舞台 「ザ・ウェルキン」 観劇レビュー 2022/07/30
公演タイトル:「ザ・ウェルキン」
劇場:Bunkamura シアターコクーン
劇団・企画:シス・カンパニー
作:ルーシー・カークウッド
翻訳:徐賀世子
演出:加藤拓也
出演:吉田羊、大原櫻子、長谷川稀世、梅沢昌代、那須佐代子、峯村リエ、明星真由美、那須凛、西尾まり、豊田エリー、土井ケイト、富山えり子、恒松祐里、神津優花、田村健太郎、土屋佑壱、段田安則(声の出演)
公演期間:7/7〜7/31(東京)、8/3〜8/7(大阪)
上演時間:約150分(途中休憩15分)
作品キーワード:法廷劇、男女差別、西洋、会話劇、シリアス
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆
日本でも上演された「チャイメリカ」でも知られる、英国気鋭の若手劇作家であるルーシー・カークウッドさんの戯曲「ザ・ウェルキン」を、映画「わたし達はおとな」の映画監督としても知られる劇団た組を主宰する加藤拓也さんの演出によって日本初上演。
「ザ・ウェルキン」は、英国で2020年1月下旬に初演が幕開け、コロナ禍によるロックダウンまで2ヶ月弱の上演となったが、非常に好評を博した傑作。
舞台は18世紀のイギリス東部の田舎町。
当時その町では、妊娠した女性が罪人となった場合は絞首刑は免れられるという法律が存在した。
ある日の夜、土地の有力者の娘であるアリス・ワックス(神津優花)が殺される。少女サリー(大原櫻子)は、アリスを殺した罪で逮捕されていたが、サリーの主張ではどうやら自分は妊娠をしていると主張する。
しかし町中では悪名高かったサリーは住民からサリーは妊娠していると嘘を付いて絞首刑を逃れようとしていると追及される。
果たして本当にサリーは妊娠しているのか、妊娠経験のある11人の陪審員たちとサリーの助産婦であるエリザベス(吉田羊)らによって、審議が始まるという物語。
12人の陪審員が登場するという構造は、かの有名な「12人の怒れる男」を想像するだろう。
早く家に帰りたいから早く審議を済ませたいという陪審員もいたりと、審議は茶番へと向かってしまう司法制度の限界という点でも社会問題を反映した物語となっていたが、私はそれ以上に当時の時代の女性に対する社会的地位の低さを凄く感じさせられ、胸を締め付けられた。
妊娠中の陪審員もいるのに審議する居室は寒く極悪な環境だったり、妊娠かどうかを判断させるためにサリーに劇中試すことがあるのだが、その行い自体も非常に女性の人権を侵害するような行為ばかりでもはや拷問、男性である私にとっても酷く心を痛めるシチュエーションが多かった。
そして私は、エリザベスという助産婦の言動に非常に惹かれて観劇していた。
もちろん、吉田羊さんのあっぱれな演技力は言わずもがななのだが、彼女がサリーにしてしまったこと、そしてその結果今のような現状になってしまったこと、劇中で明らかになっていく彼女とサリーの過去を想像していると非常に辛くなりラストも非常に苦しかった。
サリーを演じた大原櫻子さんの演技力の素晴らしさを痛感した。
最初はあまり好きになれなかったのだが、徐々に感情移入していって非常に可哀想に感じられた。
舞台演出も加藤拓也さんらしく痛々しい演出が多く、以前観劇した舞台「もはやしずか」を想起させられた。
女性なら彼女たち(登場人物たち)が置かれた環境がいかに極悪なものかを痛感させられ辛く感じられるかもしれない、ただ個人的にはこの作品は多くの男性に観てほしい、とても考えさせられるし妊婦の心理などを理解する上でも非常に勉強させられることも多い舞台作品だった。
↓戯曲『ザ・ウェルキン』
【鑑賞動機】
舞台「もはやしずか」を2022年4月に観劇して、演出した加藤拓也さんの作風がなんとも素晴らしく衝撃を受けた。また再び加藤さんの演出舞台を観劇したいと思い、今作を観劇しようと思った。
大原櫻子さん、吉田羊さんも舞台俳優として大活躍されているが、今までお目にかかったことがなかったので、今作を機に拝見してみたかった。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
「一 家事」と映像で表示される。婦人たちがまるでロボットのように家事に勤しんでいる。まるで工場から聞こえてくるようなガタゴトといった音と共に、赤ちゃんの泣き声と鐘の音が響き渡る。
「二 殺人が起きた夜」と映像で表示される(記憶が曖昧で間違っているかもしれません)。夜、フレデリック・ポピー(田村健太郎)が帰宅する。そこには妻のサリー・ポピー(大原櫻子)もいた。夫婦は仲が悪いらしく口喧嘩をしていた。そして蝋燭の光がサリーの衣服に当たると、サリーの衣服には体全体に血がついていることが分かる。フレデリックはサリーが大怪我をしているのではないかと疑うが、サリーの話を聞いていると、どうやらそれは他人の血であることが分かり大騒ぎとなる。
