舞台 「ナイトーシンジュク・トラップホール」 観劇レビュー 2024/07/20
公演タイトル:「ナイトーシンジュク・トラップホール」
劇場:新宿シアタートップス
劇団・企画:ムシラセ
作・演出:保坂萌
出演:渡口和志、高野渚、和泉宗兵、藤尾勘太郎、大野瑞生、永田紗茅、辻響平、佐藤新太、瀬戸ゆりか、つかてつお、菊池美里、渡辺実希、元水颯香、有薗芳記
公演期間:7/16〜7/21(東京)
上演時間:約1時間50分(途中休憩なし)
作品キーワード:江戸時代、浮世絵、新宿、飯盛女、成長物語、ラブストーリー
個人満足度:★★★★★☆☆☆☆☆
劇作家・演出家である保坂萌さんが主宰する演劇プロデュースユニット「ムシラセ」の新作公演を初観劇。
「ムシラセ」は美大出身でカメラマンとしても活躍される保坂萌さんが2008年に立ち上げている。
今年(2024年)開催された「CoRich舞台芸術アワード!2023」では、当団体の代表作とも呼べる『つやつやのやつ』と『ファンファンファンファーレ!』(2023年7月)が第9位にランクインしており、着実に演劇界での知名度を上げている演劇団体である。
私は「ムシラセ」の上演作品を観劇することも、保坂さん作演出の作品を観劇することも初めてである。
物語は、現代の新宿と江戸時代の宿場町・内藤新宿を混ぜた漫画家の話である。
噺家の安楽亭堂夏(有薗芳記)は若手の弟子の志乃(元水颯香)に向けて、江戸時代の宿場町・内藤新宿と歌川広重に関する落語を語る。
内藤新宿には、飯盛女という吉原遊廓の遊女に似た娼婦がいたこと、そしてそんな内藤新宿は歌川広重の浮世絵にも登場するが、まるで飯盛女と馬糞しか描かれておらず、『東海道五十三次』を描くまで彼は売れなかったことを語る。
一方、漫画家で令和を生きる歌川広重(渡口和志)は目を覚ますと令和の新宿ではなく江戸時代の内藤新宿になっていた。
広重は彼が描いた漫画は編集長の蔦屋重三郎(和泉宗兵)にも認められない売れない漫画家で、江戸時代の内藤新宿を色々と取材して漫画を描くことにする。
その時広重は、ゴミ袋の山から救い出したカスミ(高野渚)に恋をする。
しかしカスミは内藤新宿の飯盛女であり...というもの。
私は今回初めて保坂さんが創作された演劇作品を拝見したが、「タカハ劇団」の高羽彩さんの演劇作品とも系統が近い、アニメ化も出来そうなストーリーテリングが強く親しみやすい作品に感じた。
やや前半部分に関しては役者のデハケが多いのもあって、演劇でやろうとすると物語のテンポが遅くなってしまっている箇所があり、のめり込みにくい部分もあったが、後半からラストに向けては今作のテーマがしっかりと胸に響いて楽しむことが出来た。
まず演出の仕方に非常に特徴があって印象に残った。「ムシラセ」のファンの方が観客に非常に多いので、一緒に前説で盛り上げようとしてくれるグルーブ感と温かさを感じられて、久々に観客に愛された演劇団体を見た気分だった。
そして、そんなグルーブ感があるからこそ、客席通路を沢山使って演出されるシーンも多くてそれがより観客にポジティブな方向に面白さを届けられていると感じた。
新宿シアタートップスの客席通路は大変狭くて、ちょっと荷物や足を出しているだけで危険である。
しかし、そういうこともなく安全に上演が出来るのも創作者と観客の間で信頼関係が成り立っている証拠なんだと感じて素晴らしかった。
また非常に登場人物が多いにも関わらず、それぞれのキャラクターに個性があって、そしてちゃんと見せ場があって、どの役者さんも輝いているように演出されている点にも素晴らしさを感じた。
これはきっと保坂さんの役者さんたちへの愛とリスペクトなんだろうなと思う。
皆本気で楽しそうに演じている感じがあって、良い意味でアットホームな印象も受けた。
今作のテーマは創作者の業ということで、よくあるテーマではあるものの保坂さん自身の切実な葛藤と思いがそこには込められていて心を動かされた。
