舞台 「ソウル市民」 観劇レビュー 2023/04/22
公演タイトル:「ソウル市民」
劇場:こまばアゴラ劇場
劇団・企画:青年団
作・演出:平田オリザ
出演:永井秀樹、天明留理子、中藤奨、吉田庸、木引優子、名古屋愛、石松太一、森岡望、田原礼子、南風盛もえ、新田佑梨、太田宏、森内美由紀、伊藤拓、立蔵葉子、藤瀬のりこ、尾﨑宇内、木崎友紀子
公演期間:4/7〜4/27(東京)
上演時間:約1時間30分(途中休憩なし)
作品キーワード:韓国併合、会話劇、ホームドラマ、人種差別、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆
日本の演劇業界を代表する劇作家の一人である平田オリザさんが主宰する「青年団」の演劇作品を観劇。
私自身「青年団」の作品は、2020年2月に吉祥寺シアターで上演された『東京ノート』以来2度目の観劇となる。
今回観劇した『ソウル市民』は、『東京ノート』と並んで現代口語演劇理論(芝居がかったセリフではなく、日常的な話し言葉で舞台を演出する方法を体系化した理論:wikipediaより引用)に基づいた代表作の一つである。
『ソウル市民』は1989年に初演され、国内外で何度も再演され続けてる有名な演劇作品である。
物語は、日本が韓国を併合する1910年の1年前、つまり1909年の朝鮮半島にある漢城(現在のソウル)において、篠崎家という日本人商人一家のとある一日を描いたものである。
篠崎家の玄関の門が壊れてしまい、その門の修理を大工の後藤一(尾﨑宇内)に依頼しており、その大工と篠崎家の叔父の篠崎慎二(中藤奨)の会話から上演はスタートする。
篠崎家の人々は、女中に日本人女中だけでなく朝鮮人女中も雇っており、そんな中で日本に植民地化された朝鮮に対する偏見や差別を撒き散らす。朝鮮人に見慣れないタコを食べさせて、その反応を楽しんでいる様子の会話や、箸の使い方が下手などと罵る。
そこへ、篠崎家に書生(他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する者)として暮らしている高井孝夫(石松太一)の知り合いとされる柳原竹八郎(伊藤拓)という人物が突然篠崎家に訪問する。
柳原は手品師を名乗っていて、篠崎家で手品を披露するが...というもの。
1990年代の「静かな演劇」を代表する劇作家として有名な平田オリザさんの代表作ということで、「青年団」の演劇作品特有の演出手法が沢山盛り込まれていて、「青年団」の演劇を堪能したという気分にさせられた。
物語は日常の一部が切り取られただけで特にクライマックスなどの起承転結の「結」に該当するシナリオはなかったり、同時発話的に役者が会話を繰り広げる、つまり同じタイミングでステージ上の役者が複数の異なる会話を成立させる演出は、「青年団」ならではといえよう。
3年前に私が『東京ノート』を観劇したときは、このあまりにも独特な現代口語演劇理論のスタイルが自分には馴染みがなさすぎて辟易し、十分に観劇を楽しめなかった記憶があるが、今回の観劇では様々な演劇ジャンルを観劇してきたからか、すんなりと馴染むことが出来て今作の本質や素晴らしさを体感出来たような気がした。
登場人物が多くて序盤は全部把握しきれないと混乱しそうになったものの、全員の立ち位置を理解しなくても今作で伝えたいメッセージ性は伝わるので、配役をしっかり確認しておかなくても十分楽しめた。
私が特に驚いたのは、歴史的にも日本人は今の朝鮮半島に対して植民地的に酷いことを強いてきたという事実を突きつけられたこと。
歴史の授業で「韓国併合」など日本が朝鮮半島を占領していたということは知っていたが、その日常があまりにも人種差別的で、まるで朝鮮半島の文化や伝統、風習を全否定するようなことを日本人が行っていたことを知って、日本人として非常に辛く苦しくも感じた。
人種差別というと、割と日本人は無縁でアメリカの白人が黒人に対して行っているイメージがあって、日本も歴史を振り返れば無縁では全くなかったことに気付かされた。
また、支配する、支配されるという構造を篠崎家で起こる日常から色々と考えさせられた。
