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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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舞台 「ブレイキング・ザ・コード」 観劇レビュー 2023/04/08


写真引用元:『ブレイキング・ザ・コード』 公式Twitter


公演タイトル:「ブレイキング・ザ・コード」
劇場:シアタートラム
劇団・企画:ゴーチ・ブラザーズ
作:ヒュー・ホワイトモア
翻訳:小田島創志
演出:稲葉賀恵
音楽:阿部海太郎
出演:亀田佳明、水田航生、岡本玲、加藤敬二、田中亨、中村まこと、保坂知寿、堀部圭亮
公演期間:4/1〜4/23(東京)
上演時間:約2時間45分(途中休憩15分)
作品キーワード:LGBTQ+、AI、天才数学者、戦争、ヒューマンドラマ、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★★★☆☆



イギリスの劇作家であるヒュー・ホワイトモアが1986年に書いた戯曲を、小田島創志さんの翻訳のもと日本で33年ぶりに上演。
今作『Breaking the Code』は、1987年にブロードウェイで上演され、トニー賞3部門にノミネートされている。
日本では1988年に劇団四季が浅利慶太さん演出のもと今作を上演している。
今回の上演では演出を稲葉賀恵さんが担当しており、稲葉さんは今年(2023年)に開かれた第30回読売演劇大賞で優秀演出家賞を受賞している。

物語は、現在のコンピュータや人工知能開発の礎を築いたとされているイギリスの数学者アラン・チューリングを主人公に据えたものである。
アラン・チューリングは、第二次世界大戦中に当時解読不可能だと言われていたドイツ軍の暗号であるエニグマを解読したことで知られており、映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年)でも描かれている。
しかし今作は、アラン・チューリングの話ではあるものの、エニグマの暗号を解読したエピソードではなく、同性愛者として有罪判決を受けたエピソードを中心に描かれる。
アラン・チューリング(亀田佳明)は、自宅に空き巣が入ったということで部長刑事のミック・ロス(堀部圭亮)を自宅に呼ぶが、アランが少し前まで会っていた性的な関係を持っていたロン・ミラー(水田航生)のことを隠していたことで疑われ、アランが同性愛者だったことがバレてしまって有罪判決が下されてしまう。
一方で、アランの幼少期にクリストファー・モーコム(田中亨)という男性が好きであったこと、エニグマ解読にあたってパット・グリーン(岡本玲)という女性と手を組みそのまま婚約に至るなど、時系列を交錯させながら進行していく。

ステージ上には家具が複数置かれているくらいのシンプルな舞台装置に、蛍光灯が3行3列で配置されていて、その冷たく感じさせる空間が、アランが生きていた当時の戦時中で且つ同性愛が全く認められていない冷酷な時代を象徴しているように思えた。
蛍光灯を巧みに切り替えて場転することで時間軸を切り替える演出が素晴らしかった。私はその演出によって、時間軸を含めてもさほど混乱せずに楽しめた。

そしてなんと言っても、アラン役を演じる亀田佳明さんの演技力の素晴らしさ。天才数学者というだけあって非常に変わり者なのだが、途中で爪を噛んだり、自分がトラウマを感じている過去について話をするときに吃ったり、それから数学の話になると饒舌になる感じが、非常に数学教授としてどこかにいそうな人物像に感じられた。
また、あそこまで演技を矯正させて違和感なく演じられる俳優としての力量に感銘を受けた。かなり難しい役だと思っていて、あの難解な数学専門用語の数々を噛まずに饒舌に語りこなす俳優としてのレベルの高さに驚き釘付けだった。

そして、タイムリーな話題だからこそ、この作品を今上演することの意義も凄く感じられた。
「ChatGPT」の登場による人工知能の話題や、ジェンダー観がこれまで以上に取り沙汰されて話題に上がる時代だからこそ刺さる内容だった。
劇中に登場する台詞を聞いていると、どこかアランが作ろうとしていた電子頭脳が、時を超えて「AlphaGo」や「ChatGPT」を脳裏で想起させてくれるように感じられて、これも演出の一部なのかななんて考えながら楽しむことが出来た。
こういった人工知能系のSF的な解釈ができる作品は個人的には好みなので大満足だった。

