舞台 「多重露光」 観劇レビュー 2023/10/21
公演タイトル:「多重露光」
劇場:日本青年館ホール
企画:モボ・モガプロデュース
作:横山拓也
演出:眞鍋卓嗣
出演:稲垣吾郎、真飛聖、小澤竜心、竹井亮介、橋爪未萠里、石橋けい、相島一之(観劇回のキャストのみ記載)
公演期間:10/6〜10/22(東京)
上演時間:約2時間5分(途中休憩なし)
作品キーワード:カメラ、家族、親子、ヒューマンドラマ、泣ける
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆
演劇ユニット「iaku」を主宰する横山拓也さんが書き下ろした新作を、演出家の眞鍋卓嗣さんの演出で上演されるということで観劇。
この横山拓也さんと眞鍋卓嗣さんのタッグは今回の上演が4度目であり、そのうちの『雉はじめて鳴く』(2020年1月)では「CoRich舞台芸術アワード!2020」で1位に輝いており、また『猫、獅子になる』(2022年11月)では第30回読売演劇大賞3部門を受賞している、非常に実力があって相性の良いタッグである。
私は、このお二人のタッグの演劇作品は『猫、獅子になる』のみ観劇したことがあるが、横山拓也さん創作の作品は『逢いにいくの、雨だけど』(2021年4月)『フタマツヅキ』(2021年11月)『あつい胸さわぎ』(2022年8月)『夜明けの寄り鯨』(2022年12月)と観劇している。
物語は、母親から写真館の後を継いだカメラマンの話である。
主人公である山田純九郎(稲垣吾郎)は古びた写真館を継いでいたが、カメラマンとしての仕事のやりがいを見出せずにいた。
純九郎の父親の山田建武郎(相島一之)は戦場カメラマンとしてベトナムに行ったまま戻って来ず、母親の山田富士子(石橋けい)からは父は死んだと伝えられていた。
純九郎は富士子から「父親のように立派なカメラマンになりなさい」と言われ続けており、そんな富士子も数年前に亡くなっている。純九郎は、地元の学生たちを撮影するカメラマンとして仕事を依頼されるも、求められた仕事が出来ておらず教員の木矢野理子(橋爪未萠里)からは失望されていた。
ある日、純九郎の写真館に昔常連だった女性の娘である菱森麗華(真飛聖)がやってくる。この写真館に思い入れがあって久しぶりに家族写真を撮影し、純九郎と菱森は意気投合するが...というもの。
横山さんが創作された脚本を観劇するのは1年ぶりくらいだったが、改めて横山さんが描く人間ドラマは登場人物一人一人の心情描写が丁寧で、彼らが発する台詞一つ一つに重みがあって何度も涙を唆られた。
また、必ずしも自分が良かれと思って他人に対して行った行為でも、その人に対しては裏目に出てしまうというストーリーも横山さんの戯曲らしくて好きだった。自分が長年の人生をかけて教訓としてきたことというのは、万人に当てはまる訳ではない。
人間それぞれ他の人にはわかり得ない事情があって、それをお互いが100%理解し合えないからこそ分かり合えない苦しさというものがある。
それはその人がどんな経験をしてきたかに大きく依存する。
完全な理解は難しい中で歩み寄ることの大切さを教えてくれた作品のようにも思えた。
また、古風な写真館が舞台の演劇作品というのは、とても素敵であるというシンプルな感想も抱いた。
今やスマートフォンで誰でも速くて綺麗な写真を撮影することが出来てしまうが、「多重露光」というアナログで年季の入ったフイルムカメラだからこそ発生する現象に代表されるように、旧式のカメラでこそ出せる味が個性を表現していて素敵だった。
さらに、写真館の古びた舞台セットというものが、演劇というリアルの舞台空間の雰囲気を形作るのに最適で、そこに温もりを感じられて素敵だった。
写真館の大きなフイルムカメラのシャッターを押す音、カメラから発せられるフラッシュ、全てにリアル空間で演出することで伝わる良さが詰められていて題材として素晴らしかった。
役者陣も素晴らしかった。
「新しい地図」に所属する稲垣吾郎さんの演技を拝見するのは初めてだったが、舞台俳優らしいナチュラルな演技というよりは、滑稽さや観客に観せることを意識した演技に思えて、序盤はそれが横山さんの戯曲に対してどう左右するのか気がかりだったが、今回のキャスティングだと非常にその演じ方が自然に思えてきて、稲垣さんらしさもあって且つ横山さんが創る脚本の良さも損ねないちょうど良いバランスに感じられて良かった。