もちろん1909年という時代においては、まだまだ東アジアも戦禍にあった時代なので、国が国を支配するという意味でも考えさせられたが、戦争がなくても今の日本にもそういった構造は常に存在することだと深く考えさせられた。
エンターテイメントとして楽しむ演劇ではないので、頭をスッキリさせて一つ一つ登場人物たちから発せられる言葉を吟味しながら、作品の本質を楽しむ会話劇なので体力はある程度必要かもしれない。
しかし、教養として若い方も含めて日本人が朝鮮半島に暮らす人々にしてきた仕打ちは知っておくべきだと思うし、そんな歴史的事実を踏まえて支配する、されるとは何か、人種差別とは何かについて色々思考を巡らせて欲しい演劇作品だと感じた。
【鑑賞動機】
2020年2月に観劇した「青年団」の『東京ノート』は、まだ私が観劇を初めて間もなかったせいもあってかあまり自分の趣味嗜好に馴染まなかった。しかし、そこから様々なジャンルの演劇に触れてきたので、久々に「青年団」の演劇作品を観劇しようと思っていた。
丁度そんなタイミングで「青年団」の代表作の一つである『ソウル市民』を再演するとのことだったので観劇することにした。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。
1909年、朝鮮半島の漢城(現在のソウル)にある、文房具店を営む日本人一家篠崎家の屋敷。そこにはテーブルに大工の後藤一(尾﨑宇内)が客席を背にして座っている。そこへ篠崎家の叔父の篠崎慎二(中藤奨)がやってくる。二人の会話から、どうやら大工は篠崎家の玄関が壊れたので修理をしにやってきているようだった。慎二は、門を修理するより新しく建ててしまった方が金銭的に浮くのではなどと言っている。大工の後藤はその場を無言で去る。
篠崎家の人間がぞろぞろとやってくる。文房具店の店主である父の篠崎宗一郎(永井秀樹)や、長女の篠崎愛子(木引優子)、篠崎家の書生として暮らしている高井孝夫(石松太一)、その他朝鮮人の女中である李淑子(南風盛もえ)などもやってくる。慎二と宗一郎は、朝鮮人のことについて話す。日本人はよくタコを食べるが、朝鮮人はタコを普段食べないようで、朝鮮が日本の支配下にされて日本人が朝鮮人にタコを食すことを強要して食べさせたら、「日本人はこんなものを食べているのか」といった素振りだったと馬鹿にする。また、ロシア人は箸を使いづらそうにしている光景を見て、その使い方を馬鹿にしたりしていた。
高井は新聞に、自分のかつての同窓生(たしか)である竹八郎の名前があることに気が付き、なぜ竹八郎が朝鮮に来たのだろうと首を傾げる。
そこへ、篠崎家の長男の篠崎謙一(吉田庸)がやってくる。父の宗一郎は、謙一を東京に向かわせるのだと言う。朝鮮のような田舎にいては競争もなく、東京にいって世間の空気の冷たさを体感させたいのだと言う。謙一と慎二は二人で話す。謙一は慎二に東京はどんな所なのかと聞くと、それは人が沢山いると言う。そしてそこから慎二が行ったことある浅草の話などする。
篠崎家に突然お客が現れる。黒い洋装の格好をして、手には旅行かばんを持っている。愛子に会いに来る人が屋敷に来るはずだったので、てっきり愛子に会いに来た人だと一同は思うが、そうではなく、誰も心当たりがなかった。高井がやってきて、その黒い洋装の格好をした男性は、柳原竹八郎(伊藤拓)という高井の知り合いであることがわかる。柳原はどうやら手品師らしく、千里眼で目に見えないものも自分には見えるのだと主張する。
柳原は、テーブルに対して隅にある椅子に座っている。愛子と日本人女中の鈴木みつ(森岡望)や福山とめ(田原礼子)たち、それから朝鮮人の女中も含めてだが、愛子が文学好きであることから文学の話になっていく。愛子は石川啄木の作品が好きなようで、石川啄木の作品について熱く語る。
そして愛子は、朝鮮語はどうも日本語と比べて発音として美しくなくて、だから文学が発達しにくいのではないかと言う。言語として朝鮮語より日本語の方が勝っているから文学が日本に豊富なのだと言う。しかし、こうやって日本人が朝鮮半島を支配することによって、朝鮮人に悲劇が生まれるのなら、それを題材に朝鮮でも文学は発達するのかもしれないとも言う。
篠崎家の人たちは皆柳原に注目して、今から柳原は千里眼を行うと言う。柳原はロンドンの今の天気を当てると言う。そして、柳原は床に顔を当てて突っ伏しながら今のロンドンの天気は霧だと言う。一同は驚き歓声をあげる。
