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ヒコロヒー著「覚えてないならいいんだよ」について
意気地なしのオトコ。
そんなオトコを弄ぶオンナに惹かれてしまう。
ヒコロヒー著「黙って喋って」という短編小説集に「覚えてないならいいんだよ」は収録されている。男性が社会人として生活していたある日、学生時代に仲の良かった女性が結婚する噂を耳にした。それをきっかけに男性からその女性に連絡を取り、再会する機会を作ったことで進展していく話となっている。ここだけ聞くと稀にあるタイプの短編小説だ。
しかし、この作品を読み終わったとき私は感嘆の息を漏らした。結末が難解だったからか、主人公に自身を投影していたからか。感嘆の息というよりむしろ自分の読解力の無さから出る溜息だったのか。ただ一つだけ、確かだったことは多くの小説を読んできた私が、小説家ではなく芸人の、しかも短編小説を1度で読解することができなかったということだ。その悔しさからかすぐにパラパラとページをめくり2周目を読み始めた。
結果的に私は数十回もこの短編を読んだ。そしてこれを書くために今も、また、読んでいる。
まず、私はこの小説が世間でどのように評価されているのか気になった。しかし、GoogleやSNSで検索をかけてみたものの、言及されているサイトやポストはほとんど見つからなかった。
この作品に対して多くの人の感想を聞いてみたい。そして、私が面白いと思う嗜向と照らし合わせてみたい。そのために多用されている表現や登場人物の所作から作者の意図を読み取り、どのような技巧が私の心を動かしたのか、独自の見解で解説させていただく。
「覚えてないならいいんだよ」は上記のURLから読むことができる。数十分で読めると思うのでまずはサクッと一読していただきたい。さらに私の解説を読んでいただくにあたって、何度も読み直すことができるように上記サイトのタブはバックグラウンドで開いたままにしておいて欲しい。
ただし、注意点が1つある。上記の「かがみよかがみ」掲載版(以下掲載版と呼ぶ)と私が解説する書籍版とは表現のニュアンスやオチがわずかに異なっている。私は書籍版を最初に読み、あとから掲載版の存在を知った。両方読んだうえで書籍版の内容のほうが洗練されており面白いと感じたため、ここでは書籍版の内容をメインに解説させていただく。願わくば書籍版を片手に読んでいただきたい。
•「○○っぽい」とは
まずは、序盤に3回も使用されている「○○っぽい」というセリフについて。
「○○っぽい」とは「○○らしい」という表現に言い換えることができる。「○○っぽい」より「○○らしい」のほうが日常的に使うという主観的事実から、以降は「○○らしい」という言い回しについて言及させていただく。
「○○らしい」という言い回しはどのような関係の相手に使うのか。それは性格や性質をよく理解している相手に対してだろう。幼馴染や学生時代の友人など、旧知の相手に対しては比較的発しやすいセリフであり、関係性が浅い人に対しては使わない。その人と過ごした歳月も重要な要素であるといえる。極端な話、初対面の相手に対して「○○さんらしいですね」とは言わないだろう。
さらに、性格や性質をよく理解している相手である家族に対しても使われることはほとんどない。思い返してみてほしい。あなたは家族に対してこのような言葉を投げかけた経験があるだろうか?大半の人が家族に対して「○○らしいな」と思う場面があっても、実際に伝えることはしていないだろう。
家族や初対面の使わずに、友人には使う。その差異はいったいどこにあるのだろうか?それはこの言い回しが二人の心の距離を詰めて、その距離を測るために使用されるという特徴を持つからだろう。心の距離とは分かりやすくいうと親密度のことで、初対面の相手にこの言い回しを使わないのはそれを測る必要がないから。家族に対して使わないのはすでにそれを詰める必要がないからだ。
では、なぜこの「○○らしい」という言い回しが心の距離を詰めることに繋がるのか?それは’適切なタイミング’でその言葉を投げかけることで、伝えた側が相手の内面を理解し、言い当てたことに繋がるからだ。「◯◯らしい」と伝えられた側の立場で考えてみると、相手に自分の内面を言い当てられてしまうと、相手が自分のことを理解してくれていると感じ、親近感を抱いてしまう。