事前情報なしで観劇すると、時系列の交錯によってかなり混乱するかと思われる。
事前に映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』を視聴しておく、もしくは戯曲を読んでおくなどしてから観劇に望まれることを強くオススメする。
人工知能関連に付随するSF的な物語としても楽しめるし、同性愛者であるが故に苦しんだアラン・チューリングという一人の男性としてのヒューマンドラマとしても心動かされるポイントは沢山あるので、ぜひ多くの人にご覧になって頂きたい。

写真引用元:ステージナタリー 「ブレイキング・ザ・コード」より。(撮影:杉能信介)


↓映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』


↓『ブレイキング・ザ・コード』戯曲掲載



【鑑賞動機】

一番の決めては、アラン・チューリングの実話を舞台化した作品だと知ったから。映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年)は、過去視聴したことがあって大好きな物語であると同時に、アラン・チューリングという人物に関しても私が歴史上尊敬する人物の一人でもあるので、非常に興味を唆られた。
また、演出が稲葉賀恵さんということで、彼女の演出作品は観劇したことがなかったけれど、今年の読売演劇大賞で優秀演出家賞を受賞するほどの実力者なので観てみたいと思った。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

アラン・チューリング(亀田佳明)の自宅に、刑事部長であるミック・ロス(堀部圭亮)がやってくる。アランは、自分が空き巣の被害に遭ったことをミックに伝える。どんなものを盗まれたのかミックは尋ねると、アランは様々な雑貨品を挙げる。
アランは、ジョージという男に空き巣の被害に遭ったのではないかと言う。

時は、アランの幼少期に移る。アランは、友人のクリストファー・モーコム(田中亨)と一緒にいた。二人は大の仲良しだった。そこへアランの母親のサラ・チューリング(保坂知寿)がやってくる。サラは、アランがいつも数学の難しいことばかり話していることに呆れているようでもあった。アランはアインシュタインの相対性理論の話などするが、サラはちっとも分からなかった。
クリストファーは、サラから学校の中での様子や、興味関心ごとについてなど色々な話をした。その中の文脈で、アランの父は現在病気で休職中であり療養していることが分かった。

場所は変わって、アランがバーに入ってくる。そこには一人の男性が横に座っていた。彼は話しかけてきた。名前はロン・ミラー(水田航生)というらしい。ロンは、アランのことについて色々尋ね、アランは自分が数学の教授をしていたことや、電子頭脳に関する開発に携わっていたことを話す。ロンは、その数学の話に食いつき、ロン自身もかつて化学に興味を持っていたことを告げ、学生時代に実験室で化学用品をぶちまけてしまって諦めたのだと言う。
それに加え、ロンはアランの研究していた内容に付随して、ロボットが登場するとある映画が好きだと言うが、アランはその映画について知らなかった。
すっかり意気投合したアランとロンは、そのまま二人でバーを離れる。

場所は戻って、アランとミックの会話。空き巣のことについて話す。
その後、ミックの元にジョン・スミス(中村まこと)がやってくる。ジョンは、アランとミックのやり取りを聞いていたようで、アランが何か隠し事をしているのではないかと言う。そして、ミックにその隠し事についてアランに言及するように促す。

時が変わって、アランはディルウィン・ノックス(加藤敬二)と対面している。挨拶がてらアランとディルウィンは、アニメ映画「白雪姫と七人のこびと」の話をする。白雪姫は毒りんごを食べて眠ってしまうが、王子様のキスによって目覚める素晴らしい話だと。
アランはディルウィンが、自分をドイツのエニグマの暗号解読のために招集したのだと察す。そこから戦争の話になる。アランはかつては平和主義者であったが、意義のある戦争もあると考えるし、戦争を早く収束させるためにも暗号解読は興味深い仕事であると言う。
そこから、アランの大学在学時代のチューリングマシンの話になる。アランは正解と間違いを区別する方法について、ヒルベルトが提示した原理を覆そうとチューリングマシンを開発して証明しようとしたと、とても饒舌になりながら話す。
ディルウィンは、アランのチューリングマシンに関する説明に分からない点も色々あると言いながらも、アランのその数学者としての実績を評価してエニグマの暗号解読に任命する。
ディルウィンは、一緒にエニグマの暗号解読に携わる人間として、パット・グリーン(岡本玲)を紹介する。アランは爪を噛んだ手をスーツで拭きながらパットと握手する。パットもそれを嫌がらなかった。
パットとアランは、早速エニグマの暗号解読について議論を活発にする。