慎二が屋敷の居間で一人になる。そこへ奥寺美千代(木崎友紀子)が現れる。奥寺は、水曜日に水晶堂で待ち合わせと言ったのになんでやってこないのかと慎二を問いただす。慎二は、今日が水曜日だと思っていなかったとヘコヘコする。奥寺は忘れていたのだろうと呆れ顔。そのまま慎二と奥寺で会話をして奥寺は去っていく。
慎二が、柳原の置いていった旅行かばんを開けてみると、中から大量のピンポン玉が飛び出してきてたまげる。そして急いでそれらを片付けようとする。また、ピンポン玉だけではなく、カラフルな色の旗のようなものが連なった道具も入っていた。
篠崎家には、近所の堀田家の夫婦がやってくる。先に婦人の堀田律子(森内美由紀)がやってきて、そのあとに主人の堀田和夫(太田宏)がやってくる。堀田家の夫婦は篠崎家の夫婦と対面する。堀田和夫は、最近赴任した軍のトップの人間が威張ってばかりで愚痴を垂れる。
慎二は満州へ向かうということで、満州に行ったら日本人の女性なんていないのだから、早くこちらで良い女性を見つけて満州へ行ったらと家族の人々は促す。しかし、慎二はもし良い日本人女性をここで見つけても、満州という馴染みのない土地に連れて行ってしまったら、その女性に対して辛い思いをさせてしまうと言う。しかし、それに対して篠崎家の女性は、それは致し方ないと言う。
篠崎家の人間は、そう言えば先ほどまでいた柳原はどこへ行ってしまったのかと不審に思う。いつの間にか彼は蒸発してしまったようにいなくなってしまったと。旅行かばんは置かれているのできっと戻ってくるだろうと篠崎家の人間は口々に言う。
さらに、篠崎家の次女の幸子(名古屋愛)が、朝鮮人女中の淑子の部屋に、淑子が謙一が東京に向かったのを追いかけて逃げ出したことを意味する手紙が置かれているのを発見した。愛子は、朝鮮人の淑子のことをリアリズムとロマンチシズムを勘違いしていると批難する。
そこへ、堀田家の女中の井上すが子(藤瀬のりこ)から、謙一から預かっているものがあると書類を篠崎家の人間へ渡す。これによって、堀田家にも謙一と淑子の駆け落ちがバレてしまって篠崎家としてはきまり悪そうだった。
そこへ、また篠崎家に客人が現れる。黄色い派手な服を着た女性で、彼女は先ほどやってきた手品師の柳原の助手である谷口美弥子(立蔵葉子)と名乗る。篠崎家は、次から次へと新しい出来事が起こって騒然としている。篠崎家の人間は、今はそれどころじゃないんだと無視しようとするが、高井が強い口調で谷口を追い払おうとして大事になる。谷口は赤子のようにギャンギャン喚く。
その後篠崎家は色々会話をし、暗転して上演は終了する。
漢城にある篠崎家の自宅を舞台に、様々な登場人物で出入りして場面は早いスピードで切り替わっていくが、最後に起承転結の「結」になる部分はなく、日常の一部であることを観客に提示することによって上演を終了している点が、非常に興味深い点だった。これは、『東京ノート』にも通じてくる演出手法で最初は慣れが必要かもしれない。
ただ、キャストが観客に背を向けて会話が進行したり、同時発話的に会話が繰り広げられたりする演出があることに慣れていたせいか、今回の上演ではその演出が違和感なくむしろハマっている感じがした。
ストーリーがあるという訳でもなく、淡々と日常が描かれているが、そこから当時の時代背景も色々と考えさせられるし、なんといっても民族間の差別を感じたり、それが当時の朝鮮半島では当たり前だったのだろうという衝撃的な事実を改めて考えさせられたり、こういった差別は形を変えて今の日本にもあるよなと思ったりと、日常の会話を観ているだけでも、色々なことを考えさせられたので刺激は強かった。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
いかにも平田オリザさんが主宰する「青年団」の演劇を観たという感じの、現代口語演劇理論に基づいた静かな演劇を十分堪能出来た感じで満足だった。
舞台音響はなく、舞台照明も最後の暗転だけだったので、舞台装置、衣装、その他演出の順番で見ていく。
まずは舞台装置から。