下手に冒険活劇にしたり自分に都合が良いように書き上げても、読者にはきっと面白いと思ってもらえない。
ありのままを描くこと、それこそが一番読者の心を動かすと。
私も様々な舞台作品を観劇していてそれは非常に同感できるメッセージ性だと思った。
ファンタジーを描くのは良いが、創作者の実体験から程遠い非日常を描くより、自分自身が日々の日常生活で感じることを描いた方が間違いなく多くの人の心を動かすと思う。
そして今作はまさしく保坂さんの劇作家としての苦悩も感じられたように思えてグッと来た。
そして、様々な男性に消費されて忘れ去られる飯盛女と、様々な読者に読まれて消費され忘れ去られる漫画家を並べて描かれている点も印象に強く残った。
役者陣も皆演技が素晴らしかった。
主人公の歌川広重役を演じた吉本坂46の渡口和志さんは、その初々しさが非常にキャラクターにハマっていて、広重の成長物語として非常に楽しむことができた。
そして高野渚さん演じる飯盛女のカスミの、とても美しいがどこか物悲しげな様子も伝わってきて娼婦らしさを感じる雰囲気の出し方が良かった。
そして安楽亭堂夏役を演じた有薗芳記さんは、本物の噺家の落語を聞いているかのような贅沢さを味わえた。
エンタメ性の高い演劇作品として劇場で観劇出来て良かったし、上演台本を買ってしまうくらい物語も読み返したくなるストーリー展開が詰まったものだったので多くの人におすすめしたい。
上演は終了してしまったが、配信を予定しているそうなのでアーカイブで楽しんで欲しい。
【鑑賞動機】
保坂萌さんが作演出を務める「ムシラセ」は、小劇場演劇界隈でも非常に盛り上がっていて評判が良いのでいつか観てみたいと思っていた。特に「CoRich舞台芸術アワード!2023」で第9位にランクインした『つやつやのやつ』と『ファンファンファンファーレ!』(2023年7月)は物凄い盛り上がりだったし、一昨年前に上演された『瞬きと閃光』も凄く評判が良かった。
エンタメ性の強い演劇プロデュースユニットというイメージだったので、今作もフライヤーからその感じが伝わってきて当団体の良さが詰め込まれていると感じたので観劇することにした。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等あると思うがご容赦頂きたい。
噺家の安楽亭堂夏(有薗芳記)が落語を始める。それは江戸時代では宿場町であった今の新宿の内藤新宿について。内藤新宿は、今の新宿から四谷の方まで続いていた宿場町で、そこには飯盛女という娼婦もいた。飯盛女は当時は吉原遊廓の遊女と同等にまで影響力があったほどで、歌川広重の浮世絵にも登場する。歌川広重は、よくこの宿場町の内藤新宿を描いていて、飯盛女や馬糞を描いていたという。
そんな堂夏の落語を聞く同じ安楽亭の一門の弟子である志乃(元水颯香)は、歌川広重のことも内藤新宿のことも初耳のようだった。そして客席に歌川広重の描いた馬糞の浮世絵を配る。堂夏の話によると、その当時はまだ浮世絵師として広重は売れておらず、この後描いた『東海道五十三次』が大ヒットしたことで有名になっていくのだと。
歌川広重(渡口和志)は目を覚ます。しかし姉上(渡辺実希)が着物を着ていたりと、どうやらこの世界は令和ではなく江戸時代であるようだった。
広重は編集部の竹内孫八(つかてつお)から、この前描いた漫画は全然ダメだったと言われてしまう。
広重が編集部へ向かう途中、新宿の母(菊池美里)に出会う。そして割り箸で占われ、この後恋する女性と巡り会うことを予言される。
そして広重がごみ袋の山の所を通りかかった所、そこに一人の女性が埋もれていたので助ける。その女性はカスミ(高野渚)と名乗る。カスミは広重が漫画家であることを聞くと尊敬の眼差しで見つめる。カスミにはそんな才能ないと自分で言う。そんなカスミに広重は一目惚れしてしまう。