「三 絞首刑」と映像で表示される(記憶が曖昧で間違っているかもしれません)。エリザベス・ルーク(吉田羊)は自宅でバターを作っていた。そこへ、片腕を怪我して包帯をしたミスター・クームス(土屋佑壱)がやってくる。
クームスは、この町の有力者であるワックス家の娘であるアリス・ワックスが、煙突の下で体を真っ二つに切られて袋に詰められて遺体で見つかった事件で、殺人の容疑がかけられているサリー・ポピーに関することについて依頼があって尋ねてきたのだと言う。サリー・ポピーはアリス・ワックスの殺人罪で絞首刑を宣告したい所だが、サリーは自身が今妊娠中であることを主張している。妊娠中である女性を絞首刑に処することが出来ないのがこの町の法律だが、サリーは妊娠中だと嘘を付いて絞首刑を免れようとしているとも考えられる。そこで、サリーが本当に妊娠しているのかどうか、12人の妊娠経験のある陪審員と共に彼女の審議に来てほしいとエリザベスに依頼するのである。
エリザベスは、サリー・ポピーが産まれた時の助産婦であった。しかしエリザベスはサリーが産まれた時に彼女に関わったきりで暫く彼女と顔を合わせていなかった。そのため、クームスのその依頼に対して最初は難色を示していた。
エリザベスとクームスが様々に会話を交わした挙げ句、クームスは妊娠経験のある他の11人の陪審員は全員サリーに誰も味方せず、妊娠していないという判決に追い込むだろうと言い捨てて出ていってしまう。
エリザベスの元に娘のケイティ・ルーク(神津優花)がやってくる。エリザベスは心変わりしたのか、娘のケイティにバター作りと家事を依頼してサリーの妊娠有無の審議に向かう。
判事(段田安則)の指示によって、12人の妊娠経験を持つ陪審員たちが一人ずつ名前を呼ばれて、聖書にキスをして誓いを立てる。陪審員長を務める大佐夫人のシャーロット・ケアリー(長谷川稀世)、3人の夫から21人の子供を産んだサラ・スミス(梅沢昌代)、体の火照りを訴えるジュディス・ブルーアー(那須佐代子)、ロンドンにて6回もの陪審員経験を持っているエマ・ジェンキンス(峯村リエ)、流産を繰り返して未だに子供を出産したことがないヘレン・ラドロー(明星真由美)、4人の娘がいて夫は詩人でいつも散歩に行ってしまうアン・ラベンダー(那須凛)、長男を産んでから一言も喋らなくなってしまったサラ・ホリス(西尾まり)、貧しい暮らしをしているハンナ・ラスティッド(豊田エリー)、スコットランド人のキティ・ギブンズ(土井ケイト)、陪審に興味がなく家事もそのままなので早く家に帰りたいメアリー・ミドルトン(富山えり子)、妊娠中のペグ・カーター(恒松祐里)、そしてサリー・ポピーの助産婦であるエリザベス・ルークである。
判事はエリザベスに向かって、サリーの妊娠有無の判決は1時間くらいで出るだろうと言うが、エリザベスは人の命がかかった大事な審議なのに1時間で済むだろうなんてと憤りを示す。
「四 食べ物、飲み物、火、ろうそく」と映像で表示される(記憶が曖昧で間違っているかもしれません)。
12人の陪審員たちは、審議をする一つの居室に案内され、その陪審の監査にミスター・クームスが務めることになった。居室は非常に汚くそして寒い。暖炉に火を付ける。窓を開けるが外はサリー・ポピーを絞首刑にしろと訴える民衆で溢れかえってうるさかった。
サリーが手錠をかけられた状態で案内される。クームスによってサリーは粗雑に扱われる。周囲の陪審員たちもサリーの悪名高く評判の悪い少女であることは知っていたため、誰も彼女に同情しなかった。
しかし、エリザベスだけはサリーの唯一の味方であり理解者であった。エリザベスは大きくなったサリーと初めて出会うので、サリーに近づいて自分が彼女の助産婦であることを告げる。するとサリーはその出会いを歓迎する訳でもなく、大笑いして「知っているわ」と吐き捨てる始末だった。
クームスは陪審の監査のため、一言も喋らないことを約束させられた上で陪審が始まる。
エマはもっと大変な陪審を経験したことがあるから、この程度の陪審はさっさと終わらせようと言うし、メアリーは家のことがあって早く帰りたいと言って陪審に対する意欲は低いようだった。
そもそもサリーはアリス・ワックスを殺していないんじゃないかと言い出す陪審員までいた。アリス・ワックスは今年現れると言われているハレーが予言した彗星が、アリス・ワックスに直撃して亡くなったんじゃないかと。しかしエリザベスは、そもそもアリス・ワックスの死体は煙突の下から真っ二つに切られて袋詰にされて見つかったからあり得ないと反論される。