そんなことは無いと思う読者もいると思うが、この心理テクニックを利用しているのが占い師という職業だ。客が初対面の占い師を信頼し、べらべらと個人的な相談をしてしまうことに通じている。占い師は相手に信頼してもらうために誰にでも当てはまるようなことを、あたかも客の内面を見透かしたかのように告げていくことで客の不信感を払拭するだけでなく、親近感を抱かせて客の悩みを引き出しているのだ。
ただし、この言い回しを使うにあたって、例としてあげた客と占い師という関係は客側が立場的に有利な状況であることに対し、日常生活で今後も関係が続いていくであろう対等な相手に対して、「◯◯らしい」という言い回しを使うにはそれ相応のリスクがある。それは、不適切なタイミングで使用した場合心の距離はむしろ遠ざかってしまうという点だ。最初に’適切なタイミング’と前置きしたのはそのためで伝えられた側が客観視した自分らしさと「○○らしい」という相槌を打たれた自分らしさにズレがあった場合、それは自分のことを理解してもらえていないと感じるだろう。そうなると、心の距離を詰めるどころかむしろ心の距離が開いてしまう原因となる。
ここまでの話の流れでこの「○○らしい」という言い回しは、伝える側が相手の内面を言い当てることで心の距離を詰めることができる言い回しと表現したが、伝える側が伝えられた側自身の客観視した部分を肯定してあげることで心の距離を詰めることができる言い回し、という表現のほうが適切かもしれない。伝える側が伝えられた側の客観視した性格や性質を外部から肯定してあげることで伝えられた側への理解度の高さをアピールすることに繋がる。それが結果的に心の距離を詰めることに繋がるのだ。
このように「○○らしい」という相槌を打つことはそれ相応のリスクがある。この言い回しは伝える側にそれなりの洞察力が必要なコミュニケーションツールであり、絶妙なタイミングでポッと相手に投げかけることができれば、2人の距離は大きく近づくことができるだろう。逆に的外れなタイミングで投げかけてしまうと心の距離は離れてしまう。
この「○○らしい」というコミュニケーションツールを使用するにあたり伝える側が注意すべき点が1つある。それは伝えられた側のリアクションや返答をよく注視しておくことだ。それがこのツールを使用した結果としてあらわれるため、伝えられる側が自覚している自分らしさに対して「○○らしい」と伝えることができれば、肯定的なリアクションを返してくれるだろう。逆に自覚していない、肯定したくない自分らしさに対して発せられた場合は否定的なリアクションを返すだろう。実際に私も「○○らしいね」といわれた際、腑に落ちない場合はぎこちない愛想笑いとともに「そうかな?」や「どういう意味?」、「なにそれ笑」などの否定的なリアクションをとることが多い。
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ここまでで「○○っぽい」=「○○らしい」という言い回しは以下の特徴を持つといえる。
・伝えるタイミング次第では心の距離感が詰まったり、離れたりする。
・相手のリアクションに注目するとその結果が分かる。
これらを踏まえ、作中で使われた「○○っぽい」について状況や相手の反応に着目してみよう。
作中でこの言い回しは全部で3回使われており、最初は学生時代に智子から壮真に使われた。作中で唯一肯定的に捉えられたのがこのときであり、壮真は安心感を抱いたと振り返っている。
智子のいう「壮真くんっぽい」を肯定し、そのやり取りにプラスのイメージが残っていたからこそ、壮真はこのやり取りを覚えていた。そのため、7年ぶりに智子と再開し彼女の外見は変わっていても、中身は変わっていないと判断した壮真は自分の洞察力を信じてこの言い回しを智子に使ってみたのだ。
だが、結果は芳しくなく「何それ?私っぽい?」という反応をされた。智子は否定的な反応を示したのだ。個人的にはこのときの智子の表情や声のトーンを描写して欲しかったのだが、おそらく意図的に描写されずに会話は続く。