脇役の「iaku」作品でお馴染みの橋爪未萠里さんは安定の演技力であったし、相島一之さん、真飛聖さんという舞台経験豊富な実力俳優も揃っていて全体的に良いバランスで創作されているように感じて素敵だった。
稲垣吾郎さんファンや、横山拓也さん戯曲が好きな方にはもちろん、とても完成度の高い上質な舞台作品なので多くの方に観て欲しい作品だった。
配信などでもやって欲しい。
【鑑賞動機】
横山拓也さん作、眞鍋卓嗣さん演出という実力派の脚本家、演出家のタッグだったので観劇することにした。どちらの方も演劇業界では有名なのだが、この二人のタッグには定評があって、特に2022年11月に上演された『猫、獅子になる』も同じくこのお二人のタッグだったのだが、観劇してみて非常に演劇作品として感銘を受けた作品だったので、今回も同じタッグで演劇が観られることを楽しみにしながら観劇に望んだ。
また、このお二人のタッグが商業演劇として上演されるのも初めてだったと記憶していて、有名人キャストを起用しての作品はどう変化するのかも楽しみにしていた。
【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)
ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。
山田純九郎(稲垣吾郎)が写真館に登場し、モノローグで経緯を語り始める。この写真館のスタジオは、戦場カメラマンをやっていた父親の山田建武郎(相島一之)が立ち上げたものである。しかし、建武郎はベトナム戦争時にベトナムへ赴いて戦場カメラマンをやることになったので、純九郎の母親である山田富士子(石橋けい)が写真館を継ぐことになった。
しかし、ベトナム戦争が終わっても建武郎は帰ってくることなく、富士子からは建武郎は死んだと伝えられていた。純九郎は富士子から、「父親のような立派なカメラマンになりなさい」と言われ続けてきた。そして、「生涯をかけて撮りたいものを見つけなさい」とも。
今は、富士子の後を継いで純九郎が写真館の店主となっていた。
写真館に、地元の学校である私立織原学園の教員をやっている木矢野理子(橋爪未萠里)がやってくる。いつもこの写真館を訪れる木矢野に対して、純九郎は不愛想だった。木矢野は、先日生徒たちがお寺のお堂を写経していた様子をカメラに収めるようにお願いしたのに、生徒の写真は1枚も撮影せず風景ばかりを撮影するなんて何事なんだと叱りつける。純九郎は悪びれる様子もなく、ひねくれた様子で木矢野と会話しようとしなかった。
そこへ、この写真館の近所に住んでいる純九郎とは幼馴染で同い年の二胡浩之(竹井亮介)がやってくる。二胡はお調子者で終始純九郎をからかっては純九郎に叱られる。
木矢野は、今度は生徒たちの体育祭があって、その時の撮影もお願いしようと思っているが、しっかり仕事をこなして欲しいと忠告する。
木矢野と二胡はいなくなり、再び純九郎のモノローグ。純九郎は富士子からの、「父親のような立派なカメラマンになりなさい」「生涯をかけて撮りたいものを見つけなさい」という言葉が呪いのように純九郎を襲い、いまだに純九郎は生涯をかけて撮りたいものに出会えておらず、カメラマンという職業に対してもやりがいを見出せずにいた。
そしてその富士子も数年前に病気で他界した。
ある日、写真館に純九郎がいると見知らぬ女性客がやってきた。その女性客は菱森麗華(真飛聖)と名乗り、昔母親とこの写真館に来て家族写真を撮ってもらったことを話す。当時はまだ小さくて子供で写真館は富士子がやっていたが、今は結婚して息子もいると言う。一緒に息子の菱森実(小澤竜心)も連れてきていた。
菱森麗華の母親は、今は軽井沢の別荘に暮らしていて随分とお金持ちの家庭のようであり、菱森麗華自身もお嬢様であった。菱森麗華は、ここで親子二人で家族写真を撮って欲しいと純九郎に依頼する。純九郎は早速スタジオを準備して撮影に移る。純九郎が用意したのは、1970年から使っているフイルムカメラ。撮影するのに時間がかかるが、その分このフィルムカメラでしか出せない写真の味を出してくれる。
