの暗い感じの照明があるからこそ、タバコ工場を経営しているシュイ・タがいかにも資本主義を強行して推し進めている悪者にも見えてきて良かった。
あとは、幕間に入るタイミングと、終幕のタイミングで小林勝也さん演じる祖父が観客に向けて話しかける時、客席まで全体的に明るくなるのが良かった。ブレヒトの作品は、あくまでステージ上で完結するのではなく私たち観客もその物語を構成する一員であり、決して舞台で起きていることは、自分たちの生活とはかけ離れた世界の話ではないことを示す照明になっていた。

次に舞台音響について。
今作は割と音楽劇やミュージカルと言っても過言ではないほどに歌パートが多かったし、BGMのかかるシーンも多かった。曲調もどこかファンタジックで寓話的な要素があって親しみやすいし神秘的にも感じられた。
葵わかなさん演じるシェン・テのソロパートもあれば、セツアンに暮らす住人たちが全員で合唱する歌もあって、楽曲としてのバリエーションも多くて楽しめた。
効果音としては、やはり飛行機の音が象徴的だった。開始や終了の時には必ず頭上に飛行機の音が鳴り響いていて、それが世界がステージだけではなくこの劇場空間全体を包み込んでいるのだと錯覚させてくれた。思わず飛行機が鳴っているシーンでは、天井を見回してしまった。そのくらい空間いっぱいを使った演出になっていた。
あとは雨の音だったり、足音だったりと色々な効果音が流れた。

最後にその他演出について。
なんと言っても葵わかなさんの早着替えが素晴らしかった。シェン・テの衣装とシュイ・タの衣装はまるで違う。それを短時間で早着替えして登場して演じ分けるfine playが今作には度々あった。この動線をしっかり無理なく実行できるように考えるのと、役者の力量が問われるという点でかなり難易度の高い舞台なのだろうなと感じた。
あとはブレヒトの作品ということもあるのだろうが、客席通路を役者が通る回数が異常に多かった。特に水売りのワンは割とステージよりも外側にいる時間も長かったと思う。最初の登場シーンも客席から登場したし、ステージの床面に隠れているシーンもあったりと。度々演出で客席側の方を気にすることも何度かあって、観客の視線をステージだけに閉じさせない演出が、この舞台が日常世界にも広がっていることを示しているようで良かった。
劇中は、良いバランスで台詞のある会話シーンと歌のシーンとパフォーマンスのシーンがあって良かった。パフォーマンスのシーンは音楽と共に、役者たちが台詞を発せずに動き回るシーンで、とてもダンスパフォーマンス的で好きだった。歌もちょうど良いタイミングで入ってくるので構成も絶妙に良かった。

写真引用元:ステージナタリー 「セツアンの善人」より。(撮影:細野晋司)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

音楽劇やミュージカルに近い舞台ということで、演技力だけでなく歌唱力も求められる舞台だったと思うが、ミュージカル俳優で固めたキャスティングでないにも関わらず歌も演技も素晴らしかった。
特に印象に残った役者にについて見ていく。

まずは主人公のシェン・テとシュイ・タ役を演じた葵わかなさん。葵さんの演技は、劇場では舞台『パンドラの鐘』(2022年6月)以来の演技拝見となる。
なんと言ってもシェン・テという善人で美しい女性と、シュイ・タというやり手で格好良い男性という真逆の役を上手く切り分けて演じていた所に今作の最大の素晴らしさがあり、葵さんの演技の素晴らしさがこの作品の魅力を何十倍にも引き出していると感じた。
葵さんの演技は、非常に声も世田谷パブリックシアターという大きな劇場に美しく響き渡る瑞々しい感じがとても素晴らしく、そしてその声にはどこか優しさを常に感じる。その非常に温もりのある声色が、善人で貧しいシェン・テという役にピッタリだった。特に印象に残ったのは第二幕のお腹に子供が出来てしまった時のシーン。妊娠して母親になる時に女性なら誰でも感じるであろう不安を口に出しつつ、子供が出来た時のイメージを一人芝居で演じる姿にグッと来た。本当にそこにはシェン・テの子供がいるのではと錯覚するくらいにリアルで心に訴えかける名演技で感極まった。
シェン・テがヤン・スンを助けるシーンも良かった。シェン・テがとても善人なので、飛行士として飛べなくなったスンを哀れに思って助けたいと思うようになるにつれて、シェン・テが彼に惹かれていく様が徐々に窺えて良かった。
そしてシェン・テの歌声は、これだけで十分観に来た甲斐があったと思わせるほど素晴らしかった。シェン・テは割とソロパートで歌い上げるシーンも多く、彼女の美声が劇場に轟く。本当に悲劇のヒロインと言わんばかりの存在で惹き込まれた。
一方、シュイ・タの役も非常に上手く葵さんは演じていたと思う。まるでタカラジェンヌかと思うくらい格好良い女性キャストの男性像が浮かび上がっていた。口調にも鋭さがあって、だからこそやり手だなと思わせてくれる感じもある。いかにもビジネスマン、カリスマというその存在感は私個人としては非常に格好良く魅力的に感じた。
今作の戯曲では、このシュイ・タというのは資本主義の象徴で、お金目当てに頭を働かせて自分を有利なように導こうとする悪者のように捉えられていると感じたが、葵さんのシュイ・タを観ていると、そんな悪者には到底思えず、むしろそこには愛嬌があって人を魅了するキャラクター性があるように感じた。それは、私が序盤からシェン・テとシュイ・タが同一人物であるということを自覚していたからかもしれない。人間誰しもそうならざるを得ないことがあると分かっているからこそ、シュイ・タに人間としての魅力を感じたのかもしれない。
本当にシェン・テからシュイ・タに、シュイ・タからシェン・テに早着替えするシーンも多く非常に大変な役だったと思うが、それを完璧にこなしていた葵さんは素晴らしかった。