次は智子が壮真に質問をする。2年前の彼女がどんな人だったのかを智子が尋ねると、壮真は「化粧品販売員」と、その人の職業で返した。これに対して、もしも本当に智子が壮真の元カノに興味があるのであれば智子の適切な返答は「どうやって知り合ったの?」や「どんな性格?」など聞いて会話を膨らませていくだろう。ところが、智子が投げかけた言葉はまさかの「壮真くんっぽい」というヤケクソな返答であった。それを言われた壮真が「なんだそれ」と返すのも当然だろう。まだ元カノについては職業しか教えていないのにそんな女性と付き合うことが「壮真くんっぽい」といわれてしまったのだから。
地の文が少なく読み取りにくいものの、会話の整合性の無さから智子は壮真の的外れな「智子っぽい」に対して相当ご立腹のようだ。「壮真くんっぽい」をお見舞いするためだけに「壮真くんは?彼女いないの?」と会話の主導権を握ったとさえ思えてくる。
これを受けた壮真は本来なら言葉の真意を追及することもできただろう。だが、「なんだそれ、と、僕が言っている時にはもう智子は笑っていて~」と続くことから彼女の愛嬌という武器によってその言葉の棘は影を潜めてしまった。この智子の棘に壮真が早い段階で気づけていれば、この物語の結末は少し違っていたのかもしれない。
壮真視点(読者視点)では終盤の智子とのやり取りによってお互いの認識や関係性のズレが露呈し始めたように感じるが、智子からしてみればレストランで会話していくうちに、もしくはラインが来た時点で、いや、もっと遡って学生時代に関係性が発展しなかった時点で既にズレを感じていたのかもしれない。
終盤に巻き起こる、過去から目を背ける壮真を智子が取っ捕まえる怒涛の展開は、突発的な波風ではなく「◯◯らしい」という特徴的なコミュニケーションツールに着目することで序盤から予想できたのである。
•覚えていること、覚えているといえること
この小説の地の文は壮真視点で書かれるため、読者に開示される学生時代の思い出は全て壮真が覚えている過去である。それなのに壮真はなぜか智子の前では素直に懐かしむことができなかった。壮真は真正面から過去と向き合うことはなく、どこか斜に構えた受け答えをしていく。それに対して智子は「覚えてないならいいんだよ」と突き放したうえで「私はねえ、東京でのこと、全部覚えてるよ。四年間のこと、多分、全部、覚えてる」と語る。この時点で壮真と智子はそれぞれで過去との向き合い方が大きく異なることが分かるだろう。
タイトルにもなっている通り、過去を「覚えている」ということが、過去の自分から目を背けないことに繋がる、この小説の主幹であるといえる。
ーーー
読点は文章に『溜め』を作る。そして、その『溜め』の効果によって、読点の後ろに来る言葉を強調する効果がある。
彼は美しい。
と、書くよりも、
彼は、美しい。
と、書いた方が読点の効果によって『美しい』がより強調される。
ーーー
(引用:https://no19465.web.fc2.com/sonota/cosper.html)
読点にはこのような役割もあるため、過剰な読点で溜めを作った「覚えている」という智子のセリフを作者が強調したいのは明白だ。
さて、話は変わってこの小説を章で分けてみると
・出会いの回想
・レストランでの会話
・東京駅までの道のり
の三章に分けることができる。
しかし、ここで「壮真の心情の変化」にフォーカスを当てて章分けしてみるとまた違った分け方ができる。それは
・過去の記憶から逃げている、触れられることを恐れている壮真
・それを自覚した後
という二章だ。その分け方は「東京駅までの道のり」の中の「確かに忘れていることも~」という地の文前後である。過去を「覚えている」と肯定して前を向く智子とその影響を受けて徐々に過去に向き合い始める壮真。次はこの変化のきっかけである智子と壮真のやりとりと心情にフォーカスを当ててみる。
まず、前提として過去の出来事に関する話題はいつも智子が提供している。
・あの雨の日のこと
・壮真の元カノのこと
・智子の元カレのこと
という合計3回だ。まず最初に二人にとって印象深いあの雨の日について。
雨が降ってきたことをきっかけに壮真は「洗濯したときに限って雨が降る」という日常のあるあるで共感を誘う。だが、智子は共感することもなく「あの時も降ってたよね。」という思い出話へ強引に転換した。壮真は瞬時にパッと智子をみたことから寝耳に水といった状況である。覚えているのにどこか受け身な壮真に対し智子は一言、「覚えてないならいいんだよ」と呆れに近いセリフと共にゆるい笑みで返した。