純九郎は、麗華と実の親子二人で撮影した後に、今度はなぜか麗華と純九郎で撮影することになる。実はこれから、純九郎のサポーターとしてお手伝いで働きたいというので、二人をフイルムカメラで撮影する。撮影し終えた後純九郎はフイルムカメラを確認するが、その時誤ってフイルムを巻き取らなかったせいで、最初に撮影した麗華と実の二人とその次に撮影した麗華と純九郎の二人が二重写しになってしまっていることに気がついた。純九郎は、これを「多重露光」と呼んで驚いていた。
夏の夕方の過去の回想シーン。写真館のスタジオに富士子がいる。そこへ、建武郎が髪と髭を伸ばしてボサボサの状態で戻ってくる。富士子は建武郎がベトナムから戻ってきたことに興奮する。
富士子は、建武郎がベトナムへ行ってしまってからの話をする。建武郎がベトナム戦地で撮影した写真は高く評価され、ピューリツァー賞は逃したけれど額縁に飾って保管していると伝える。
しかし、建武郎はそのことをちっとも嬉しいと思っておらず、今はカメラマンをやっていないと言う。そして、今こうしてカメラを持っているのも自分への戒めでしかないと言う。富士子は「え?」という反応をする。建武郎は今はラオスに家族がいて、その家族と暮らしているのだと明かす。富士子の顔を一度見にきただけだと。ベトナム戦争中、建武郎は戦場を撮影することに必死だった。必死だったが故に、本来は救わなければいけない命を救うことが出来なかった。戦場カメラマンなんて人を救うことの出来ない仕事だった。そんな職業の意義が見出せなくなって、ラオスの人たちに寄り添おうと決意したのだった。
富士子は怒りを炸裂させる。そしてモノを建武郎に向けて投げてくる。この家から出ていけと。建武郎は去っていく。その時、たまたま純九郎は普段はあまりしていなかった、写真館の手伝いで外出していた。建武郎が立ち去った後、純九郎はスタジオに入る。何かあったの?と富士子に尋ねたが、なんでもないと答えていた。なんでもない訳がないと分かっていたが、何もそこから深掘りすることはしなかった。
純九郎がスタジオにいる時、再び麗華がやってくる。麗華は、以前このスタジオで撮ってもらった家族写真を見せる。しかし、麗華の話ではその家族写真のうちの何枚かが紛失してしまっているというのである。大事にしているものなのに管理が杜撰でと反省しているようであった。
そんな感じで、純九郎と麗華が意気投合して仲良く二人で会話している所へ、木矢野と二胡が隠れながら様子を窺っていた。しかし純九郎にはバレていて怒鳴られる。
ある日、純九郎の元へ実がお手伝いでやってくる。純九郎は、実にカメラのノウハウを色々教える。そして話しているうちに、実の父はカーレーサーで世界中を飛び回っていてなかなか会う機会がないということを知る。そして今度、実の父が日本でカーレーサーとして出場するが、それが次の現場の地元の学校の体育祭の日であることを告げる。
それを聞いた純九郎は、体育祭の写真撮影のアシスタントはやらなくてよいから、カーレーサーをやっている父の元へ行きなさいと言う。カメラマンというのは、自分が撮りたいものを撮る仕事なんだと。折角の父親の晴れ舞台なのだから、全然会えていない父親の姿を撮りにそちらに向かいなさいと言う。
シーンが代わり、建武郎が自分で書いた電報のようなものを読み上げる。ずっとラオスで暮らしていたけれど、不法入国というのがバレて強制的に日本に帰ることになったと言う。富士子と息子の純九郎のことも気にかけていた。
スタジオには、純九郎と麗華がいた。麗華は仕事をずっと頑張っていて、仕事の話をしている。今日は主人が日本でカーレースをする日だったが、そちらには行かず仕事関連の用事があったようである。
そこへ、木矢野と二胡がやってくる。どうして体育祭の撮影をドタキャンしたのかと。木矢野は激怒していた。さすがに良い大人なので無断で体育祭に来なかったのには、何か事故や事件に巻き込まれたとか心配してしまったが、普通にスタジオにいてバックレてしまうなんて社会人として失格だと言う。どうしてこんな取り返しのつかないことをしたのかと。母の富士子は、学校の写真をずっと担当してくださって非常に感謝していたのに、どうしてその息子である純九郎はそれが出来ないのかと。二胡も普段は明るく冗談ばかり言っていたが、今日に限ってはさすがに...という表情だった。
純九郎は、カメラマンというものは撮りたいものを撮る仕事だからと言う。