こまばアゴラ劇場という小劇場のステージいっぱいに、篠崎家の屋敷の居間が広がっている。ステージ中央には大きな食卓が置かれていて、とても高価な木製の食卓に見える。とても艷やかでいかにも明治時代のお金持ちが有していそうな食卓だった。その周囲に置かれている8つほどのしっかりとした椅子も印象的だった。椅子も同じく木製で、現代的な邸宅にはなさそうな昔の椅子といった印象だった。とても存在感があって好きだった。欲しくなった。
そして、その背後に置かれていたのは、同じく木製の食器棚とそこにしまわれている食器の数々。食器棚も同じく存在感があって、いかにもお金持ちの屋敷といった印象を与えるのだが、それ以上に中に入っている食器たちにも目が奪われた。皿や器がしまわれているだが、青い装飾が施された高価な食器ばかりがあるように思えて、見ているだけでも楽しかった。
床面は板のようなものが並べられている感じで、その間には隙間があって、ピンポン玉が飛び出すシーンでは、その隙間に沿ってピンポン玉が転がっていた。板が並べられている床面にしているのは、ピンポン玉が飛び出したときに、四方八方にピンポン玉が散らばらないうようにしている工夫なのかなとも感じた。
下手側が篠崎家の玄関になっていて、上手側には屋敷の奥(おそらく台所)へ通じる通路と、2階へと伸びる階段があって、おそらく階段の上に女中たちや謙一や愛子たちの部屋もあるのだろうと感じた。謙一も2階から登場したし、愛子や幸子も2階から登場していたのでそういうことなのだろうなと思った。
世界観の作り込み方が非常にリアルで、いかにも今から100年以上前の日本のお金持ちの屋敷という感じがあって、リアリティがあった。
次に衣装について。この衣装から、だいぶここは朝鮮半島であるという印象が色濃くついた。
篠崎家の人間の服装も良かった。慎二の服装や宗一郎の服装も、100年前の男性の姿という感じがあってとてもハマっていた。しかし、一番良かったのは、朝鮮人の女中たちなどの女性の衣装。日本人の女性は着物を着ていて、いかにも日本人だと分かる上、朝鮮人は衣装はしっかりとチマチョゴリに近い衣装だったので、しっかりと見分けがついた。そして、そういった衣装に関しては日本人の文化に侵食されていないのだなと感じた。また、愛子のハイカラさんのような衣装も素敵だった。幸子になると洋服になっているのも興味深かった。若い女性になればなるほど洋服というのも好きだった。
最後にその他演出について。
やはり「青年団」特有の現代口語演劇理論に基づいた演出手法が、今作の脚本の良さをさらに引き出す効果を発揮していたように私は感じた。『東京ノート』を観劇したときは、芸術に対するリテラシーなど教養を要する部分が要所要所に見られたが、今作においては必要な教養が当パン(当日パンフレット)に情報が記載されていたので、そちらを読んでおけば時代背景などは理解出来るようになっていた。また、脚本で扱われる内容も「三国干渉」の時代で誰しもが中学の歴史の授業で習う内容なので、多少なりとも馴染みがあったから内容としても理解しやすかったのではと思う。
日常は演劇になりうる、たとえ大きな事件やトラブルが起きなくても、淡々と日常の中で時間が進んでいくだけで、人と人とが会話を交わすことで、それを観る観客はそこから何かしらの感情を得られる。今作はまさに、そんな日常を切り取って観客に特に正解のない様々な感情を掻き立ててくれるという意味で素晴らしい上演だった。まるで自分たちが1909年の漢城にタイムスリップしたかのように、そこで描かれる日常に違和感はなくリアリティを感じるし、だからこそ日本人はこれほどまでに朝鮮半島の人々に差別を向けてきたのかと思うとゾッとした。
手品師の柳原が突然篠崎家にやってきたり、東京へ向かう謙一と共に朝鮮人の女中の淑子が駆け落ちしてしまうという事件性のある出来事がいくつか登場し、日常を切り取ったにしては描かれる内容に起伏のある描写が多い感じはするが、それでも日常からかけ離れた感じはしなかったし、そういった出来事があまり登場しなかった『東京ノート』よりは個人的には観やすく感じた。
同時発話的に会話が進行する箇所が2箇所ほど作中に登場するが、会話の内容は聞き取ることが出来なかったが、そこから自分たちが普段接している日常もこんな感じだな、例えば実家に親戚一同が介したときもにぎやかになって、色々な人たちが色々な所で全く異なる会話が展開されているあの日常と変わらないと思った。