アランは、ロンの家に遊びに来ていた。そしてそこで二人は、お互いが同性愛者であることをカミングアウトする。そしてそのまま二人はキスをし合う。
その後、ロンは自分の金がいくらか盗まれていることに気が付き、アランが自分の金を盗んだのではないかと疑い、ロンが一方的にアランを攻める。アランは盗んでおらず、そのままアランはロンの元を去ることになる。

アランは、自分の母のサラにパットを紹介する。サラはパットを喜ばしく迎え入れ、アランが変わり者でパットに迷惑をかけているのではないかと色々と心配する。アランの父は病気にかかって既に亡くなっていた。
そこから話の文脈で、クリストファーの話になる。クリストファーは既に亡くなっていた。クリストファーは結核にかかっていて余命いくばくでもなかったにも関わらず、そのことをクリストファーの口から告げられずにいた。
アランとパットは二人きりになる。パットはもみの実を取り出して、そこに付くかさの付き方がフィボナッチ数列みたいだと語り合う。
そこでアランは、自分が同性愛者であることをカミングアウトし、婚約は破棄するようにパットに申し出る。パットは、同性愛者でありそういった変わり者のアランであるから好きなのだと言う。
サラが戻ってきて、場は収まる。

再び、アランの自宅にミックがやってくる。
先日のジョージという男に空き巣に入られたという件について、アランは何か隠しているのではないかと追及する。そこでアランは、先日知り合ったロン・ミラーという男性の存在を挙げる。なぜアランはロンのことについて隠していたのか、いつどのように出会って、どういう関係なのかとミックは問いただす。アランは、ロンと性行為をしたとカミングアウトする。
ミックは、それは同性愛者ということになり法律に背く行為なので、有罪判決であると言う。アランは空き巣とは関係ないではないかと憤慨するが、ミックはこの件は別で裁かなければならないと言って逮捕する。

ここで幕間に入る。

アランは学生の前で講義を始める。冷たいポリッジの入ったボウルの話を最初にするが、本題はそれではなく人間の脳と電子頭脳について。ポリッジの入ったボウルは人間の脳に似ている。そして電子頭脳とは外見は全く異なる。しかし、中で処理されている内容については似通っている。人間の脳も電子頭脳も、何か与えられたタスクを入力すると、それに伴って出力がされる。
電子頭脳は記憶することもできる。それは音波の遅れを使うことによって。では電子頭脳も人間の脳と同じように考えることができるのか、きっとそれは2000年になる頃には可能になっているだろう。知識人はそれを認めないが、きっとそれが実現されているだろうと。

アランはエニグマの暗号解読を終え、ディルウィンに呼び出される。ディルウィンはアランに、戦地に赴いて暗号を解読して欲しいとお願いする。チャーチルの代理として行って欲しいと、それだけ頼りにしていると。
そこからアランはディルウィンと同性愛のことについて話す。ディルウィンは、結婚しているがセックスをいつもする訳ではないが情熱で繋がっていると言う。

アランは母親のサラの元へ訪ねる。アランはサラに対して、自分が同性愛者であり、そうであるが故にパットと婚約を破棄したこと。そして、今同性愛者として性行為をしたことに対して裁判にかけられる所だと言う。
サラはアランの身を案じる。

アランは再びロンの家にお邪魔している。キスをして愛し合いながら、トルストイの「戦争と平和」について語る。

アランは再びパットと会う。パットは結婚して綺麗な主婦になっていた。
アランは、自分はあのままパットと結婚していたら、普通の人生を送る決断をしていたらこんなことにならなかったのかなと嘆く。パットはアランを励ます。そこで、ディルウィンもかつては同性愛者であり、結婚したことによってその同性愛者であった自分を忘れて、人生を送ったということをパットはアランに言う。
一方で数学の話になると、パットも以前と同じように興味津々で話を聞き、議論してくれた。

時は戻って現代、アランの元へジョン・スミスがやってくる。アランは彼のことについて何も知らない。ジョンは、アランがエニグマの暗号解読に携わった重要人物だとして、その同性愛者であるロンにそのことについて何か話したか追及する。ジョンはアランはそんな諜報員なので、自由に動くことは出来ないのだと言う。