その会話を聞いて麗華は、では実はどこに行ったのかと尋ねると、カーレーサーをやっている父の元へ向かわせたと言う。麗華は驚く。そして純九郎の手元に、菱森家にあった紛失した家族写真があることに気が付く。麗華も純九郎を追及し始める。これはなぜここにあるのかと。純九郎は、撮りたかった写真を手元に置きたいがために菱森家から取ってきたのだという。麗華は怒り、純九郎のやっていることは盗みだと言う。
さらにそこへ、実がやってくる。実は不機嫌だった。実はカーレースをやっている父の元へ行って喜んでもらえるとずっと思っていた。しかしそうはならなかった。父はカーレースで忙しくて家族の元を離れたんじゃなかった。むしろ家族が出来て応援されてカーレースにも身が入っていた。しかし、父を実の元に会わせず引き裂いたのは麗華だった。麗華が父と縁を切りたかったからだと。麗華と実は喧嘩を始めてしまう。
写真スタジオに純九郎は一人いる。手には麗華と純九郎と実が写った多重露光の写真が額縁に飾られている。純九郎は、その写真に火を付ける。そして、燃え上がった写真と額縁を床に捨てる。炎が広がっていく。
そこへ、二胡が駆けつけて火を急いで消す。
二胡は、純九郎まで失いたくないんだと言う。近所に住んでいて幼馴染で同い年のお前がいなくなってしまったら自分は一人なんだと言う。両親が施設に入ってしまって、これ以上人を失いたくないんだと。
数日後、写真スタジオに純九郎がいると、一人の初老がやってくる。もちろん、建武郎である。しかし、純九郎はその初老に見覚えはなく「どちら様ですか?」と尋ねる。
建武郎は、自己紹介して純九郎の父であることを告げて純九郎に抱きつくが純九郎は信じてくれない。富士子からは、建武郎は既に亡くなっていると聞いているから。建武郎は、それは違って自分はラオスに滞在してずっと生きていたんだと真実を告げる。一度富士子にも会ってそう話していると。富士子はどこにいるかと純九郎に尋ねるが、富士子は14年前に他界していると言う。
純九郎は建武郎に、どうして何十年も日本に戻らずラオスの家族と一緒に住んでいたのかと聞く。建武郎は、戦場カメラマンとしての意味を見失ったからだと言う。こんなちっぽけな仕事をしている自分があまりにも無価値に感じたから。戦争を目の当たりにして、もっと救わなくてはいけない人々がそこにいると知ったからだと言う。純九郎は日本という平和な世界に住んでいて知らないかもだけれど、深刻な問題を抱えている人たちがいてその人たちを助けたいんだと言う、だからラオスの人々の家族になったのだと。
しかし純九郎は、自分にとってはずっと父親がいなかったことがどれほど辛かったのかを告げる。戦争のことはたしかに大きいことかもしれないが、自分にとっては家族の問題の方が大きいのだと。どれほど父親が不在であったことに囚われ続けてきたかを。
ここで上演は終了する。
非常に横山さんらしい脚本で、安定して素晴らしかった。
横山さんの戯曲には絶対に悪人は登場しないのだが、みんなそれぞれ思っていることを抱えてぶつかってしまう辛さを、これでもかというくらい描いてくるから残酷で胸を打たれる。
私は終始、主人公である純九郎の視点で作品を観劇していたが、最後の最後で建武郎が登場して、建武郎の気持ちも凄く分かるなと思った。もちろん私も戦地に行ったことがないから、戦地がどれほどの土地なのか映像で知っているくらいで想像する他はない。でも、きっとそこには自分が思いもよらない理不尽が横たわっているはずだから、それによって自分が今まで大事にしてきた信念とか価値観って変わってしまいそうで、建武郎が戦場カメラマンを辞めてラオスの人々の生活を支えることに精魂込めようと思う気持ちも納得出来てしまった。でも、自分がもし建武郎の息子の立場だったら、素直にその言葉を受け入れられたかは分からない。
この作品は、仕事に向き合っている人であればあるほど刺さる作品だと思う。考察パートで各登場人物に対して深く記載していいきたいと思う。
【世界観・演出】(※ネタバレあり)
舞台セットが古風な写真館のスタジオというのが、非常に演劇との親和性が高くて素敵だった。舞台空間全体から温もりを感じられて、やっぱり生で観る舞台って良いなと感じさせてくれる作品で好きだった。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。
まずは舞台装置から。