あとは、起承転結の「結」がないという終わり方も、この作品であればそれが一番しっくりくる感じがして、敢えてオチをつける必要がないなと自然に思えた。逆にオチをつけてしまったら、今までせっかく日常を描いていたのにいきなりフィクションに限りなく近くなってしまって、観客在りきの物語になってしまいそうだからである。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
青年団に所属する俳優さんは、実は私自身あまり存じ上げない方が多かったのだが皆素晴らしかった。ここでは、特に印象に残った俳優について記載する。
まずは、叔父である篠崎慎二役を演じた中藤奨さん。中藤さんの演技は、2020年2月に観劇した『東京ノート』以来の演技拝見となる。
私の印象では、今回の出演キャストで最も舞台上にいた時間が長かったのが中藤さんだったかなと思う。しかし、今作の主人公であるかといえばそうではなく、日常を切り取った作品として描かれているからこそ主人公は不在なのだろうと思う。
まず序盤の、悪意もなくタコを食べることに抵抗する朝鮮人を馬鹿にしたり、箸が上手く使えないロシア人のことを悪く言うシーンに、結構衝撃を受けた。口調もトゲトゲしくて威圧感を感じられた。最初は我の強い怖い人なのかなと思ったが、物語が進行していくうちに、凄く優しい、特に日本人に対しては優しい人なのだと分かった。慎二自身がこのあと満州へ旅立つことになるが、その前に奥さんを漢城で見つけてから旅立ったらと勧められた時に、女性を不慣れな満州に連れて辛い思いをさせたくないという気持ちには心動かされた。
人間には二面性が存在するものである。ある時には朝鮮人に対して無意識に差別発言を繰り返してしまうが、根は優しい人間で日本人女性のことをしっかり思ってくれる人なのだとかなり好印象を抱いた。しっかりと愛憎入り交じるリアルな人間がそこには描かれていて良かった。そしてそれを演じきった中藤さんが素晴らしかった。
次に、長男の篠崎謙一役を演じた吉田庸さん。吉田さんの演技を拝見するのは初めて。
非常に勢いのある若者らしく、登場人物の中で一番覇気があるのが役にハマっていて良かった。結婚していない叔父の慎二と友達のようにフレンドリーに語り合う生意気さが良かった。また、どんな家族内の人にもフラットに話をする感じが、まだまだ世間の冷たい風に当たっていないオーラを感じさせられていて、父の宗一郎が東京で修行させたいと思わせる理由にもしっかり繋がっていて良かった。
たしかにこんな感じの爽やかな青年がいたら女中の淑子が好きになってしまうのは無理もないのかもしれない。
次に、長女の篠崎愛子役を演じていた木引優子さん。木引さんの演技を拝見するのも初めて。
若くて文学に精通していて、日本で暮らしている分にはなんの申し分のない女性なのだが、だからこそ朝鮮に対する悪意のない差別発言が次から次へと出てくることにゾッとする。しかも、たしかその場に朝鮮人の女中の淑子たちもいたはずである。
おそらく当時の日本の教育は、きっとどこの国の文化よりも日本の文化が素晴らしいという思想を教育されたが故の発言でもあるのかなと思う。若いうちは素直なので、教育されたように思想も定着していく。だからこそ、自分の言っている内容は間違ったことではないとさも自信ありげに朝鮮の文化を全否定する発言を繰り返しているのだろうなとショッキングだった。
木引さんの演技は素晴らしかった、自信に満ちあふれていて勢いのあった日本国の若き女性というのが伝わってくる。この辺りに関しては考察パートでしっかりと触れることにする。
朝鮮人女中の李淑子役を演じた南風盛もえさんも素晴らしかった。南風盛さんの演技は『東京ノート』で拝見している。
良い意味で、今作では目立たない立ち振舞と演技が素晴らしかった。朝鮮人の女中なので、どちらかというと立場的に日本寺に支配されている側の人間である。だからこそ大人しく振る舞う感じが良かった。
だからこそ終盤の、謙一に惹かれて駆け落ちして家を飛び出してしまうという行動が光って見えた。普通のドラマだったら、そんな謙一と淑子の駆け落ちの部分にスコープを絞って描きがちなのだけれど、敢えてそこを描かずに劇中以外の部分で行われて描写されない部分が、「現代口語演劇理論」らしくて興味深かった。