次に、ヤン・スン役を演じた木村達成さん。木村さんの演技は、KERA CROSS『SLAPSTICKS』(2022年2月)で1度演技を拝見している。
本当にスンに関しては、最低の男だなと思いながら観ていた。これは神様もこの世に善人は残っていないのではないかと思ってしまうくらいダメでヤバい男感が半端なかった。
飛行士である訳だけれど、すぐにお金を使い果たして職を失ってしまう。そして母親とタッグを組んで乞食のように金を懇願する。そして受け取った金に対して見返りをしようとはしない。本当に身なりばかりが一丁前でダメ男だと思いながら観ていた。
マザコンというのもこのキャラクターが好きになれない一員だった。母がいつもスンの周りをついてきて、彼のために色々大きな態度で周囲に働きかける。飛行士は素晴らしいという親バカも大概だった。
そしてシェン・テに対する愛情もこれっぽっちもなく、ただ自分は美しい女性と結婚して子供を産んで、飛行士として飛び回っていれさえすれば良いといったような感覚で自分勝手で、こんな男を他の観客はどう思っていたのだろうと思う。
しかし、そんなダメ男であるにも関わらず、木村さんがパイロットの格好をして演じると、そんな役も魅力的に感じる。そんな印象だった。

割と重要な脇役的なポジションだった水売りのワン役の渡部豪太さんも素晴らしかった。渡部さんの演技は初めて拝見する。
水売りの最初の冒頭のモノローグは資本主義というものの本質的な問題を提起していて惹き込まれた。結局需要と供給によって成り立つ資本主義社会というものは、そんな社会情勢に自分の生活が左右されてしまうものだよなと思う。水不足になったら水を提供しないとと必死にならないとだし、水が十分あれば売れなくなって困るしと。水売りの大変さを描くことで、全ての資本主義の元で働くサラリーマンの苦悩を感じた。
そしてその後は、ワンはブレヒトの演出を一番助長する役としてこの後登場する。このワンという人物がいて、今作はかなりブレヒトの作品ぽさを出していると思う。ステージの床を隠れたり、ステージの外からやってきたり、ワンだけ神様と話が出来たり、そうやってシェン・テとシュイ・タを客観的に見つめる役が劇中に登場することによって、私たち俯瞰的に物語に触れることが出来たように思える。
そんな重要な役をこなした渡部さんは素晴らしかった。

あとは、ヤン夫人役の七瀬なつみさんの親バカ感はとても好きだった。そして考えも悪趣味で、シェン・テに500元渡すように迫ってきたり、ずっと息子の方を持っていたりと終始嫌な感じが良かった。
祖父役を演じる小林勝也さんの幕間前と終演前の観客に語りかけてくる感じが好きだった。あの力の抜けたような感じ、優しい感じが良かった。

写真引用元:ステージナタリー 「セツアンの善人」より。(撮影:細野晋司)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、ブレヒトが提唱した「叙事的演劇」や「異化効果」について触れながら、今作の戯曲について考察していく。

私は事前にこの戯曲を全く読まず、且つブレヒトの作品自体も触れたことがなかったので、「叙事的演劇」というものの存在も知らなかったし、「異化効果」というものも知らなかった。そんな無知な私が今作を観劇して感じた感想は、とても85年前に書かれた戯曲とは思えないくらい、資本主義の問題について痛烈に批判していて全く古さを感じないということと、劇中に祖父が観客に語りかけてきたりと観客を巻き込んだ演出の数々が後で付け加えられた演出とかではなく、戯曲そのものがそういう設定だったということに驚いた。まさにこれが、「異化効果」でブレヒトが提唱した演劇手法だったと後で知ったのだが、最近演劇業界でよくある観客巻き込み型の演出の一環かと思ったら違った。こんなトリッキーな演出が既に85年前の演劇に取り入れられていたというのが驚きだった。
一番最後の祖父が、観客に語りかけてくる描写は私は蛇足だとも思ってしまった。この作品を観劇していれば、これが現代と繋がるとあれこれ思慮を巡らせて勝手に結びつけて考えてしまうので、あそこまで説明されなくても今の現代社会への風刺だということも察することが出来るから。最後にあんな説明的な描写は逆に観客の気持ちを覚ましてしまうのではないかと思った。しかしそれは、私が演劇を見慣れているからであって、当時のブレヒトが活躍していた第二次世界大戦中は、この作品で描かれることが演劇での世界の中にしかなくて日常と紐付けることも難しかったからこそ、ここまで強烈に観客に自分ごと化させた演出が功を奏したのかもしれないと思った。