ステージ上一面が山田純九郎が継いだ写真館のスタジオになっている。とはいえ、手前側は草が生い茂った緑色のエリアがあり、写真館の庭がセットされている。劇中、純九郎と麗華のやり取りをこっそり見聞きしていた木矢野と二胡が両手に草木を持っていた時も、このエリアに立っていた。
写真館のスタジオ自体は、右奥へ行くほど両面の壁が狭まっていくような構造となっていた。下手側には入り口に繋がる扉が一つあってデハケにもなっているのと、壁面には様々な写真が額縁で飾られていた。ステージ中央には机と複数の椅子やソファーが置いてあり、客人がくるといつもこの席に案内していた。上手側には撮影スタジオがあり、アンブレラや撮影場所の背景白地の壁などが設置されていた。
さらに、その奥には、暗室へと続く扉があって、建武郎がベトナムへ行くシーンや、富士子が亡くなったことを演出するシーンで使用されるデハケだった。こういう特定の意味を持たせるデハケを用意する演出って素晴らしいなと思った。さすがは腕のある眞鍋さんの演出だなと感じた。
また、舞台セットの装飾の感じも、非常に手作り感があって好きだった。舞台セットっぽさがある。温もりを感じられて、たしかにそこには歴史も感じられる。長年富士子が経営してきた写真館だから年季が入っている感じがうまく醸し出されていて良かった。
次に映像について。今作では何度か映像演出が使われるのだが、特にステージ上にスクリーンがある訳ではなく、舞台上の壁一面にまるでプロジェクションマッピングのように映し出されるのが特徴的だった。
例えば、建武郎がラオスから日本に帰国することを電報で告げるシーンの時に、暗室に繋がる扉あたりの壁面に、東南アジアの日常写真を投影していて面白かった。
また、純九郎が多重露光の写真に火を付けようとするシーンで、富士子の口がいくつもプロジェクションマッピングのように映像として投影され、まるで純九郎に呪いをかけているかのような言葉になっている演出も印象的だった。
また、純九郎が火をつけて多重露光の写真を床面に捨てた時に、炎のプロジェクションマッピングが投影されたが、そのままスタジオが全焼してしまったのかと思った。
そして印象に残ったのはなんと言っても舞台照明。舞台照明は全体的に格好良かった。というか、印象に残っているものが多かった。
まず日中の日差しの照明がとても明るくて好きだった。ステージ上には草が生い茂っているエリアもあるので、そこに日光のような照明が当たるあたりとか自然と温もりを感じられて好きだった。
また、建武郎が一時的に富士子の元へ帰ってきた時の夕暮れの照明も綺麗だった。あのオレンジ色に染まったスタジオと、山田家の今後を大きく変えてしまった出来事のインパクトが作品全体の中でも際立っていて忘れられなかった。
物語序盤の、カメラのシャッター音と共に建武郎と富士子にスポットが当てられてモノローグが繰り広げられるシーンの照明も好きだった。あの洗練された演出によって序盤から一気に舞台の雰囲気に飲み込まれて行った。
また、劇中に壁面に親子三人のシルエットを映し出すシーンがあったが、あの演出はどのように作られているのだろうか。壁面に対して照明を当てるが、その照明の先の部分で切り絵のようにシルエットの形になるようなものを用意して照らすのだろうか、とても美しいシルエットでここでも眞鍋さんの演出力を見た。
私は2階席からの観劇だったのだが、暗室に繋がる扉から明るい光が入り込んで、ステージ手前まで光が伸びている演出が見事だった。これは2階席だったからこそ綺麗に見えたのだと思っている。その光が、まるで富士子が天国へ召されるかのような演出にも感じたので、凄く演出としても好きだなと思いながら見ていた。
あとは、ステージ隅の至る所に真っ赤に光る照明も置かれていたが、あれは何だったのであろうか、あの照明だけどこかサスペンス的な印象を抱いた。
次に舞台音響について。
基本的にはBGMはかからず、効果音のみ。一番印象に残ったのは、カメラのシャッター音。やはりスマートフォンのカメラと違って、アナログのフイルムカメラは「バシャーン」という大きな響き音がとても良い。写真を取られたんだというのを凄く実感する。昔は、写真を撮られると魂を抜かれるといわれたが、あそこまで大きな音がしたらそう思っても無理はない。昔は、写真1枚を撮るという行為が凄く価値のあることだったから、家族写真を盗まれるという行為が、今以上に人を傷つけるものだったのだろうなと思う。