この印象的なセリフが発せられた直後の二人の構図に着目してみる。まず、二人の関係が最も進展しそうでしなかったあの雨の日について壮真が彼女の手を取ったことから二人は横並びで歩いて帰った。しかし、今回はどうだろうか。智子の歩幅は変わらないものの彼女が少し前を歩くという構図に変わることから、壮真の歩幅は狭くなっていることがわかる。
壮真の歩幅は狭まり、智子は変わらぬ歩幅で壮真の前を歩く。しかも彼女の背中は雨によってゆっくりと変わりゆく丸の内の街並みに溶け込んでいる。それに対して壮真は景色を変えてしまう雨を嫌い、変わらない景色に執着するかのよう雨を振り払うのだ。
雨という変化を微笑みながら受け入れる智子と、彼女の「覚えてないならいいんだよ」という発言に動揺し、雨を振り払うことで変化を受け入れたくない壮真。壮真の歩幅が狭くなったことについてそこまで深い意味はなく、ただ彼女の言葉に逡巡しただけのことかもしれない。しかし、この帰り道の細かな描写1つをとって過去と比較した場合でも、現在の2人の相違点が浮き彫りになっているようでおもしろい。
しばらくして、少し前を歩く智子は壮真がバイト先の先輩と付き合いだしたことへ触れる。智子は壮真に彼女ができたことに焦って彼氏を作ったことから、そのことが智子へ与えた影響は大きかったのだろう。しかし、壮真はそんなことも露知らず、ただ単に告白されたからという簡単な理由で付き合ったという。
この小説は壮真が過去に対して目を背けているからこそ幸か不幸か、そっけない会話のラリーが続くため、テンポ良く読み進めることができる。しかし、私欲を言えば、この「告白されたから」という衝撃の理由を告げられた智子の表情だけでも描写していただきたかった。告げられた直後の智子の返し「それだけなの?」に私が智子のリアクションを付け足すなら「それだけなの?(笑)」が適切だろう。智子は呆れを通り越して嘲笑しているのではないかと妄想できる。
さて、横断歩道の信号が赤に変わりふたたび横並びになる2人。距離が近づいたことで智子のトークのギアがまた一段上がる。
智子が彼氏を作った理由は周りのみんなが恋人を作り出して焦ったから。そうはいうものの実際は周りのみんなではなく、壮真に彼女ができたからだろう。智子の彼氏は壮真いわく「野球サークルに所属しているのにピアスをいつもつけていた男」とのことだ。ひとことで言えば遊んでそうな男ということだろう。壮真とは真逆のタイプともとることができ、智子がおこなった壮真への一種の当てつけにも思える。もしくは壮真の彼女を智子が見た際に「壮真くんってああいうタイプが好きだったんだ」といって意地悪そうに笑っていることから、壮真からの「智子ってああいうタイプが好きだったんだ」という絡みを狙ってそういうタイプと付き合ったのかもしれない。もしも壮真にその絡みができる意気地があったのなら、智子は焦っていたことを素直に壮真に伝えることができて...
そういった絡みがなくても、もしも智子に彼氏ができてなお、壮真と良好な関係が続いているのであれば壮真から智子に対して遊んでそうな彼氏の話題を投げかけることもあっただろうが、それについての言及は一切行われてない。そのため、それぞれに恋人ができたあと二人はだんだんと疎遠になってしまったのではないかと予想できる。裏を返せば、2人は初めから友達としてつるんでいたのではなくお互いに恋人候補として意識してつるんでいたともいえる。
このあと、初めて「火薬」というメタファーが登場する。智子に彼氏ができた時の言葉にできないもどかしさや煩悶は大きな悲しみに繋がる種火のようなものであり、それを壮真は「火薬」と表現したのだろう。いや、もっと砕けた表現をするともどかしさや煩悶というのはつまり、当時の彼女への想いのことである。智子に彼氏ができたという事実をはっきりと認識することによって壮真の心には「火薬」がセットされてしまい、その存在に目を背けたまま智子と再会した。すると、そこには壮真とは違い、意気地なしだった過去と向き合う智子の姿があった。その姿と彼女の言葉の揺さぶりによって壮真はこの触れようとしなかった「火薬」の存在を認めたのだ。その存在を認めたことこそが壮真が過去から目を背けていたことの自覚へとつながっていく。