また、朝鮮人なのに「淑子」という日本人女性のような名前を付けられているあたりにも日本人の支配欲、朝鮮半島への植民地化を感じさせられてゾッとする部分である。
南風盛さんのチマチョゴリ姿はとても似合っていた。
一番劇中で強烈なインパクトを放っていたのが、手品師の柳原竹八郎役を演じた伊藤拓さんと、その助手の谷口美弥子役を演じた立蔵葉子さん。お二人とも私は初めて演技を拝見した。
柳原竹八郎役を演じた伊藤さんは、この日常を切り取った「現代口語演劇理論」の中で、敢えて異質な演技をすることによって会話劇に強烈なインパクトを残していた。この時代の朝鮮半島にこのようなヘンテコリンな人物はいたのだろうかと思うと、ぱっとイメージは出来ないが、でも逆にそれが今作の主題をより濃厚にしていて、非常に示唆的な描写だったので的を得た展開だったと思う。そちらに関しては考察パートで深く触れる。いずれにしても、あの尖った感じの役をあのような空気感の会話劇で演じるのはなかなか難しかったと思うが、そこを卒なく熟していた伊藤さんの演技が素晴らしかった。
また、谷口美弥子役の立蔵さんの芝居も、あえて嘘くさい感じの演技をこの日常会話劇の中に登場させることによって異質さを放ち、それが今作の主題としっかりリンクする形で観られたのが素晴らしかった。あの奇抜な黄色い衣装がなんとも異質過ぎて良かった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
私は今作を観劇して思ったことは、平田オリザさんが提唱した「現代口語演劇理論」で描かれることの素晴らしさというよりは、日本人がこんなにも朝鮮半島の人々に対して差別的な言動を振る舞ったり、植民地化することで彼らを抑圧したこと、またそういった支配する、支配されるという構造は、戦後80年経過しようとしている現在(ウクライナ危機はあるものの)でも形を変えて存在する構造だなと思った。
ここでは、歴史的事実を踏まえた韓国併合と日本人が犯した人種差別についてと、支配する、支配されるということについて深く考察していこうと思う。
人種差別というのは今でも存在して、私たちも白人と黒人の人種差別を様々な映画を通じてよく知っていることと思う。しかし白人、黒人の人種差別はアメリカにおける人種差別の話であって、中流階級の社会である日本にはあまり関係のないことだと、申し訳ないが他人事のように捉えている節が私にはあった。
しかし、今作を観劇してそういった人種差別は日本人も歴史をたどれば行ってきたことだったのだと痛感させられた。だからこそ、日本人として今作を観劇することは非常に辛かったが、こういった教養は日本人は誰もが知っておくべき事実だと思うし、こういった作品を日本人が描いているという点も実に興味深いことなのではないかと思う。
1910年に日本が韓国併合を行ってから、1945年までの実質36年間を日本は朝鮮半島を支配下に置いて植民地化してきたが、その間に日本人が朝鮮人に対して行ってきた様々なことはあまりにも暴力的で酷い仕打ちだったことが調べると分かる。
1910年に日本は朝鮮に総督府を設置して専制政治を実施したり、農民の多くは土地を取り上げられ中国へ逃れたり、強制的に天皇のために進んで命を捨てるように命令する「皇国臣民化政策」を進めて、今までの朝鮮の文化や風習、伝統を軒並み否定し廃止しようとしたのだそう。
だからこそ、篠崎家の人間は平気で朝鮮人に対して悪意のない差別発言を繰り返したり、朝鮮文化を否定するようなことを言うのだなと感じた。そこには洗脳された恐ろしさというものを感じられるし、それを日本人がやってきたのかと考えるとショッキングである。
今作は、もっと教養として多くの日本人に観て欲しいと思うし、今では韓流ブームなどが流行っているけれど、私たち日本人は朝鮮半島に住む人々に対して歴史的にやってきた事実をしっかり向き合わないといけないなと痛感させられた。