広重は編集局へ着くと、そこでは滝沢馬琴(辻響平)や竹内孫八、そして必死に絵を描く葛飾北斎(藤尾勘太郎)と北斎の世話をするお栄(永田紗茅)がいた。彼らからも広重はこの前の漫画をダメ出しされる。お栄にも厳しくつまらなかったと言われる。そして編集長の蔦屋重三郎(和泉宗兵)もやってきて、広重のこの前の漫画は笑われてしまう。
広重はもう少し売れる漫画を描こうと内藤新宿を回って取材することにする。
一方で、作家の十返舎一九(佐藤新太)は、白海老屋という宿場の娼婦をする小春(瀬戸ゆりか)にゾッコンだった。十返舎一九は相手が娼婦であるにも関わらずガチで恋をしてしまい、なんとか彼女と恋人になれないかと考えていたが、小春とはそういう仲にしかなれなかった。
広重は取材のために内藤新宿を歩いているとカスミと再会する。カスミと話していると、彼女は飯盛女であるらしく内藤新宿の宿場で女郎をしているようであった。
堂夏は志乃の元で実存落語をしている。普通の落語ではなく、ちょっと変わった演出を取り入れた落語を披露している。そんな志乃の元へキョウヤ(大野瑞生)が現れる。キョウヤは金を志乃に渡すことで心を掴んでしまう。
そこへカスミがやってくる。キョウヤとカスミは仲睦まじそうである。そんな様子を広重も目撃してしまう。広重はカスミに今の男性が誰だったかを尋ねる。キョウヤはホストであると言う。よくカスミの宿場にもやってくるのだと。キョウヤは落語にしか興味がなくて裏切らない所にカスミは魅力を感じているようである。
カスミは広重に死にたいと相談する。一緒に心中をしようと。しかし、あまりにも突然そのようなことをカスミは言うので、広重は何も言えなかった。
広重は編集局へ言って、カスミに一緒に心中しようと言われて何も言えなかったことを語ると、周囲の人間からはダサいと言われる。
一方で十返舎一九は、白海老屋の娼婦の小春のことをどうしても好きで告白するも、そう言う関係にはなれないとフラれて悲しい思いをしていた。
カスミと広重は新宿でデートする。天下一品ラーメンを食べたり、みらいおんにお金を投入したり。カスミは天下一品が非常に美味しかったと言うので、天下一品はチェーン店であることをカスミに言ったら驚いていた。
そのままカスミと広重はホストクラブ・だつえばに向かう。そこにはキョウヤがいた。広重はキョウヤのことが気に喰わず、ジャラジャラと身につけた飾り物などを叱っていた。
そのままホスト内でマイクパフォーマンスが行われ、皆歌って踊る。その流れで広重もカスミとハッピーになりたいと言う願望を抱く。
広重は漫画を描く。チンピラに馬琴やキョウヤがやられるストーリー展開。しかしそんな物語ダメだとお栄に言われる。どうして冒険活劇みたいじゃないとダメなのかと。
志乃が落語をやっている。その落語をカスミは聞きに来る。志乃は蕎麦をすする表現をやろうとするが上手くいかず凹んでいる。
そこへキョウヤが襲ってくる。それを広重が助けてハッピーエンドという漫画を広重は描くが蔦屋重三郎にこれでは広重がハッピーになるだけだから面白くないと言われる。読者は自分がハッピーになるのを見せられても面白いとは感じないだろうと。
蔦屋と広重がそんな会話をしていると堂夏がやってきて志乃が行方不明なのだと言う。確かにいくら探しても志乃は見つからなかった。
志乃はカスミと一緒にいた。カスミは志乃を自分のいつもいる宿場に連れてくる。ここではまずお風呂に入って、そして服を脱がされて土間に蹴り落とされる。そして様々な男性の相手をするんだと、一緒に行こうと言う。
そこへ堂夏が駆けつける。カスミに志乃を連れて何をさせようとしているのだと言う。堂夏はすぐ志乃を引き取る。
カスミの元に広重が現れて、ようやく漫画の脚本が描けたと伝える。今までは自分の幸せばかりを追求していて、だから面白い作品が作れなかったんんだと気がついて、今度はカスミを幸せにする漫画を描いたと言う。その内容は最後にカスミが母親と再会するというものだった。