場所が変わって、アランはニコス(田中亨)と一緒にいる。ニコスはギリシャ語しか話さないので何を言っているか分からない。
アランは壊れたラジオを直す。無事に音が聞こえるようになると二人で喜ぶ。アランは、生物学に興味を持っており、生物の全ての行動が科学によって証明されることに興奮していた。そこで一番重要なのは、感情というものが科学によって証明出来るのかということ。それは、エニグマの暗号を解読すること以上に重要なことであると。

サラがミックの元へやってくる。アランはどうして自殺をしたのかについて納得がいかないと。
アランは沢山の夢を持っている人間だった。決して自殺をするような人間じゃないと。そうさせたのは、あなたたちなのではないかとミックを追及する。

アランは、身体がなくても考えたり感じたりすることが出来るのかについて興味があり、身体を無くしても心だけ残るのかについて実験したいのだという。
そして、アランは自ら青酸カリとりんごにかけて食べる。ここで上演は終了する。

映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』も、エニグマ解読の部分のヒューマンドラマにフォーカスしていて面白かったが、個人的には今作の脚本の方がより好きだった。
今作の戯曲で素晴らしいと感じられたのは、アラン・チューリングを中心に据えて、彼とそれ以外の人物を1対1で描くことで、よりそれぞれの人物像が深く浮き彫りにされてどの登場人物に対しても魅力を感じさせられた。
アランが非常に知的な存在なので、彼が発する小難しい知識や教養が私にとっては心地よく感じられた。台詞一つ一つにその言葉の後ろ側に何か含みがあって、それを色々解釈出来る面白さが堪らなかった。だからこそ、今作は戯曲を買って読んでしまった。台詞一つ一つを反芻してみても、今作の面白さがじわじわと漂ってくる感覚があって、こんなに戯曲に惹かれる作品も個人的には珍しいかもしれない。

写真引用元:ステージナタリー 「ブレイキング・ザ・コード」より。(撮影:杉能信介)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

シンプルで且つ冷酷でまるで牢獄のような舞台セット、そして研究所を彷彿させるような蛍光灯、非常に見応えのある世界観・演出だった。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージ上には何かが仕込まれているという感じではなく、シアタートラムの広いステージに巨大な部屋が一つ広がっているだけである。下手には小さな本棚(トルストイの「戦争と平和」などがある)、中央には大きな木造のダイニングテーブル、そして上手側手前には絨毯、上手側奥にはソファーがある。いずれにせよどの家具もそこまで大きくないので、舞台上は広々としている。
また、ステージ背後には巨大なパネルが天井から吊り下げられる形でセットされており、わずかに斜めになっている。模様もあって、木造のタイルの床のようなおしゃれなインテリアのようである。また、このパネルは終盤のアランが自殺するシーンでは上に引き上げられる。
部屋の外側にあたる、ステージの一番下手側と上手側にはそれぞれ地下に通じる階段があって、役者はそこからでハケ出来るようになっている。
全体的に20世紀前半のクラシカルな舞台セットなのだが、戦時中という時代背景や、アランにとってはまだ暗黒の時代、つまり同性愛が法的に認められない冷たい時代なので、どこか世界観は青く冷酷に感じられる。そしてそこがまた惹きつけられるポイントだった。

次に舞台照明について。舞台照明は、吉本有輝子さんという実力のある方が担当されているみたい(私は今作で初めて認知した)だが、非常に独創的で素晴らしい舞台照明だった。今作では、このやり方が的を得ているなと感じた。
まずは、天井に吊り下げられている3行3列の蛍光灯。この蛍光灯の使い方が巧妙で、この灯りがカットイン的にバッと入ることで場面転換が行われる。白色であるとアランとミックの尋問のシーン、オレンジ色だとロンの部屋みたいな感じで、この蛍光灯の色によってどの場面であるかが分かりやすくなっていた。さらに、終盤あたりでアランのモノローグのシーンで、彼が生物学の話をしながら生物が所詮科学によってあらゆることが証明出来てしまうのくだりで、この蛍光灯が交互に点滅することによって、蛍光灯が遺伝子配列のように見えた演出手法も好きだった。遊び心満載で良かった。
蛍光灯に注目しがちだが、ステージ両端やステージ後方に置かれていたサイドスポットの効果も素晴らしかった。天井からのサスペンションライトの灯りが弱めなので、蛍光灯だけではとても全体は照らせないので、それ以外の照明が必要になるが、そのカバーの仕方が素晴らしかった。
あとは、アランとパットの二人のシーンで、日差しが二人に当たる照明は明るくて素敵だった。日差しの照明に意識が行きがちな自分だった。