12人の陪審員の中で、サリーが妊娠していると思う人とそう思わない人で票を取る。妊娠していると思う人が5人であり、妊娠していないと思う人が7人という結果だった。多くの陪審員は多数決ということでサリーは妊娠していないと思われるという判決で良いのではと言うが、クームスによれば全員一致が不可欠だという返答だった。
ある陪審員が、サリーが母乳が出るかどうか試したら妊娠しているかどうか分かるのではないかと発言する。母乳が出れば妊娠していると判断できると。
しかし、妊娠経験の持つ陪審員たちは母乳が出たタイミングは人それぞれで判断は難しいのではないかと言う。特に21人の子供を持つサラは、子供が産まれて数カ月後に母乳が出たこともあったと言う。母乳が出ないからと言って妊娠していないとは言えないと。
それでも、もし母乳が出たら確実に妊娠しているということなので、母乳が出るか確かめようと実践する。陪審員たちは、クームスにサリー側に振り向かないように念入りに忠告をし、サリーの胸元を解いて母乳が出るか確かめるために彼女の乳を強く揉み始める。サリーは悲鳴を上げる。
結果、サリーから母乳は出なかった。多くの陪審員がサリーは妊娠していないという結論で済ませようとするが、エリザベスだけは母乳が出ないからと言ってサリーを妊娠していないと結論付けたくなかった。
陪審は続くが、何も飲めない食べることも出来ない、おまけに寒い極悪な環境に皆不満を抱えていた。サリー自身もおしっこがしたいと我慢出来ず、バケツの中に用を足した。
その時、暖炉の煙突から何か大きな物音がした。風だろうと皆は思う。一方でエリザベスはサリーから母乳が出たことに驚き嬉しみのあまり興奮する。しかし陪審員たちはサリーから母乳が出たことはそっちのけで、煙突からの風音を気にかけていた。その風音は大きくなって、暖炉からものすごい量の煤がふぶいてきて一同は咳き込んだ。
ここで幕間に入る。
サリーとアリス・ワックス(神津優花)がおにごっこのような遊びをして楽しんでいるシーンから始まる。
先ほどの暖炉から物凄い風量が吹き込んできたことによって、陪審員たちは煤だらけになってしまう。どうやら原因はカラスが煙突の中に入り込んだためであった。
エリザベスはサリーから母乳が出たといって皆に見せるが、煤だらけで黒ずんでしまったため皆に信じてもらえなかった。そしてシャーロットは、その黒ずんだ母乳を、バケツの中に捨ててしまう。サリーはシャーロットに対して怒り狂う。なぜ母乳をバケツに捨てるのだと。
シャーロットはワックス家と関わりのある人間で、元々サリーを妊娠していると判決するつもりはなかったことがバラされる。エリザベスとシャーロットは口論する。その時、ずっと無言で何も話さなかったサラ・ホリスが語る。エリザベスとサリーのことについて。エリザベスはサリーが赤子の時にサリーを森の中に捨てたのだと。エリザベスは最初は否定しようとしたが、追い詰められてしまう。
エリザベスは真実を語る。エリザベスはサリーの母から、産まれた自分の娘を引き取って欲しいと言われ引き取らざるを得なかった。しかしエリザベスはサリーを育てることは出来ず、森の中に赤子のサリーを置いてきてしまった。100歩離れて振り返った時には、サリーの姿はどこにもなかったのだと。
エリザベスは、医師を呼んでサリーが妊娠しているか判断してもらおうと言う。そして医師を呼ぶ。
医師がやってくる間、サリーにアリス・ワックスを本当に殺したのかと尋ねる。サリーはひとり語りする。あの日、サリーは日が暮れるまでアリス・ワックスと遊んでいて、夜になって男がアリス・ワックスを殺していたと。その光景をサリーはずっと眺めていたのだと。そして、遺体を真っ二つにして袋に詰めるのを手伝ったのだという。
サリーはイギリスの天文学者ハレーが1759年である今年に、彗星が姿を現すことを予言したと言う。その彗星が自分の目の前に現れて、蜂になって機械になって私の目の前で男に変わって、まるで馬に乗った王子様のように自分の前にやってくることを楽しみにしているのだと言う。
医師のドクター・ウィリス(田村健太郎)がやってくる。ウィリスはすぐにサリーが妊娠しているかどうか検査する。陪審員たちはサリーの周囲を囲って、クームスがサリーの様子を見られない状態にする。検査は終わり、ウィリスはサリーが懐妊していると告げて帰っていってしまう。これで、サリーのお腹の中には子供が宿していることが証明された。
ここで12人の陪審員たちは、サリーが妊娠しているかどうかというジャッジについて、ヘレン以外は全員妊娠しているに手を挙げる。今までヘレンは妊娠しているに手を挙げていたのにここへ来てどうしてと尋ねると、ヘレンは今まではサリーに対する同情で手を挙げていたが、実際に妊娠しているということを聞いて、自分だって子供が欲しいという願望もあって手を挙げたくなくなってしまったようだった。