最後にその他演出について。
多重露光の家族写真を燃やすシーンの演出の仕掛けが知りたかった。純九郎が最初に家族写真に火を付けたのは本物の炎なはずはないと思うが、2階席の遠い場所から見ていると本物のように見えた。そして、それを床面に捨てると家族写真中に炎が燃え広がり、これも遠くからだと本物に見えた。ただ、火の着火部分が不自然だったので、これは意図した所にしか火が上がらない作り物だと分かった。問題はその後で、二胡が出てきて消火するが、そこから一気に煙が出てきて火が消えている演出がタイミングが絶妙で素晴らしかった。仕掛けを知りたかった。
あとは、回想シーンに切り替わる時に、不意にステージ上に相島一之さん演じる建武郎が登場するのが良かった。前川知大さん演出の「イキウメ」の作風に少し似ていた。
【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)
「iaku」作品でお馴染みの橋爪未萠里さんと相島一之さん以外は、初めて演技を拝見する方々だったが、皆実力俳優揃いで素晴らしかった。「新しい地図」の稲垣吾郎さんを主役に据えて、稲垣さんのファン向けの商業公演ではあると思うが、脇役を実力俳優でしっかり固めて演劇の質としても手を抜いていない感じがあって良かった。
特に注目した役者さんについて見ていく。
まずは、主人公の山田純九郎役を演じた「新しい地図」の稲垣吾郎さん。
かつてのSMAPのメンバーで、舞台というよりはテレビドラマ出演の経験が豊富である稲垣さんがどんな演技をされるのかと楽しみにしていた。第一印象は、凄く観客を意識したオーバーな演技が多いなということ。今作は横山さんの戯曲というのもあって、ストレートプレイの中でも割とナチュラルな演技を求められる作品だと思っていたので、観客ウケするようなベタな演技やオーバーな演技は果たして必要か?と思いながら観ていた。しかし、そこに合わせるかのように周囲のキャストの方も、その稲垣さんの演技のテイストに合わせて、普段の横山さんの作品よりは割とテレビドラマ風に、だけれども違和感なく世界観を作り上げていたので結果的にハマっていたと感じた。
個人的には、この純九郎の悪い人じゃないんだけれどダメっぷりが凄く好きだった。頑固で、他人のことにあまり興味を持たなくて、木矢野や二胡には塩対応。そしてやり方が不器用で、最後追い詰められるとスタジオ全部を燃やしてしまおうとする。これ、二胡がいなかったら大騒ぎになって警察にお世話になる所だったじゃないかと思うほど、理性が保てていなかった。けれども、凄く気持ちは分かっていて、こうやって親に期待されて重荷に感じながら人生を全うせざるを得ない人って結構いるからキャラクター設定としても上手かった。また、そんな性格の持ち主を演じる稲垣さんもハマり役だった。
「新しい地図」のメンバーは稲垣さんの『多重露光』の出演を皮切りに、草彅剛さんが来年(2024年)1月に『シラの恋文』に出演し、香取慎吾さんが2月に『テラヤマ・キャバレー』に出演する。こうやって旧SMAPのファンの方にも演劇が広まっていくことは、演劇ファンとして嬉しいことである。
次に、山田建武郎役を演じた相島一之さん。相島さんの演技は、池田亮さんが作演出を務める「ゆうめい」の『ハートランド』(2023年4月)で一度拝見している。
相島さんが演じる建武郎は、ベトナムへ赴いてからの演技が非常に印象に残っている。戦地を見てきて価値観も大きく変わって、色んなことに寛容になっていったように見えて、そのゆっくりと優しく問いかけるように話す話し方が凄く良かった。
どことなく「イキウメ」に出演される森下創さんと雰囲気が近くて、森下さんがこの役を演じても全く違和感がないと思う。戦場にずっと暮らしていて帰ってきた人とか似合いそうだった。
最後の建武郎の台詞を聞いていて、もちろん私も戦地に赴いたこととかはないが、実際そういったものを目の当たりにしてしまうと、今の価値観も大きく揺らぐのかなとも思った。今まで仕事にしてきたものの無力さを痛感させられるって結構衝撃的だと思うし、日本にいた家族を捨ててまで留まったという心情の変化も興味深かった。個人的には、建武郎のドラマももっとみたいと思うくらい魅力的で、そんな役を演じられていた相島さんが素晴らしかった。