ということで、今作は何度も日本で上演されている『セツアンの善人』の中では、比較的原作に忠実に上演された作品だったと公演パンフレットに記載されていた。それにしても全く古さを感じさせない戯曲だなと思ったが。
ブレヒトが今作を描いた1939年は、彼が亡命先で書き上げた戯曲で、当時のヨーロッパは第二次世界大戦による戦禍も激しく、果たしてこんな腐敗した世界に善人などいるのか、神様はいるのかといった思想から生まれた作品らしい。不条理演劇も希望のなくなった社会から生まれた演劇手法なので、そことも通じていく作品群なのかなと思った。
特に「叙事的演劇」というブレヒトが提唱した演劇手法は、色々調べていると観客に登場人物に感情移入させて終わらせるのではなく、劇中に展開されている物語を客観的に観客に捉えてもらうような演出を敢えて入れることによって、観客が普段疑問に思っておらず受け入れていることに対して、それに対して批判的な眼差しを向けさせる演出らしく、これは今の社会に対して批判的な眼差しを向けながら描く不条理演劇の先駆けでもあるんじゃないかと思った。
そしてその「叙事的演劇」を寓話に当てはめて描くことで、割と不条理演劇に近い所までブレヒトは作品を持ってきているんじゃないかとさえ思った。不条理劇も、この世にありもしない設定を描くことで社会のあり方を批判していく。それはまさに、このブレヒトの『セツアンの善人』にも健在だよなと思った。

私が今作を観劇して、大きく心揺さぶられたことは二つある。
一つは、このシェン・テとシュイ・タという人物が同一人物であったということ。シェン・テは貧しい善人でとてもお人好し、周囲の人に慕われる一方、悪者に利用されて損ばかりしてしまう。一方で、シュイ・タはビジネスマンとしてカリスマ性があり、お金儲けも得意だし人を使うのも得意である。しかしその分人々からは信用されなくなってしまい人望には乏しい人物だった。
この真逆な人物像である二人が同一人物であること、これは自分が望んでそうなったのではなく必要に駆られてそうなったことを含めて出来る解釈としては、人々はこの資本主義社会において生きていくには、そんな二面性を持ち合わせないとやっていけないと言うことだと思った。
私も人が良すぎると言われることが多く、どちらかというとシェン・テのような人物像に近いかもしれない。気前よくお金を渡してしまったり、自分で得たものを気前よく人に私てしまいがちだと思う。私の祖父のお人好しで、昔人助けでほとんど陽の当たらない土地を買ってしまうほどだった。その土地を売ろうにも売れず、子孫にそのツケが回ってきてしまっているのだが。善良であろうとすると、絶対に損することも多いしその善良さによってまた別の人間が被害を被ることもあるのである。シェン・テが八人家族に部屋を貸してしまい家具を壊してしまったことで、借家の大家のミー・チュウに迷惑をかけてしまうように。
だから、どこかでその善良さを捨ててシュイ・タのようにバシバシと切り盛りすることも必要になってくる。私も事業を立ち上げたいのであれば、シェン・テのようにずっとお人好しであってはならず、シュイ・タのように多少腹黒さがないとやっていけないとつくづく感じている。
そういう意味で、善人とは何かという視点でこのシェン・テとシュイ・タの二面性は深く考えさせられた。

もう一つは、資本主義に対する批判である。資本主義は需要と供給、そしてお金の動きによって決まる経済思想である。
セツアンの街が貧しくなって荒廃したのも資本主義のせいである。お金が出回らなくなったことで、街の活気が失われた。そしてそうやって生活に余裕がなくなってしまったが故に、神様を泊めることも出来なくなってしまった。シェン・テの部屋を借りて暮らす他なくなってしまった。貧困であればあるほど、善人ではいられなくなり性格も荒んでいく。善人がこの世からいなくなってしまったのは、ひとえに資本主義のせいだとも今作の解釈では捉えられることに社会批判があると感じた。
私自身、現実世界において、資本主義というものそのものが悪の根源だとは今作を観劇した後も、戯曲を読んだ後も全く思っていない。資本主義が上手く機能したからこそ得られた快楽もあると思う。頑張れば認めてもらえる、給料アップしてやりがいを感じる。もし資本主義を完全否定した世界だったら、それはそれで希望はないと思う。
しかし、今の社会はあまりにも資本主義が前提になりすぎた世界になっていることはいうまでもない。みんなそのことに疑問を抱かないというもあるだろう。特に社会人になって社会を回す側になったらそれは尚更そうである。だからこそ、資本主義を否定するのではなく、こういうリスクやデメリットもあると認知しておくことが大事だとも思っている。実際、SDGsやESGに代表されるものは、この資本主義が進み切った世界だからこそ生じた問題でもある。
そんなことを今作の観劇を通して感じられて、やはりブレヒトの作品を今の社会で上演する意義はあるよなと思えた。

写真引用元:ステージナタリー 「セツアンの善人」より。(撮影:細野晋司)


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