次に舞台音響について。
音楽はスピーカーから、チェロの演奏とピアノの演奏が途中途中流れていた。とても滑らかな楽曲で癒やされたし効果的だった。これが生演奏だったらなお良かったのかなと思う。
あとは、玄関のチャイムの「ジリリリリ」という音。昔の西洋のチャイムという感じがあって好きだった。
ロンとアランが出会うシーンはバーのシーンだが、そこでわずかにラジオのようなものから音楽が流れていた。その音声も好きだったのだが、場面転換するときに、そのラジオが「ブツッ」という音がして切れて、それに合わせて蛍光灯の照明も変わってという切り替えが好きだった。一番格好良かった場転だった。

次にその他演出について。
映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』との比較にもなってしまうかもしれないが、日本人キャストが今作を上演することに全く違和感は感じていなくて、むしろ演技一つ一つに面白さや滑稽さがあったから、全体的に緊迫した舞台にはならず、所々笑いがこみ上げるような作品に仕上がっていた点が、私自身驚きでもあり逆に魅力的に感じた。舞台でやるからかもしれないが、映画版のようなずっと張り詰めている感じはなくて、良い意味での隙が沢山あるというか、凄く登場人物たちに人間性をより感じられる作品であったのが一番演出部分で魅力的に感じた所かもしれない。
あとは、男性同士のキスシーンなど少し過激なシーンも所々ある。俳優さんはどんな気持ちで演じているのだろうと気になる所だが、舞台で男性同士が積極的にキスをするシーンは観たことがなかった(もちろん映画ではある)ので、ちょっと初めての体験で心動かされた。
上演中は、ジョン・スミスがなぜ絨毯の上にある紙袋をグチャッと踏みつけていくのか、その解釈が分からなかった。しかし後で気がついたが、絨毯というのはアランにとっては神聖な場所、つまりロンやクリストファーと性行為をする場所だったのに、そこをヅカヅカと踏みつけるジョンは、そういった同性愛に対するセクシュアルマイノリティな領域への侵害だったと考えられる。エニグマの解読という重要な任務についていたアランだからこそ、同性愛などという詮索されやすいことを今後するなということだったのだろう。酷い話である。
あとは、第2幕の最初のアランによる大学の講義のシーン。あの上演が再開したのだかしていないのだか分からない感じで、アランが話し出すあの感じが凄く大学の講義のような感じで凄く素敵だった。大学の講義って、結構授業を聞いていないで学生たちが雑談をしている感じなので、その雰囲気に近くて素晴らしい演出だった。そして、アランの独白に力があるから、次第に観客も会話を止めてアランの講義を聞き始めて、そこに食い入る感じになるあの演出が凄くハマっていた。亀田さんの演技力の高さと、演出の腕と、戯曲の内容の素晴らしさと、全てが合わさったからこそ成せた技で素晴らしかった。

写真引用元:ステージナタリー 「ブレイキング・ザ・コード」より。(撮影:杉能信介)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

劇団四季出身の俳優さんも多く、皆演技力が高くて素晴らしかったが、特に主人公のアラン・チューリング役を演じた亀田佳明さんの演技力はずば抜けていた。亀田さんを中心に、印象に残った役者について見ていく。