菱森麗華役を演じた真飛聖さんも素晴らしかった。元宝塚歌劇団と聞いて納得の演技力だった。非常に演技が力強く、お金持ちで逞しい女性の印象はヒシヒシと感じていた。
子供を騙してまで、主人とは離れ離れになって息子を育てようとするのはなかなかの女性だなと思う。きっと、最初に写真館を訪れて実と二人で写真を撮ったのは、もうカーレーサーの主人を家族の一員としたくないという決意の現れだったのだろうと思う。
二胡浩之役を演じた竹井亮介さんのひょうきんな演技も観ていて面白かった。ちょっとお笑い芸人ぽさがあって良かった。真面目で頑固な純九郎と対照的で、明るくバカばっかしている感じが良いのだが、純九郎に全然相手にされなくて可哀想でもあった。さらに、両親が施設に入ってしまって仲間が純九郎しかいなくなってしまったというのも、こういう性格の二胡なので可哀想に思えた。
おそらく、この写真館がある地域も田舎だと思うので、過疎化が進んでいると思う。両親は年取って施設に入ってしまい、一人取り残される未婚の中年男のような現象は、今の日本社会にも数多く存在するからありそうな設定でもあるし、横山さんは以前『猫、獅子になる』でも8050問題について戯曲を書かれているので、多くの観客にも刺さるし横山さん的にも描きたいものなのかなと思った。
あとは横山さんの作品でお馴染みの橋爪未萠里さん演じる木矢野理子も良かった。橋爪さんが本気で怒るあたりが個人的には好きだった。
【舞台の考察】(※ネタバレあり)
昨年(2022年)の12月に観劇した『夜明けの寄り鯨』以来、約1年ぶりに横山さんの戯曲を舞台で観劇したが、やはり横山さんの描くヒューマンドラマはいつも心を強く動かされて、物凄く贅沢な演劇を観られたなという高揚感を与えてくれるので大好きである。
横山さんは人物像を描くのがとても上手くて、こんな人たしかにいるというリアルさだけではなく、その人が発する言葉、キャラクター性、そして登場人物たちのぶつかり合いを描くのが物凄く上手くて、だからこそ私は心動かされ、涙を唆られるのだなと思う。
『逢いにいくの、雨だけど』『フタマツヅキ』『あつい胸さわぎ』『猫、獅子になる』『夜明けの寄り鯨』と観てきたが、横山さんの実力が上がっているのか、私の好みが横山さんの作品寄りになったのか分からないが、年々私は横山さんの作品が好きになっていっている。
ここでは、今作に登場するキャラクターについて考察していきたいと思う。
この物語は、まさに言葉が持つ呪いの話だなと思った。主人公の山田純九郎は、小さい頃からずっと母親から「父親のような立派なカメラマンになりなさい」「自分が撮りたいと思うものを見つけなさい」と言われ続けてきた。
母親の富士子にとって、その言葉は何も息子が嫌いで言っている訳ではなく、そうなって欲しいという期待からかけていた言葉だと思う。しかし、純九郎にとってその言葉は呪いでしかなかった。純九郎はきっとカメラマンなんかにはなりたくなかったのだと思う。純九郎も小さかったと思うので、建武郎がいかに素晴らしい戦場カメラマンだったかは一緒に現場を体験していないから知る由もないであろう。何がそんなにカメラマンとしていることが魅力的なのか分からないまま、母親の後を継いだのではないかと思う。
母親の富士子としては、少なくとも建武郎が一度ラオスから戻ってくるまでは、きっと建武郎の帰りを待ち侘びていたのだと思う。建武郎が帰ってくるまでは富士子が写真館を営み、建武郎が帰ってきたら腕のある戦場カメラマンの一族が営む写真館ということで、地元では有名な写真館を営む人間としての誇りで生きていこうと思ったのかもしれない。
富士子自身も、戦場カメラマンとして活躍する建武郎のことが好きだったと思うし、建武郎というその人というよりも、カメラマンである建武郎が好きだったのだろうなと思う。だからこそ、建武郎がラオスから一時帰国した時の発言が衝撃的だった。建武郎が、戦場カメラマンを辞めてラオスの家族と暮らしているという事実は、富士子の好きだったカメラマンとしての建武郎がいなくなってしまったこと、建武郎は不倫して他人の家族になってしまったのだから。それは富士子も辛いし耐えきれないだろうなと思う。