カスミは冷たく広重は凄いねと褒めて立ち去る。広重は、どうしてカスミを喜ばせる幸せにする脚本を書いたのに、カスミが冷たい態度だったのか理解出来なかった。
広重は竹内に話すと、竹内はカスミは飯盛女というのは親に売られた身だから再会しても嬉しいとは思わないのだと言う。ではどうすれば、面白い作品を描けるのかと問うと、全てを描くことだと言う。助けられたことも何も出来なかったことも。
広重は目を覚ます。どうやらずっと江戸時代の内藤新宿の夢を見ていたようで、令和の新宿で姉に起こされる。姉も普段着を着ている。そしてこの前描いた漫画が面白かったと言われる。
広重はそのまま編集局へ向かい、蔦屋重三郎も広重の作品を誉めてくれた。
広重は新宿の町を散策する。志乃がお笑いライブのビラ配りを必死でしている。そんな中、カスミに出会う。カスミは江戸時代の飯盛女と同じ格好をしていた。天下一品の本店は京都にあるのような話をしながら、ここで本当のさようならだと別れを告げてカスミはいなくなる。広重は、カスミに助けられたのに助けたり何もしてあげられずごめんと言う。ここで上演は終了する。
江戸時代の文化は個人的には吉原遊廓を展示していた『大吉原展』を見てきたばかりなのでマイトピックで楽しめた。遊女は知っていたけれど、飯盛女という宿場の娼婦がいたことは初耳だったので勉強になったし、色々と考えさせられた。
エンタメの創作者は無知でいることは罪だよなと思った。飯盛女のことを知らずにハッピーエンドとして母親との再会を描いちゃうなんて暴力だよなと思った。そういう自分良がりな部分や知識のなさによって、自分の創作で人を傷つけてきた歌川広重だったけれど、最後にはそれらを学んで成長して売れる作品を描けるようになるというハッピーエンドは凄く着地点として面白く感じた。
創作者の業というのはよくあるテーマではあるものの、やはりずっと創作の世界にいる人が描くからこそ味があって何度も楽しめるなと思った。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
「ムシラセ」ファンへのサービス精神も旺盛で、非常にエンタメ性の強い演劇作品として観ていて楽しかった。そして様々な工夫も凝らされていた。
舞台装置、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出について見ていく。
まずは舞台装置について。
脚本が、江戸時代の内藤新宿でもあり、令和の新宿でもある混在した世界観なので、それを上手く表現している点に演劇を上手く活かした工夫があった。
舞台セットは、本当に江戸時代と令和の新宿がミックスしている感じ。ステージの壁面には複数のパイプが設置されていて、いかにも雑居ビルの立ち並ぶ令和の新宿らしさを感じる。一方で、小道具は江戸時代に使われていた木製の樽のようなものが置かれて椅子のように使えたり、所々に木製のストライプ状の扉も設置されていて、本当に舞台演劇でしか表現できない江戸時代と令和の融合がそこにはあった。演劇だからこそ不思議と何の違和感もなかった。
ステージ中央には固定で設置されているものはない記憶で、下手側奥に、新宿シアタートップスのステージ地下へと行けるデハケがあるのが特徴的だった。また地下に行けるだけでなく劇場の外へと行ける扉にも続いていて、ラストシーンにその外へ行ける扉が開く演出も見事だった。明るい未来の兆しを見ているような感覚になって好きだった。
物語序盤では、ステージ中央にゴミ袋の山が置かれているのも印象的だった。それは歌舞伎町のちょっと汚い新宿を彷彿させるし、そのゴミ山からカスミを救い出すのも色々考えさせられた。
あとは、紙屑をステージ上にばらまく演出も多く、脚本家の苦悩が現れていた。
次に衣装について。
皆着物がカラフルでとても素敵だった。特に美しいと感じたのは飯盛女のカスミの水色の着物の衣装。どこかミュージカル『この世界の片隅に』の白木リンを彷彿させる。遊女というとあのような着物を着るのが一般的なのだろうか。凄く似合っていた。