まずは、アラン・チューリング役を演じた亀田佳明さん。亀田さんの演技を拝見するのは初めて。
今回の亀田さんの演技は、何かしら賞を個人的には授けたいと思うほど、難役を見事に熟していて素晴らしいと感じた。この俳優としての素晴らしさが、今作を観劇した人にしか堪能されないのかと思うと勿体なく感じられる。もっと多くの人に観て欲しいと思ってしまう。
まずは、このアラン・チューリングというキャラクター設定なのだが、天才数学者ということでずば抜けて頭がよく、だからこそ周囲からも距離を置かれてしまって孤独を感じやすい性格だろうと思う。ましてや同性愛者であるという自覚もあれば、ますますそのマイノリティな自分に対する苦しさを背負っていて、生きづらさというものが窺える。
何かトラウマになっているようなエピソード、例えばクリストファーの死に関するエピソード、同性愛者として性行為をしてしまったというエピソードなどを話す時、吃りが見られる。この吃りを演じられることも素晴らしかったのだが、そこにはAIでは絶対に再現できない人間性が垣間見られて好きだった。
また終始爪を噛んでいたりと不潔で、数学のような得意なことになると饒舌になって止まらなくなる。戯曲を読み返していて、改めてアランのモノローグは非常に長く小難しいことが沢山書かれていて、かなりの難役であることがそこからでも窺える。
さらに、アラン役はほとんど出ずっぱり。膨大な台詞の量、しかも数学の専門用語など非常に馴染みのない単語を含めての演技は本当に素晴らしかった。
また、こういった変わり者の数学の先生はどこかにいそうだなというリアリティもあった。実際、私の知り合いの物理を専攻していた人間でも、今作の亀田さんのような人を知っているので、本当に再現度が高いなと感心する。映画版でアラン役を演じたベネディクト・カンバーバッチさんのような紳士的で厳格な感じとはまた一味違う、より不器用で人間臭く感じられるアランが素晴らしかった。

次に、ロン・ミラー役を演じた水田航生さん。水田さんの演技拝見は初めて。
アランとは対照的で、ちょっとチャラくて難しいことは嫌いで遊んでそうで、だけれど同性愛者という繋がりからお互いに惹かれ合っていく感じが好きだった。きっとアランの中では、トルストイの「戦争と平和」に出てくるピエールとアンドレイと、アランとロンを重ねていたのだろう。
個人的には、ロンが口頭で語るエピソードは色々と好きで、化学用品をぶちまけてしまって化学を目指すことを諦めたとか、映画の話とか、一生懸命アランの小難しい数学に合わせようとしてくる優しさが良かった。

次に、パット・グリーン役を演じた岡本玲さん。岡本さんの演技は、劇団時間制作の「迷子」(2020年)で一度演技を拝見している。
映画版ではジョーン・クラークという女性数学者と男女の関係になっているし、史実もそのようだが、そこを敢えてパット・グリーンという別の名前にしたのはどういった理由なのだろうか。
非常に知的好奇心の強い女性で個人的には好きだったのだが、このキャラクター設定はアランと通じる部分があるよなと思う。アランは、同性愛者でありその変わり者の性格から孤立していたが、パットも女性なのにそんなに数学を勉強して女性らしくないと言われてきた人間だった。そういった点でもアランとパットは意気投合しそうである。
しかし終盤では、パットは違う男性と結婚して専業主婦になり普通の暮らしをすることを選んだ。そこがアランとは決定的に違った。服装のギャップからも、そのアランと一緒にいた頃と専業主婦になってからで異なる点も見どころである。それでもアランに対してずっと味方でいてくれる優しさも泣けてくるくらい観ていて心動かされた。一瞬だけ、数学者としてのスイッチが入ってアランと議論する感じもなんか好きだった。
そんな柔軟な演技を見せてくれた岡本さんは素晴らしかった。

あとは、クリストファーとニコスの役を演じた田中亨さん。田中さんの演技はiakuの「あつい胸さわぎ」(2022年)で演技を拝見している。
クリストファーとして演じている田中さんは、どことなくアランを気にかけているお兄さんという感じがして好感がもてた。
一方で、ニコス役を演じた時の田中さんはセクシーだった。パンツ一丁の裸で男性がいるとちょっと目のやり場に困ってしまった。

写真引用元:ステージナタリー 「ブレイキング・ザ・コード」より。(撮影:杉能信介)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

とにかく今作を観劇出来て良かったと心から思える舞台だった。テーマとして非常に私の好みであるというのもあるが、硬派な会話劇なので演劇関係者の方々も色々と学べることも沢山あるのではと思う。
ここでは、映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』と今作を比較した考察をした上で、昨今の社会情勢と対応させながらレビューを記載した上で、「ブレイキング・ザ・コード」というタイトルが持つ意味について言及していく。