一番苦痛だったのは、愛子が日本の文学を称賛してハングル語を全否定する台詞。ハングル語は音的に美しくないから優れた文学がないと朝鮮人の目の前で愛子は否定するが、もしこれが逆の立場だったらどれだけ辛いことなのかを深く考えさせられた。少し前に、テレビドラマ『silent』の脚本家である生方美久さんが「日本語が分かる人に観て欲しい」といった発言で炎上したことがあったが、まさにそのことが劇中のこのシーンで脳裏をよぎった。あの発言が問題視される理由も、今作を観劇すれば納得すると思う。捉え方を間違えれば、愛子が放っていた発言にも近い感じがあるし、それは他の言語に対する否定や侮辱にも捉えられてしまう。
日本は歴史的にも、自分たちの文化が崇高で他国の文化にはないような魅力があるといったような自国を賛美する思想が戦前までは特に強かったので、なおさらそういった他国の文化を否定するような発言は気をつけなければならないなと感じる。
今作では、そういった日本が朝鮮半島を支配するという歴史的事実を取り上げながら、そういった支配する、支配されるという構造というのは、日常にも小さな形で普遍的に存在しうることを一つのテーマとして描いている。
一番わかり易い例が、柳原竹八郎と谷口美弥子が篠崎家に登場することである。柳原は手品師という胡散臭い肩書でいきなり篠崎家に上がりこんできて、勝手にロンドンの天気を千里眼で当てるといって披露して、その後こつ然と姿を消してしまう。観客は篠崎家の視点で物語を追うので、いかに柳原の存在が異物なものなのか、迷惑行為なのかが手にとるように分かる。そして谷口の登場もそうである。派手な衣装を身にまとって、いきなり泣き出したり、篠崎家では長男の謙一と共に朝鮮人の女中が駆け落ちして大変なのに迷惑である。
今作はコミュニティの話でもあると思っていて、とあるコミュニティに対してよそ者が乱入してくることほど迷惑なものはないことを痛烈に表現していると思う。篠崎家の人々がアメリカを嫌っていたが、日本には黒船来航という歴史的事実があるからそのような思想があるのだと思う。ペリーがいきなり黒船で日本にやってきて開国を求める。それはまるで異物がコミュニティに侵入してきたかのような行為である。柳原と谷口の篠崎家の登場は、日本にペリーが黒船で来航した時のような突然の異物の登場といったインパクトがあると感じた。
しかし、そういったコミュニティに異物がいきなり登場して良い迷惑になっている構造は、何も柳原/谷口と篠崎家だけではない。日本と朝鮮半島だって同じ関係にあるのではないかというのが、この支配する、支配されるの本質的な構造である。歴史的に韓国併合は、日本がいきなり朝鮮半島にやってきて、今までの朝鮮半島のコミュニティや文化をなし崩しにして、ぐちゃぐちゃにして支配してしまったに等しい。今回の篠崎家に柳原が登場した場合は、柳原に篠崎家が占拠されることはなかったが、日本は朝鮮半島を半ば植民地化してしまった。朝鮮人女中たちは黙って日本人の言いなりになって大人しくしているが、本来は、ここは彼女たちのアットホーム、ふるさとなはずである。そういった残酷なシチュエーションがこの作品の中に横たわっていることに気がつくと、支配する、支配されるという構造の恐ろしさを感じさせられる。そして最後は、淑子は謙一と駆け落ちする形で故郷を追われる羽目になっている。
しかし、こういった支配する、支配される構造は、何も戦時中だけ登場するものではない。今の私たちの暮らしにも似た構造が沢山横たわっている。
私は、篠崎家に柳原が登場する構造が、どこか自宅に営業マンが訪問してくる光景と重ね合わせられた。今どきはあまり自宅に営業マンが直接訪問する機会は昔ほどはなくなったが、あの構図もどこかよそ者が家庭に忍び込んで、何かの営業を促すことで支配しようとする関係に近いものを感じた。
だからこそ、こういった支配する、支配される、というのは強者という異物が弱者のコミュニティに入り込んできて、強者の思想や主張を強要しようとする行為がまさにそうなのだと感じて、色々考えさせられた。私たちは、いつの間にか社会で生きている中で、誰かのコミュニティを犯して支配していたり、逆に支配されているものなのかもしれない。
そういった普遍性が伝わってくるからこそ、平田オリザさんの提唱する「現代口語演劇理論」による演出が一番しっくりくる内容になっていたと思うし、私個人としては『東京ノート』の上演よりも今作の上演のほうがより満喫できたと感じている。
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