あとは、カーテンコールでカスミだけ着物で、あとの登場人物は全員令和の洋服を着ていたのも印象的だし良いなと思った。全員で江戸時代を演じて、全員で令和を演じていて、それはある意味江戸時代の世界と令和の時代の世界は繋がっている、似ているということを意味しているようにも思えるし、最後には令和にしっかり戻ってきたんだ、これは現代の話だったのだと思わせる所が凄く好きだった。
次に舞台照明について。
エンタメ性の強い演劇だったので、やはり照明も派手で豪華だった。特にホストクラブのシーンの皆んなで歌って踊るシーンでは、大人の街っぽさもあるし歌舞伎町っぽさもあって好きだった。ちょっと新宿という街が好きになったような気がした。
あとは、客席通路を照明で照らして、そこを役者が通るので、役者が通る時のタイミングが分かりやすくて良かった。そこが明るくなったら通るのだなという意識も持てて心の準備が出来たから。
あとは落語のシーンで堂夏にスポットが当たって落語が展開されるの良いなと思った。何度か落語を題材にした演劇は観てきているが、噺家だけ白いスポットで当てるの良いなと思う。
次に舞台音響について。
音楽はホストクラブのシーンとカーテンコールに流れたイメージで、あとはあまりなかったイメージ。役者が皆演技派で豪華なので音楽でかき消してはもったいないのでそれで良いと思う。
効果音は特に目立って印象に残ったものはなかった。
最後にその他演出部分について。
まずはなんと言っても、演劇の特徴を活かして江戸時代の新宿と令和の新宿を上手く混在させた世界観を作り上げていたのが素晴らしかった。登場人物は江戸時代なのに所々パワハラとか令和が出てきたり、そういう混ぜこぜな世界観が上手く表現できるし、これが広重の夢だったと解釈すれば話も回収されるので凄く上手いと感じた。そしてそれに付随して、どこまでが広重の漫画の世界での話なのか分からなくなるのも演劇的で良かった。ああいう描き方は演劇は得意だよなと思うし私は好きである。
また、客席を多く使った演出はファンとの信頼関係あってだなと思う。ファンも役者が近くを通ったというのは印象に残るものだし、今作はそれが上手く機能していると思う。また、志乃が前方の観客に歌川広重の浮世絵を配るのも目新しい演出で良かった。ああいうのは思い出になるし良いなと思う(自分はもらえなかったが)。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
小劇場演劇でキャリアを積んできた俳優も非常に多く、皆演技力高くてとても楽しめた。客席通路を使った演出もあったので、間近で彼らの演技を堪能できたのも良かった。
特に印象に残ったキャストについて見ていく。
まずは主人公の歌川広重役を演じた吉本坂46の渡口和志さん。渡口さんの演技を拝見するのは初めて。
2005年生まれで、まだ19歳であるにも関わらず主役に大抜擢とのことで、まだ幼さもある彼の演技が非常にハマり役で素晴らしかった。
飯盛女というのが何者なのか、そして脚本もどこか自分のことしか考えていないストーリー構成で、漫画家としての未熟さを感じさせる点があったが、最後には成長して人々に認められる漫画を描けるようになっていて爽快だった。今作は広重の成長物語でもあると思う。歌川広重は、私たちの一般的なイメージとしては歴史上の人物として大物だが、そんな大物でも最初は未熟で多くの人と同じような失敗を繰り返していたという設定も、どこか売れない私たちにもチャンスがあることを感じさせてくれる点に良さがあった。
あとはカスミに一目惚れする姿にも非常に好感が持てた。ゴミ袋の山から救い出して、娼婦であることを知らずに無邪気に好きになっていって、徐々に大人の世界の残酷さを知っていく過程もストーリーとして見応えがあった。
高野渚さん演じるカスミとあんなにも手を繋ぐシーンなどあって、実際に渡口さんが高野さんに惚れ込んだりしないのかな...笑。