泣きじゃくるヘレンに寄り添うメアリー。メアリーは歌を歌う。それに合わせて他の陪審員たちも歌を歌い始める。ヘレンを落ち着かせてもう一度ジャッジを行い、全員がサリーが妊娠していると認める(途中、エマが手を挙げない下りがあるが最終的には手を挙げる)。
この結果をクームスに報告すると、クームスは判事にサリーは妊娠しているから絞首刑には出来ないという旨を伝えに行く。
これで陪審員たちは解放され、居室から出ていった。もう夕暮れだった。外からは、サリーが絞首刑に出来ないという結果にブーイングが巻き起こっている。サリーは群衆に対してざまみろとばかりに暴言を吐くが、7歳の子供から石を投げられる。
サリーはこれで私は自由だと言うが、エリザベスは自由にはなれないとサリーに告げる。民衆がこれでサリーのことを許した訳ではないからと。
サリーが一人居室にいる所に、クームスと殺されたアリス・ワックスの母のレディ・ワックス(明星真由美)がやってくる。レディ・ワックスはクームスに何やら黒い袋を渡して立ち去る。
クームスはサリーに近づき、思い切りサリーの腹を蹴り続けて出血させる。サリーは大量に腹から血を流しながら悲鳴を上げる。
エリザベスがやってきてサリーを見て驚く。クームスは知らん顔をして大変そうだと言っていたが、サリーがこいつがやったんだと激しく訴える。クームスは立ち去る。
サリーは流産してしまった。そしてこれでは絞首刑を免れることは出来なくなってしまった。エリザベスの頭の中で、サリーが絞首刑場で素っ裸にされて惨めな姿で刑が執行される光景を想像し、耐えきれなくなっていた。
エマ・ジェンキンスもやってきて、サリーの様子に驚く。
エリザベスは優しくサリーを包み込む。その時、空から彗星が落ちてくるのを目撃する。それはサリーが見たかったハレーが予言した彗星。
サリーはハレーの彗星を目撃しながら、エリザベスに首を締め付けられるのだった。ここで上演は終了。
上演中観劇している時は、どちらかというと法廷劇要素よりも女性の社会的地位の低さみたいな点の方が目立っていたように思えたが、改めてストーリーを振り返ってみると、この妊娠しているかどうかを議論する陪審制度の制度としての問題も様々に浮上してきて、改めて法廷劇としての作品要素も沢山見つかって再発見があった。例えば、そもそもこの陪審制度自体が、この町の有力者のワックス家によって仕組まれたもののようにも思えてくるという陪審制度としての欠陥も見つかる(レディ・ワックスはおそらくクームスに賄賂を渡して、サリーの腹を蹴って判決を変えるように仕向けた)。当時は公平に裁判すらも行われていなかったのだろうという歴史的事実が垣間見えてくる。
ただ、やはり今回の作品の最重要ポイントである女性の社会的地位の低さと妊娠・出産に対する世間の理解の低さについても非常に生々しく、そして痛々しく描かれていたのでこちらは考察パートで記載する。
幕間に入る直前に、サリーから母乳が出たという希望を示すポイントと、暖炉から煤が大量に吹き出すという(それがしかも黒いカラスによってもたらされるもの)不吉を示すポイントの2つが描かれる点も非常に興味深かった。これは、物語終盤でのエリザベスがサリーにしたことが希望となるのか絶望となるのかという演出とも上手く対をなしている気がする。
個人的には、少しそれぞれの人物の掘り下げが弱くて、もう少し各陪審員たちのエピソードを絡めて欲しかったかなという印象と、登場人物の人間関係(劇中に登場しない人物も含めて)が少々初見だと分かりにくく、把握しづらかった。会話だけで想像しながら追うのは少しきつかったので、もう少し分かりやすい方が良かったかなというのと、パンフレットに登場人物の人間関係を入れて欲しかった(おそらく2200円出して戯曲を買えということなのだろうが)。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
世界観は18世紀の英国の物語ということもあり、メイド服のような衣服を着た女性たちと、西洋貴族の格好をした世界史の教科書の偉人とでもいうような衣装の男性たちといった感じで、非常に近代西洋っぽさが全面的にあったのだが、白地に赤い血という演出は加藤拓也さんらしく、舞台「もはやしずか」を想起させられて痛々しい演出だった。まさに近代西洋と加藤拓也さん演出の融合といった感じだろうか。要所要所ではミュージカル「レ・ミゼラブル」も彷彿させられた。西洋且つ時代が一致しているからだろう。
舞台装置、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出の順で見ていく。