今回の『Breaking the Code』は、1987年にブロードウェイで上演されてトニー賞3部門にノミネートされたとあるが、今作はなぜ賞を総なめにするくらい評価されなかったのかと疑問に思ってしまう。しかし、1987年というとアメリカといえどまだまだLGBTQ+への理解というのは浸透しておらず、今作のようなものが評価される土壌が確立していなかったのかなと思う。
そう思うと、今作が戯曲としてアメリカで書かれたのが時代的に早すぎたというのがあったのかもしれない。もう15年、20年くらい遅かったらブロードウェイでかなりの評価がなされていたのではないかと、私自身は思う。だからこそ、LGBTQ+への理解が深まった2014年に公開された映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』は、アカデミー作品賞にノミネートされるなどの功績を残した。

映画版では、アラン・チューリングがエニグマの暗号解読に奔走する時間軸を中心に描き、同性愛者の罪で逮捕されるシーンも時間軸を交錯させながら描かれる。映画版では物語の終盤の方で、クリストファーという学生時代の親友がいて、彼が結核で亡くなってしまったことによって、エニグマの暗号解読に使ったマシンをクリストファーと名付けて、まるで彼がマシンとなってそこにいるかのように描写されることで、同性愛者の表現を描くと同時に、マシンを擬人化する、つまり人工知能・AIの文脈を描いている。
映画版では、優秀な人材を巻き込んで暗号解読にあたってもなかなか成果が出ないことから、自分たち研究者は家族たちが戦争で兵士として戦っているのに自分たちは何をやっているのだと悩み苦しむさまや、暗号解読は出来たのにそれを公表出来ず結果家族を見殺しにせざるを得なかった苦しさなど、戦争と国家権力に振り回される不条理を強く描いていた。しかし、今作ではそのような戦争に絡む部分は割愛されている。
また終わり方に関しても、映画版ではアラン・チューリングが成し遂げた実績は、今のコンピュータ開発や人工知能開発に繋がっていることを明示するものだった。しかし、今作ではあくまでアランという一人の主人公にフォーカスして、よりSF的で且つ哲学的に、人工知能は心を持つことが出来るのかという問を投げかけるかのようにして終わる。今作の方が、終わり方としてはモヤモヤする感じの締めくくりである。

私がとにかく驚いたのは、今作を上演するタイミングが、昨今「ChatGPT」の登場によってAI・人工知能関連が再びホットなトピックとなった「今」であることである。今作を上演する企画自体は、数ヶ月前から動いているはずで、「ChatGPT」のリリースが今年(2023年)の2月なので、奇跡的にタイミングが被ったと言えよう。
今作の脚本の中には、何度も「AlphaGo」や「ChatGPT」といったAIを想起させる台詞が登場する。例えば、電子頭脳にチェスをやらせるという台詞が登場するが、それはまさに「AlphaGo(厳密にはAlphaZero)」という人工知能にチェスを対戦させて人間を破っているという事実と繋がってくる。また、第2幕のアランの大学の講義の台詞に、電子頭脳に「ジングルベル」を歌わせる、ラブレターを書かせるなど違うタスクを渡してもそれを返してくれるというものがある。これこそまさに「ChatGPT」に通じることで、私たちが何か文章で命令をするとそれに応じて回答を的確に返してくれることと近しいことである。
このように、第2幕のアランが講義していた内容は、劇中では1930年代の若者に向けた画期的なメッセージでSFに近いものかもしれないが、観客に向けて講義する演出手法を取ると、どこかそれはもはやSFの世界ではなく、「ChatGPT」のことについて解説されているような気がしてきて、ある種今まで物語の世界にいた私たちを、現実の世界へ足を踏み入れて訴えかけられることで、今作が物語るもののリアリティが増してきて素晴らしかった。
さらに興味深いことは、アランはこの講義で電子頭脳は思考することが出来るのか、という疑問を投げかけていることである。そしてそれは、2000年になる頃にはそうなっているだろうと予言していて、まさに2023年では「ChatGPT」が人間でいう思考という部分にまで手を広げているので、その予想が当たっていることになる。この前、職場の人たちと「ChatGPT」について会話したときに、「思考とは何か」といった議論をしたので、非常に色々と考えさせられるテーマを突きつけてくるなと感じた。

現在ホットになっているのは、何もAI・人工知能周りだけではない。LGBTQ+にまつわるジェンダー観のアップデートも進んでいるわけで、そういった内容を題材にしている点も非常にタイムリーに感じる。
先日、エイプリルフールで某声優がネタとしてLGBTQ+を扱ったことによって話題になったが、あの一部始終を見ていると、まだまだ日本でもLGBTQ+に対する理解というのは進んでいないように感じる。そういった意味でも、アランの置かれた立場と、それがいかに理不尽で酷い仕打ちだったのかを痛感させられる。
今作におけるアランの自殺の真意についてはこれから考察するが、史実では間違いなくそういった同性愛を認めない法律によってアランは命を落としたのかもしれないと考えてしまう。