次に、飯盛女のカスミ役を演じた高野渚さん。高野さんの演技を観るのは初めて。
まるでミュージカル『この世界の片隅に』に登場する白木リンのような存在感があった。白木リンもカスミと同じ娼婦で広島県の遊郭にいた遊女である。
褒めているが、凄くメンヘラっぽさを感じさせる演技でキャラクターにハマり役だった。凄く明るく振る舞っているようで、どこかに物悲しさを抱えている感じ。「死にたい」「心中しよう」と言ってきたり、志乃に宿場の飯盛女たちが沢山暮らしている場所へ案内して志乃を娼婦にしようとしたりと、少し狂気じみた部分もあって怖く感じる時もあった。
また、終盤で広重に母親に再会出来てハッピーエンドになる結末を言われた時の、カスミの沈む感じの演技が何とも心動かされて泣けた。そこには飯盛女は親に売られたからという悲しい過去があるだけでなく、そういう事情すら一般的な私たちはよく知らずに傷つけてしまうことがあることも伝わってきて考えさせられた。無知はあかんなと思った。
噺家の安楽亭堂夏役を演じた有薗芳記さんも素晴らしかった。有薗さんの演技を拝見するのも初めてである。
なんと言っても有薗さん演じる堂夏の落語は本物を観ているようで見事だった。ちゃんと内藤新宿のことだったり、歌川広重のことだったりを観客に分かりやすく説明する義務があると同時に、落語家としての話の面白さで人を惹きつけさせる魅力もないといけないので凄くハードルの高い役だと思う。
しかし、有薗さんの見事な噺家演技でそれがどちらも伝わってきて序盤から引き込まれた。有薗さんの落語はもっと観てみたいと感じた。
志乃役を演じた元水颯香さんも素晴らしかった。元水さんの演技を拝見するのも初めてである。
言ってしまえば、志乃も広重と近しい立場にある。まだ若くて世間をよく知らなくて師匠の堂夏に色々なことを教えてもらっている。落語も一人前には出来なくて蕎麦をすする演技をやるのも一苦労だった。
個人的にはもう少し志乃の成長ぶりも見たかったが、彼女のわんぱくに振る舞う感じに元気が貰えて観られて良かったと思えた。
かなり客席通路を使うシーンが多かった役者の印象で、何度も通路側に座っていた私の横を通っていって風を感じた。
広重と同じように、内藤新宿の世界で飯盛女のことを知ったり、お金に目が眩んでキョウヤに心を奪われたりと、色々な経験を積んで成長していく姿が見応えあった。ラストの新宿アルタ前でお笑いのビラ配りしているのも印象的だった。確か元水さんは実際にお笑いコンビを結成してM-1の予選に出場されていた記憶なので、そちらも是非頑張って欲しい。
あとは、黙々と絵を描く姿が印象的だった葛飾北斎役を演じた藤尾勘太郎さんが素晴らしかったのと、小春にぞっこんのコメディ担当だった十返舎一九役の佐藤新太さんも存在感あって好きだった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
ここでは、江戸時代の遊女や飯盛女たちと歌川広重について考察しながら、創作者の業について自分の私見を書いていく。
今年(2024年)の5月に東京藝大美術館で『大吉原展』という展示があったので見に行った。『大吉原展』は、江戸時代の現在の浅草の辺りに存在した吉原遊郭にまつわる美術を展示していた。吉原遊廓とは、江戸幕府公認の遊郭で、江戸時代当時は沢山の遊女が暮らしていた。遊女は、金に困った一族が娘を遊郭に売り出すことによって資金を得ていた。遊女たちは強制的に遊郭で遊女として働かされ、そこで得た資金は前借金の返済に充てられ、遊郭を出ていく自由意志は剥奪されていた。全て今考えてみれば、なんと恐ろしい女性虐待・人権侵害なのだろうと思う。そんなことが150年以上前の日本で普通に行われていたことに驚かされる。
明治時代になって形式上は吉原遊廓は解体されたものの、遊郭という形態自体は日本各地に至る所に残り、ミュージカル『この世界の片隅で』でも白木リンという遊女が登場するほど、戦時中まで存続し続けたのである。