まずは舞台装置から。
陪審が始まる前に巨大なパネルが一枚、それから12人の陪審員が審議するシーンに登場するパネルが一枚といった所。
まず序盤に登場するパネルは縦長で細長い白いパネル。上部にはたしか窓のようなものが設置されていた記憶。そのパネルには、場面ごとに「一 家事」のように縦に文字が映像で投影されるためにも使われていた。陪審のシーンになると捌けてしまう。
陪審中はずっと舞台後方には、居室の壁をイメージした巨大な白いパネルがあった。中央には暖炉が設置されていて、前半終盤には黒い煤が吹き出す。その下手側には扉のない出入り口があって、そこからサリーが入ってきたり、ドクター・ウィリスが登場したりした。
また、天井には四角形の巨大な白い枠が吊り下げられていて、序盤はただ吊り下げられている飾りだと思っていたが、12人の陪審員が聖書に誓うシーンの時に下に降りてきて、卓上のようにも使用されていたので、そのような舞台装置の使い方を全く想定していなかったので驚いた。
他は陪審の居室には木製の椅子がいくつか、そして机もいくつかあったと記憶している。
次に衣装について。
前述したように、12人の陪審員たちは基本的にはメイド服のような感じで、白いカチューシャをしていて、メイドのような白いエプロンを着ていた。そしてどの陪審員も薄汚れていた印象。
サリーに関してはメイド服は着ておらず、地味な深緑色の衣装だった。髪の毛もボサボサでいかにも罪人といった見窄らしさがあった。
一方で男性は皆立派な衣装を着ていた。この点からも男性優位な社会を感じさせられ、男尊女卑を反映しているような気がする。ミスター・クームスにしろドクター・ウィリスにしろ、まるで西洋貴族というばかりの豪華な衣装とかつらだった。
次に舞台照明について。
特に照明演出で印象に残ったのは序盤のシーン。序盤の女性たちが家事に勤しんでいるシーンや、フレデリックとサリーの口論のシーンは暗い感じだった。特にフレデリックとサリーのシーンは夜ということもあり、舞台照明はなく、フレデリックが灯す炎の明かりのみ。これが凄く田舎っぽさ、そして何か事件が起こった夜という感じを想起させられて効果的な演出に感じた。
あとは、前半終盤の場面の、暖炉から黒い煤が吹き出すシーンで、全体的にブルーの照明だったのが印象的だった。
また、ラストのシーンでエリザベスがサリーの首を締め付けるシーンで、空に彗星が見える設定になっているが、その時の彼女たちに当たる白いスポットが、私には凄く希望に感じられて好きだった。解釈によっては絶望でもあると思うのだが、照明演出は希望に感じられた。
次に舞台音響について。この舞台は非常に音にこだわった舞台に私は感じられた。
まずは一番最初のシーン。女性たちが各々まるでロボットのように家事に勤しんでいる。そのシーンでまるで工場の物音のようなものがスピーカーから聞こえていた。私はこのシーンからミュージカル「レ・ミゼラブル」を想起させられた。ファンティーヌが工場で働くシーンである。機械のような物音から女性たちは、まるでロボットのように男性社会に支配されながら生気を失って生きているのかななんて考えさせられた。
そこから、赤子の泣き声が聞こえてそれが鐘の音に変わっていく。この音響演出が凄く印象に残った。序盤でこういう演出を持ってこられると一気に惹きつけられる。演出意図は分からなかったが、個人的に好きだった。
エリザベスが自宅でバターを作っているときの、「シュコ、シュコ」という水の音も好きだった。あんな音源を用意出来るって凄いなと感じる。
舞台「もはやしずか」でもそうだったのだが、不気味なシーンで「キーン」という緊迫感のある効果音が流れるのが非常に効果的で怖かった。特にレディ・ワックスが登場するシーンでのあの効果音は、何か絶対良からぬことが起こるとドキドキしてしまう。
ラストシーンで、エリザベスがサリーにハレーの彗星を見えながら首を締めるシーンで、背後にある舞台装置が徐々に前に移動していた演出が、今まで観たことがない演出手法の類いで興味深かった。その時に、その背後のパネルの前に椅子などのモノがいくつか置かれていて、それらもまとめてパネルに突き動かされて前に移動するので、それによって「ズー」とモノを引きずったような生音がずっとしているのだが、その音が非常に素晴らしい演出だったと思った。緊迫感を生音で出すというか、さらに背後の巨大なパネルが差し迫ってくることで恐怖感もさらに煽られる。素晴らしく怖い演出だった。
最後にその他演出について。
序盤のフレデリックとサリーの口論のシーンで、途中で明かりがサリーの衣装を照らして、服が血だらけであることが発覚する。あのビジュアル的な恐怖と演出が好きだった。ちょっと映画的な演出だと思う。ホラー映画のように感じた。舞台であの演出って結構難しいのかななんて思ったが、そこを上手く観せられているのは素晴らしいと感じた。