では最後に、「ブレイキング・ザ・コード」のタイトルの意味について考察しようと思う。
ネット上では、これはダブルミーニングであると様々な人が発信している。一つ目の意味としては、単純にアラン・チューリングはエニグマの暗号を解読したのだから、「Code」を暗号と訳せば「エニグマ暗号を解読」という意味になる。
しかし、「エニグマ暗号を解読する」の意味だと、そこを中心に書かれてる戯曲でもないので疑問が生じる。「Code」には、暗号の意味だけではなく法典、法律という意味もある。つまり「ブレイキング・ザ・コード」には法律を犯すという意味もあるということである。それは、アランが同性愛者として法律を犯してロンと性行為をしたことが該当する。今現在では同性愛は罪でもなんでもないが、20世紀前半の当時だったからこそ「ブレイキング・ザ・コード」になり得てしまったという悲しい事実を知らしめるダブルミーニングでもあるということである。

しかし、ここからは私の解釈だが、「ブレイキング・ザ・コード」にはもう一つ3つ目の意味もあるのではないかと思っている。
アランは最初ディルウィンと会ったときに、「白雪姫と七人のこびと」の話をした。アランはそのアニメに感動し、どこで感動したかというと白雪姫が毒りんごを食べて死んでしまったにも関わらず、王子様のキスによって目を覚ましたという点で感動したと言っている。
これは私の解釈だと伏線になっていて、ラストでアランが青酸カリをりんごにかけて、そのりんごを食べることによって自殺している。つまり、アランは白雪姫と同じような死に方をしているのである。
少し話は逸れるが、この終わり方について私は少し希望を持った終わり方だなと感じた。なぜなら、母のサラを含めみんなアランが自殺した要因を同性愛を認めなかった法律のせいにしているが、自殺の仕方があのくだりであるとすれば、それはアランが自らを実験台にしてやってみたいことを試した結果の自殺なので、同性愛を認めない法律は関係なくなってくるからである。
話を元に戻すと、アランが毒りんごを食べて死んだとはどういうことかと言うと、その少し前の台詞で心は身体がなくても存在するのかという疑問を投げかけていた。これは、AI・人工知能といった身体以外のものに心や感情が宿るのかという問いかけの言い換えである。
もし、AIや人工知能が知性だけでなく感情までも持ちうることになれば、それはまるで死んでしまったアランの肉体は朽ちても、心だけは生き残れるということになる。
そしてそれは、紛れもなく「ChatGPT」といった思考を持ったAIよりもさらに人間と近い感情を持ったAIの誕生を意味することになる。もしそれが可能になるのならば、アランが生前に残した電子頭脳つまり、彼がクリストファーと呼んでいた電子頭脳がさらにバージョンアップ、つまりまるでクリストファーという王子様がその感情を持ったAI、つまり白雪姫、つまりアランにキスをするようなものである。

そしてこれは、どういうことか。
思考も感情も手にしたAI・人工知能というのはそれは人工的に作られた人間そのものである。これは、アランの言葉を借りれば生命というものを科学によって全て説明し作ってしまう、つまり神への冒涜のような行為である。
codeの意味、もちろん法律や掟という意味だけれど、これは神の摂理という意味でも捉えられるのではないだろうか。つまりは、「ブレイキング・ザ・コード」は、神の摂理を破る、つまり神への冒涜、それは人間が人工的に人間を作ってしまうこと。
劇中では、法律を破ることと神の冒涜を重ね合わせているシーンも見られた、だからこそ、このような解釈も出来るのではないだろうか。
もちろん、アランはそのまま死んでしまったので「ブレイキング・ザ・コード」は起きていない。しかし、この先の未来、私たちの手によってその「ブレイキング・ザ・コード」が起こる可能性があって、その礎を築いたのは紛れもなくアラン・チューリングであったことも、今作のタイトルは暗に意味しているのかなと感じられてしまう。

写真引用元:ステージナタリー 「ブレイキング・ザ・コード」より。(撮影:杉能信介)



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