さて、ここまで2つに章分けしたうちの前半である「過去とその記憶から逃げている、触れられることを恐れている壮真」について解説してきた。
そのなかで過去についての話題を提供するのはいつも智子であることはすでに述べたが、そもそもなぜ智子は過去の話題を壮真に対してここまで執拗に投げかけるのか。それは、彼女はお互い意気地なしゆえに湧きおこった、当時のやりきれない想いの答え合わせをしたかったからだろう。友達以上恋人未満のもどかしい関係のまま終わってしまった当時について、あれこれと話すことができるのであれば当時の想いも良い思い出話に昇華できる。しかし、壮真に過去の話をしてみると過去から目を背け続けており、あの頃と変わらぬ意気地なしのままだったのだ。
このように考えると、過去についての話題を3回も提供したあとの「私はねえ、東京でのこと、全部覚えてるよ。四年間のこと、多分、全部、覚えてる」というセリフには壮真に対しての諦めや憂いすら込められているように感じられる。しかし、しっかりと東京駅を見つめている彼女の横顔とその諦めのセリフをきっかけに、遅れ馳せながら壮真は避けてきた過去の想いという「火薬」に向き合い始めたのである。
•すでに手遅れな壮真
壮真は気持ちを改めて、智子にまた会おうと誘った。もしも、また智子に会えるのならば当時の想いを吐露して昔話に花を咲かせたいと思ったのだろう。
しかし、智子は3度の思い出話に判然としない返答を返した壮馬に対してとっくに愛想を尽かしているのだ。そんな意気地なしの壮真に対して、智子は2つの問いを投げかける。この投げかけは智子の優しさなのか、厳しさなのか、目的は男の私には分からない。
ただ白状させてもらうと、ここから焦りと困惑の表情が目に浮かぶほど惨めに追い詰められる壮真が好きだ。そのたどたどしさが妙なリアリティを帯びており、ここの表現がこの小説の美点と言ってもいい。さらにあれほど天真爛漫に振舞っていた智子と、ミステリアスな雰囲気をセリフの節々に感じさせる智子とのギャップも息をのむ迫力がある。ここからがこの小説の真骨頂といえよう。
さて、彼女の問いは2つある。
・なぜ丸の内というオフィス街にカジュアルな服装で来たのか?
・なぜ智子は盛岡へ帰るために最終の新幹線を取ったのか?
私が一読しただけでは理解できなかった点はこの問いの答えだ。この疑問をかかえたまま何度も読み続けるうちに私はこの小説の魅力にどっぷりとハマり、こんな記事を書くまでに至った。
まずは彼女の服装について。「無地のグレーのパーカーに白いデニム地のパンツ姿で、肩には緑色の大きめのトートバッグ」という服装だ。少し脱線するがこの描写も小説ならではのテクニックであり、丸の内で仕事終わりに行くイタリアンという状況で読者は勝手に二人ともフォーマルな服装で会っていると思っていた。しかし、ここで初めて読者は智子がカジュアルな服装で来ていたことを知ることになった。
この質問に対し、壮真は智子のパーカーについて触れた。イタリアンのくだりはさておき、確かに丸の内という東京の一等地にパーカーと白のデニムという服装は少し不相応と言える。しかし、ここで壮真が触れるべきは服装ではなく、彼女の荷物が少なすぎる点だったのではないだろうか。そもそも彼女は盛岡の市役所に務めている公務員なのである。市役所勤めの公務員が仕事で東京にくることがあるのだろうか?よく考えたら…という違和感の醸し方に唸らされる。仮に東京で仕事があったとしてもスーツを着ているか、持ち運んでいるのが普通だろう。そういう意味で私は智子の荷物がトートバッグ1つというのはあまりにも少なすぎるというのが1問目の答えだと考えた。
壮真の返答が不正解であったため次の質問にうつったのだろう。なぜ智子は盛岡へ帰るために最終の新幹線の切符を取ったのか?最後まで読むと実は、盛岡行き新幹線の最終はもうすでに無くなっている時間であったことがわかる。その日、智子は盛岡には帰れていないのだ。(HP「かがみよかがみ」に掲載されている初版では、最終は既に無くなっていたとは言及されておらず、最終ではない新幹線で帰ったとされている。ここが書籍版との大きな差異である)