エリザベスが途中でサリーから母乳が出ることを証明し、透明のコップに白い液体がちゃんと客席から見える形で提示する演出も、しっかりと後半の伏線になっていて良かった。この段階で観客は、サリーは妊娠していると断定出来る。
幕間後の後半に入ってすぐのシーンで、陪審員たちは硬直して、サリーとアリス・ワックスだけがおにごっこをして遊ぶシーンが凄く印象的で好きだった。サリーの悪態づいた態度でないピュアな少女に見える辺りが好きだった。
クームスがサリーの腹に蹴りを入れる時に、あの白い床の血はどのように出現させているのだろうか。ギミックが気になったが、加藤拓也さんらしい白地に赤い血の演出は痛々しく観ていてきつかったが素晴らしかった。この残酷なシーンで一気に終盤での舞台への惹き込まれ方が変わった。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
女性が圧倒的に多い役者陣だったが、役者一人一人は凄く良かったのだが、陪審員たちを一人一人深堀りするシーンが少なかったので、個人的にはエリザベス・ルーク役を演じた吉田羊さんと、サリー・ポピー役を演じた大原櫻子さんばかりが凄く目立っていた印象。もっと他の役者の見所が欲しかったかなというのが個人的な感想。
吉田羊さん、大原櫻子さんは勿論のこと、その他印象に残った役者について見ていく。
まずは、エリザベス・ルーク役を演じた吉田羊さん。吉田さんの演技は生で拝見するのが今作が初めて。
幕間入る前の前半は、このエリザベスという助産婦の正義感というか、サリーを救いたいという使命感の強さに非常に魅了された。吉田さんの演技の素晴らしさもあって、非常に逞しく格好良く見えた。
しかし、幕間を挟んで後半からこのエリザベスという女性が果たして善人なのかという点に疑いが生じてくる。加藤拓也さんが手掛ける作品に善人はいないというのはよく聞くのだが、今作でもエリザベスはどこかに闇を抱え込んでいる気がした。
それは、サラ・ホリスの助言が発端となっている。エリザベスはずっと隠し続けていたことがあって、このサリーという少女がここまで悪名高い女になってしまった責任というのは、エリザベスにあるのではないかということである。エリザベスがサリーを育てず、森の中に捨てたからこんな惨めな女性になってしまったのではないか。
そしてそういった思いは、きっとエリザベスの中でずっと責任を感じていたのだろうと思う。だからサリーがこのまま妊娠していないと判決されて絞首刑になることを避けたかった。間接的にサリーをエリザベスの行動によって苦しめ、殺してしまうことになるから。サリーがこんな悪い恵まれない女性になってしまったことに関しても、エリザベスには助産婦として責任があったから。
結果的にサリーは妊娠していた、しかしだからといってサリーはその後幸せになれる訳ではなかった。サリーは自由だと叫ぶが、エリザベスはサリーに自由にはなれないと言う。町中でサリーは悪名高い少女だという印象は定着してしまい、もうその印象を払拭することはどんなに頑張っても出来ない。生まれ変わるしかない。
クームスによってサリーの腹の子は流産させられてしまい、このままでは絞首刑にさせられてしまう。素っ裸にされ、見せしめにされて苦しみながら死を迎えるよりは、何か希望を持って死んで欲しい。エリザベスはそう思って、サリーにハレーの彗星を見せながら首を締めて殺したのかもしれない。それはエリザベスにとっては苦渋の選択だが、サリーに対する最大の「愛」だったんじゃないかと思う。「愛」の示し方が愛すべき人を殺すことになるとはなんとも酷い。
そしてエリザベス自身もそれをすることによって、自分自身もサリーに対する罪の償いを果たそうとしたのかもしれない。かつて自分が見捨てた赤子サリーに生まれ変わって幸せになってもらうために。
そんな決断が出来るエリザベスはやはり素晴らしく心の強い女性だと思ったし、そんな役を熟す吉田さんも素晴らしい役者だった。
次に、サリー・ポピー役を演じた大原櫻子さん。大原さんはまだ26歳ながらも、映画、ドラマ、舞台と多方面で活躍されている。私自身は彼女の舞台を拝見するのは初めて。
私自身、最初はこのサリーという女性を全く好きになれなかった。どんな人間にも悪態をついて、助産婦であるエリザベスとの久々の再会であるにも関わらず悪態をついていた。
バケツの中で小便をしたり、話し方も語尾が強く近寄りがたい感じが凄く出ていて、こんなにも好きになれない役作りが出来るものかと思うほど、大原さんの演技力の高さに惹かれた。