話を元に戻すと、富士子にとって純九郎は、そんな理想で憧れだった建武郎の形見のような存在だったのだろうなと思う。カメラマンでもなくラオスの人間になってしまった建武郎は、富士子にとってはもはや建武郎ではなかった。だから富士子の知る建武郎は死んだも同然だった。だからこそ富士子は、純九郎にその存在を求めたのだろうなと思う。
しかし、純九郎にとってそれは重荷だった。その言葉に囚われて、自分が撮りたいものを見つけようとしていたが、一向に出会うことがなかった。だからカメラマンとして身が入ることがなかったのではないかと思う。
純九郎の近所に住む二胡は、性格こそ純九郎とは正反対だが、個人的には境遇としては似ている気がした。どちらも中年で同い年45歳で、両親を失って自分で一人で人生を歩んでいかないといけないのに、その力を持てていない。物語終盤で、二胡が純九郎を助けたのは、そんなシンパシーを感じていたからだと思う。
そしてこの状況は、どこか8050問題を連想させられるのは私だけだろうか。横山さんは以前、『猫、獅子になる』で8050問題を題材にした作品を創作されていた。少子高齢化が進む日本社会。段階世代と呼ばれ、高度経済成長期に育って、バブル期という日本がもっとも威勢の良かった時代に社会人を全うした世代は高齢化し、バブル以降の日本が収縮していく時代しか知らない世代が社会に出る。マンパワーでなんとかする勢いのある時代が終わって、効率良く物事を進めることを良しとする時代によって淘汰されてしまった中年以下の世代は社会問題となっているようである。そんな日本社会の負を、今作の純九郎と二胡の苦悩は描かれているようにも感じた。
話を再び戻して、純九郎はずっと撮りたいものを見つけられずにいたが、菱森麗華という女性に出会い、彼女と息子の家族写真を撮ったことで、自分が本当に撮りたかった写真を心の中で見つける。それは、家族写真。近所の学校の生徒たちが頑張る姿などではなく、家族写真だった。
純九郎にとって父親はずっと不在だった。母親と自分しかいなくて、親子三人で撮影した写真は1枚もなかったのだと思う。それが純九郎の人生にとってずっと乾きだったのだと思う。その乾きから、カメラマンという道にも腰が上がらなかったのだと思う。
しかし、多重露光で自分がまるで菱森家の主人のように偶然映り込んでしまったことで、自分の撮りたいものというのが明確になったのだと思う。自分は家族にずっと飢えてきたから、家族を撮りたいと。
しかし、その自己中心的な思いは、周囲の人間を大いに巻き込んで大変な事態に繋がってしまう。体育祭の撮影をバックれたのもそうだが、菱森家の昔の家族写真を盗んでしまったり、ましてや実に父親に逢いにいかせようとしてしまったことは、そんな純九郎の一方的な思いが周囲の人間を不幸にしてしまった。
このあたりの残酷さが何とも横山さんの戯曲らしくて、個人的には好きなところである。結局、純九郎は実に父の元へ行かせたのも、本当に実のことを思ったというよりは、そうさせることで自分のモヤモヤを代わりに払拭したかっただけに他ならないと思う。純九郎はかなり自分勝手な奴だった。けれど、そういう横山さんが創り出す欠点を持つ人間らしさが私的には凄く好きなのである。
家族の不在という十字架をずっと背負い続けながら生きてきた純九郎は、こうやってずっと日本に帰ってこなくて家族を置いてきた父親としての建武郎を憎んでいたに違いない。そしてさらに残酷なのは、建武郎自身もそうせざるを得ない事情を持っていたということ。
私がこの作品で一番感銘を受けたのが、ラストの建武郎の言葉だった。東南アジアの戦地で目の当たりにしたこと。私は戦争を経験したことがないので、その光景の凄まじさは知る由もない。でも、建武郎が今までの仕事と家族を捨てるまで価値観を変えてしまったものだったのだから、きっととてつもなく酷い惨状を目にしたに違いない。
そこをあえて詳しく描かず、建武郎の語りだけで終わらせる焦ったさも好きだった。凄く想像力を掻き立てられる。だから演劇は素晴らしいと思える。
横山拓也さんと眞鍋卓嗣さんのタッグは、演劇作品として本当に上質で素晴らしいスタッフワークなので、そんな作品が多くの観客に観ていただけて演劇ファンとしては嬉しかった。
今後も、このタッグで様々な作品を創作して、人々を魅了して欲しい。
↓横山拓也さん×眞鍋卓嗣さん作品
↓横山拓也さん過去作品
↓相島一之さん過去出演作品
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