そのため壮真が言った、明日も盛岡で仕事だからという答えは確実に間違っている。それでは、なぜ智子がこんな不可解な嘘をついたのか?それは智子が壮真に対して期待していたからだろう。あの頃の壮真とは違い、当時の智子への想いに真摯に向き合い、胸中を吐露できるような壮真になっていたのなら。成長して意気地のある行動を取れる男になっていたとしたら…
私は一読して、この二問目の答えが全く分からなかった。前提として、智子が結婚するという噂を壮真が耳にしたことでこの話は始まっている。そもそも結婚するという女性を相手に壮真は大胆なアクションは取らないだろう。にもかかわらず智子はそういう気で東京に来たと言わんばかりの振る舞いをしている。こうなってくると極端な話、そもそも智子は本当に結婚するのかどうかさえ怪しくなってくる。結婚するにしても、結婚相手に不満があるのは間違いないだろう。かてて加えて学生時代の壮真との関係性に心残りがあったのだろう。
この2つの質問を通して、私は要所要所でセリフに含みを持たせてくる智子という女性の虜になってしまった。現実に行動に含みを持たせる女性は数多くいるが、発言に含みを持たせることができる女性は多くいない。実際にいたら面倒臭い女性だろうが、どこか理知的でミステリアスな雰囲気を漂わせていることが、フィクションの女性ならではの魅力といえるだろう。
•紐のついた火薬と緊張の小さな泡
この小説では、特徴的な2つのメタファーが用いられている。先述した「紐のついた火薬」と「緊張の小さな泡」である。両方とも2度にわたって使用されている表現のためこの小説における重要度が高く、これが具体的に何を指しているのかを紐解いていく。
まず火薬とは既に述べさせていただいた通り「智子に彼氏ができた時の言葉にできないもどかしさや煩悶=当時の彼女への想い」のことだと私は考えた。火薬という言葉が使用されたのは2回。「確かに忘れていることも~」という壮真が過去から目を背けていると自覚した重要な場面と、改札を通過した智子の背中を見送る最後の場面である。
壮真が智子へまた東京で会ってくれないか打診したがその要求は空しく突き放された。もう会うことができないということはこの過去の想いを打ち明けること、火薬に付いた紐を引くことができないということである。
ここで重要なことはここまで異常な鈍感さをみせてきた壮真でさえ、最後の智子との会話と彼女の雰囲気からもう今後彼女に会うことができないと予感できていることだ。最後のシーンで「それはまるで、~消えていってしまうようで」と表現されているように、その火薬は消えたわけではなく改札越しに見る彼女の背中にその火薬を重ねただけであり、壮真は彼女にまた会うことさえできれば、その火薬の紐を引く機会はあると思っているのだ。しかし、それを「消えていってしまうようで」と鈍感な壮真が表現するほど東京駅での彼女のセリフと雰囲気は異質であったといえる。
次は「緊張の小さな泡」について。この小さな泡も2回の場面で登場している。この泡は智子と会う予定をつけてからぷくぷくと生まれ続けていた。しかし、会ってみればあの頃と変わらない彼女を見てその泡は弾けて消えてしまった。しばらく鳴りを潜めていたこの泡が再度湧きあがってくるのは、智子から2つの質問を受けたあとだ。あの頃と変わらない智子を前にして壮真は会う前の緊張を忘れ、和気あいあいと過ぎ行く時間を楽しんでいたが、突然豹変したかのように壮真の痛いところをズブズブと智子は突いてきた。精神的に成長した彼女の言葉を借りるなら彼女は「意気地のある女性」に成長していたのだ。その変化をありありと見せられたことで壮真の心には緊張と動揺の泡が故障したように一気に湧きあがってきた。この泡は、あの頃と変わらない様子の智子の前では消えていて、予定をつけてから会うまでと終盤の豹変した智子の前では湧きあがっている。このことから「緊張の小さな泡」とは、あの頃の智子であって欲しい、変わらない智子であって欲しいという壮真の理想の智子像と、壮真の知らない一面を見せる智子とのギャップを感じた時に湧きあがる動揺(=緊張)であるといえる。
さて、この一見無関係におもえる2つのメタファーから、私は壮真というキャラクターに「独りよがりで独占欲が強い男」という共通の印象をもった。もっと砕いていえば、恋愛経験の乏しい非モテ男という印象だ。何度もこの小説を読みかえすうちに、作者は序盤の食事する場面で「きっともうとっくにショートカットでは~少し不思議な感覚になった。」という心理描写を入れることで、壮真が精神的に未熟な男性という印象を読者に与えていたことに気付くことができた。作者の表現の細かさには抜かりがない。