そして、彼女の演技力の高さに度肝を抜いたのはむしろ終盤のシーンだった。クームスに腹を蹴られて流産させられてからの苦し紛れに叫び喘ぐ演技が本当に素晴らしかった。ここまで化けの皮を剥がせる女優もなかなかいないと思う。清純派な女優だと思っていたが、こんなに力強い演技も出来るものなのかと女優としての演技の幅を感じさせられて素晴らしかった。
そして終盤になるにつれて、このサリーというキャラクターに感情移入して好きになっていくという、自分自身の感情の変化も面白かった。彼女はハレーの彗星が現れることを願っているのだが、その点だけは非常にピュアというか少女らしいのも魅力的に感じるポイントである。彼女を唯一ピュアな気持ちにさせてくれる存在、それがハレーの彗星。彗星に乗ってやってくる素敵な男性を待ち望んでいる。凄くロマンチックだった。
陪審員でいうと、エマ・ジェンキンス役を演じた峯村リエさんも素晴らしかった。峯村さんのあの陪審を軽々しく考えている感じがベテラン風で合っていた。以前KAKUTAの「往転」で拝見した時とは全く異なる役に役者としての力量を感じた。
メアリー・ミドルトン役を演じた富山えり子さんも良かった。あの陪審に無頓着な感じや、終盤での歌声が素敵だった。
ケイティ・ルーク役とアリス・ワックス役を演じた神津優花さんも素晴らしかった。2010年生まれと聞いてびっくりした、とても若い女優さん。勿論出番は少なかったが、子役をきっちりとこなしていて上手かった。
男性でいうと、ドクター・ウィリス役を演じた田村健太郎さんが素晴らしかった。あのサバサバした感じが私は好きだったが、凄く偉そうな印象も感じられて男性優位な社会を象徴していたとも思える。素晴らしかった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
ここでは、今作のテーマとなっている「司法制度の問題」と「女性の社会的地位の低さと妊娠・出産に対する理解の低さ」について考察した上で、男性である私の視点で今作がどう映ったのか感想を述べていきたいと思う。
まずは「司法制度の問題」について。
今作を観劇した直後は、比重として「司法制度の問題」というよりかは「女性の社会的地位の低さと妊娠・出産に対する理解の低さ」に置かれていると感じたのだが、先述したように改めてストーリーを振り返ってみると、「司法制度の問題」という点でも今作の中で結構なウエイトを占めていると感じた。
私は今まで江古田のガールズの演劇作品で「12人の怒れる女」という演目で法廷劇を観劇したことがあるが、12人の陪審員が自分のバックグラウンドによる補正もあってかなり感情的に罪を裁こうとする様が描かれていて、陪審員制度の問題点を炙り出したような作品だった。
今作の「ザ・ウェルキン」でもそのような描写が存在する。例えば、早く審議を終了させて家に帰りたい陪審員はろくに考えもせずに妊娠の有無をジャッジしようとするし、流産を繰り返していたヘレンに関しては、ただの個人的な悔しさから最後に妊娠有無に反対する。かなり主観的な感情の入った陪審に果たして意味があるのだろうかという問題点は、今作でもしっかりとテーマとして掲げられているように感じた。
それだけではない。今作の舞台が1759年という300年以上前であるということもあって、司法のやり方にかなりいい加減な部分も散見されて、当時のイギリスの司法制度がいかに歪曲していたかも窺える。
例えば、サリーが妊娠しているという判決が出た後でも、レディ・ワックスが監査に賄賂を贈ることによって、クームスがサリーの腹を蹴って流産させて絞首刑に追い込むという酷い措置が取られている。つまり、元々この陪審はサリーが妊娠していて絞首刑を免れるという判決を許さなかったことを意味する。これはもはや司法制度のあり方が根本から間違っている。
ワックス家はこの田舎町の中でも権威を持った由緒正しい家柄、そのためそれなりに司法を脅かせるほどの発言権があった。だからワックスはサリーを絞首刑にするために、彼女が妊娠していないという状況を作りやすいように陪審のやり方を仕組んだとも考えられる。
陪審員長を務めたシャーロット・ケアリーが、そもそもワックス家と繋がりがあったこと、当初は医師を呼ばずに12人の妊娠経験のある陪審員を募ってサリーが妊娠しているかを判断させようとしたということからも、ワックス家が優位なように仕組まれた陪審だったことが窺える。この時点で司法制度は成立していない。
300年前となると、こんなにも司法制度はずさんだったのかと思うと恐ろしくなる。
次に「女性の社会的地位の低さと妊娠・出産に対する理解の低さ」というテーマについて。