今作で描かれる飯盛女というのは、遊女とは似て非なるもので、遊郭にいた訳ではなく宿場町にいた娼婦のような存在である。やはり遊女と同じように幼くして家族に売り出されて、そこから娼婦として宿場町に宿泊する旅人に身を売っていた。
劇中に登場するように、宿場町の飯盛女は遊郭の遊女と違って幕府非公認だった。そのため、飯盛女が遊女のように身を売って金儲けすること自体本来は禁じられていたというのも、飯盛女の形見が狭かった理由の一つであると思う。そう考えると、遊郭の遊女たちよりも当時は悲惨な待遇だったんじゃないかと思う。
こうした遊女たちの江戸時代の光景は、浮世絵師によって様子が残されている。『大吉原展』でも、喜多川歌麿、菱川師宣、鏑木清方といった有名な浮世絵師による遊郭の浮世絵が数多く展示されていた。そしてもちろん、歌川広重の浮世絵も展示されていた。
歌川広重が『東海道五十三次』を描くまで無名だったというのは、今作を観劇していて初めて知った。そしてそれまで内藤新宿を浮世絵として描いていたことも知らなかった。劇中序盤で志乃が観客に渡していた、歌川広重の初期の浮世絵も見たことがなく、売れない頃は飯盛女や馬糞などを描いていたんだなと思った。
江戸時代の浮世絵師にせよ、令和を生きる創作者にせよ、自分の作品を世に生み出す際に痛みを伴うのは言うまでもないことであろう。創作者の業のようなものは、他の作品でも沢山観てきたが、今作はよりその痛みを切実に感じさせることが出来るし、それはどんな時代においても普遍的であるということも訴えられていて考えさせられる。
江戸時代の浮世絵師は、江戸時代の日常を描いて世間に知らしめるという意味で、そこには浮世絵師の業のようなものはあったのだろうなと思う。なぜ内藤新宿の飯盛女を描くのか、彼女たちのことを本当によく理解しているのか、自分の知名度向上や名声のためだけになってはいないかなど。
創作者は、そういった本当に日常生活で苦しんでいる人々の身に寄り添っているようで、直接的に彼らを助けている訳ではない。逆に、そういった日常を描いて自分たちだけが売れてしまうこともままある。それはそれで良いのだろうかと。
また、今作に登場する広重のように、飯盛女のことをよく知らないで母親と再会してハッピーエンドみたいな地獄のようなシナリオを書いてしまったら大事である。それは無知にも程があるし、ただただ相手を傷つけるだけになってしまう。それでは創作にはなっていない。
創作とは何だろうか。もちろん、今作のような遊郭や遊女たちのこと、浮世絵師のことを題材にするのであれば、彼らについて最低限の知識は持っていないといけない。無知であることによって、創作物が人を傷つけるようなものになってしまってはいけないから。
それと同時に、今作でも描かれているように、自分本位になっていないか、そして創作者という立場自体の無力さもある程度感じていないといけないのかと思う。決して傲慢にはなってはいけないと。
ありのままを描くこと、誠実に真摯に向き合うことが創作においては大事なのだろうなと観ていて思った。
飯盛女も創作者も、すぐに消費されて人々に忘れ去られてしまうというのは切ないことだなと思う。それでも、前を向いて自分に出来ることからやっていくことが一番大事なことなのかもしれない。今作に登場する広重のように、不器用でもまずは沢山アウトプットしてみて、フィードバックをもらい、それを真摯に受け止めて次の創作に生かしていく。そうすれば自ずと売れるようになっていくし、自分の作りたい作品に近づいていけるんじゃないかと。
最後に物凄い希望を持たせてくれる作品だった。私も前向きに、そしていつまでも素直で居続けて、周りの声にも耳を傾けて研磨していきたいと思った。
↓永田紗茅さん過去出演作品
↓辻響平さん過去出演作品
↓佐藤新太さん過去出演作品
↓瀬戸ゆりかさん過去出演作品