12人の陪審員が集められ、サリーが妊娠しているかどうかを審議するために用意された居室は、しばらく暖炉も使っていないような汚い部屋で、おまけに非常に寒かったことが劇中の描写からも分かる。陪審員の中にはペグのような妊娠中の女性もいるのに非常に待遇の悪い状態となっている。そこに、当時のイギリスの女性の社会的地位の低さを感じさせる。
また、サリーに対する対応も酷いと私は思った。母乳が出るかと強制的に見知らぬ女性によって胸を揉まされたり、医師によって妊娠しているか確かめられたりと、私はまるで拷問のように感じてしまった。
このような待遇や措置をされることによって、どれだけ女性の自尊心が傷つけられるのか、当時の社会には理解してもらえなかったのだろうと思われる。男性しか権力を握れない社会において、女性の主張は届きにくい。妊娠や出産の苦しみというものはどうしても男性は経験することがないので、どのくらいのものなのか想像することは難しいので、そこを軽視された社会システムが構築されてきたんだなと考えさせられる。
きっと女性であれば、こんなシチュエーションは酷いといった内容が男性である私以上に数多く出てくるんじゃないかと思う。私は男性なので、妊娠・出産の苦しみは知識として知っている程度なので、実体験としてある女性に比べたら今作から感じ取れた理不尽さ、苦しさといったものは少ないのだろう。
それでも男性である私でも、これはあまりにも酷すぎると思った描写は沢山あったので、当時を生きる女性たちはいかに苦悩を強いられてきたのか計り知れない。
だた、男性という視点だからこそこの作品から感じ取れた部分もあると思うので書き記しておく。
まず、母乳がそれぞれの女性によって出始める時期に大きくばらつきがあることは知らなかった。妊娠中に出始める女性もいれば、出産してしばらくしてから出始める女性もいることを恥ずかしながら初めて知った。
また、妊娠すると変なモノを食べたくなる感覚も自分にはよく分からなかった。気分も高ぶったり落ち込んだりが激しくなると言っていたが、実体験として男性であるためよく分からなかった。
そういう意味で私は陪審員たちの会話を聞いていてとても勉強になった。男女共同参画社会が言われるように、男女平等という言葉が強く言われる今の社会であるが、そもそも男性と女性では体のつくりが違うし、感じ方や価値観も異なってくると思うので、全く平等にすることは出来ないと私は思っている。
男性と女性の違いをお互いに分かりあった上で、ではどうしたらどちらも過ごしやすい社会にしていくために必要なことは何かを考えていかなければならないと思う。
最後はハレー彗星について考察して終わろうと思う。
ハレー彗星は、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが1705年にその周期が約75年であることを観測し、次のハレー彗星の出現が1759年だから、その時にイギリスで彗星が観測されたらイギリス天文学の功績だとするように遺言して亡くなっている。そしてハレーの予言は的中し、1759年に再び彗星が出現してその彗星をハレー彗星と呼ぶようになったのだそう。
日本でも1986年にハレー彗星の出現によって多くの人々が天体観測を行った(私は生まれていなかったが)。次回のハレー彗星の出現は2061年だそうで、おそらくまだ自分も生きている頃だと思うので、その時を楽しみにしたいと思う。
今作のタイトルである「THE WELKIN(ザ・ウェルキン)」は、英語の古語から派生した文語や詩に用いられる言葉で、「天空」を表すそうである。古来、彗星は大災害の予兆といった悪い意味もある一方で、「良き神の啓示」や「天の救済」といった希望としても捉えた人がいたそうで、希望か絶望かは意見が分かれたところとされている。
サリーも死ぬ間際にハレー彗星を見てエリザベスに首を締められ殺されていると考えられる。つまりこの物語は、最後に希望を見出すハッピーエンドとも捉えられるし、絶望を見出すバッドエンドとも捉えられる。丁度、幕間前の前半が黒いカラスによる煤という絶望と、母乳が出たという希望が両方出現するかの如くに。
もし、このハレー彗星が絶望を示すのなら、サリーは殺されても延々とこの町では彼女のことを悪く言う人が跡を絶たなくなるということだろうか。エリザベスという助産婦によって絞首刑を免れた少女として、悪い女性として名が残るのかもしれない。
では、もしこのハレー彗星が希望をもたらすものだったら?サリーは生まれ変わって家族に愛される幸せな家庭で育つのかもしれない。そして、まるで白馬に乗った王子様のような素敵な男性が現れて、一生幸せに暮らすことが出来るのかもしれない。
2061年に再来するハレー彗星は、私たちに希望と絶望どちらをもたらしてくれるだろうか。
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