•よく笑う智子ともう笑わない智子
この小説の中で、少し変わった角度から人物の心情へアプローチすることができる描写がある。それが智子の笑い方だ。この小説を通して彼女の表情は笑っていることが多い。体系的に捉えるとただ笑っているだけなのだが、その笑い方の書き分け一つ一つに注目すると彼女が何を思って笑っているのかが見えてくるのだ。
この短い小説のなかで智子が笑う描写はなんと16回もある。そのなかで特徴のある笑い方をピックアップして分類するとこのようになる。カッコ内は使用された回数。
・くだけたように笑う(2)
・けたけたと笑う(1)
・ふふっと笑う(2)
・ゆるい笑みを浮かべる(1)
・静かに笑う(1)
・意地悪そうに笑う(1)
初めて智子と会ったとき彼女は’くだけたように’笑っていた。そして、再会して食事したときも智子のそのくだけたような笑顔によって壮真の緊張はほぐされた。作中で2回使用されており、初対面のときに使用した笑い方であることと、壮真がくだけたように笑う彼女を見て緊張がほぐれたことから、笑い方というよりむしろ微笑みに近く彼女が標準的に使用している愛想笑いなのだろう。
次に’ケタケタと’笑ったについて。これは壮真がギターマンドリンサークルに所属することになったというエピソードトークを披露した時に1度だけ見せた笑い方である。壮真の話が面白かったこととその笑顔を見て壮真が妙な安心感を抱いたことから、これこそ智子の心の底から出る笑い声なのだろう。
作中では2回使用されている、’ふふっと’笑うという表現は壮真の少しずれた発言の後に使用されている。このふふっという笑い方は智子なりの嘲笑であり、嘲笑とは発してしまうと諍いが起こりそうなセリフを飲み込んだときにでる笑い方だ。コンパに誘われなくなったと言う壮真に対し、「え、なんで?」と自己分析を求める智子。これに対して「俺が行っても盛り上がらないから」という壮真なりの見解を示す。これを受けた智子はセリフを返すことなく飲み込んで、嘲笑によって会話を終わらせた。この嘲笑に代わって私が智子のセリフを付け加えるならば「そうでしょうね(笑)」である。もしくは「成長してないな~(笑)」も適切だろう。また、この嘲笑こそが作中で智子が最初に壮真へ見せた刃だった。
次にふふっと笑ったのは「本当に私が仕事で東京に来たと思ってる?」という智子の問いに対して「いや、そう思ってる、けど、違うの?」と壮真が返答したとき。これにも嘲笑のニュアンスがたっぷりと含まれている。それだけではなく、少し間を置いてからふふっと笑ったことから、それを通り越して、呆れの領域に達しているのかもしれない。なんにせよ再会した智子は最初にふふっと笑ったときから深層心理で壮真を見下しており、それが終盤にかけてセリフとなり、どんどんと表に出てきているのだ。その尊大な智子の態度に、つっかかることもなくただ会話を続けていく壮真はどれだけ鈍感なのか。迂遠な態度ばかりで本心を伝えない智子の性格も相まって、この二人が結ばれなくて本当によかったと思えてくるほど相性が悪い。
’ゆるい笑み’を浮かべたのは壮真があの雨の日のことを覚えてないと言ったとき。都合よく雨が降りだし、二人の距離が最も近かったあの雨の日の話題を自然な流れで壮真に投げかけた智子。智子はこの話を皮切りに当時の思い出話に花を咲かせようと考えていたのだろうが、壮真は「なんだっけ、なんかあったっけ」とつぶやいて会話のボールを受け取らない。この態度を受けて智子は「覚えてないならいいんだよ」という作中随一の悲哀に満ちたセリフをこぼしたことから、ゆるい笑みには悲しみの相が多分に含まれていると思われる。
「四年間のこと、多分、全部、覚えてる」とつぶやいたときに智子は’静かに’笑っていた。これは私の脳内で思い浮かべた勝手なディティールだが、こうつぶやいた時の智子の表情は、目の前に佇む東京駅を少し上向いて見つめる煌びやかな横顔で再生された。静かに笑う智子の表情は「私は壮真とは違う」とでも言いたげな希望に満ちた表情と捉えることができ、否定的で後ろ向きな壮真と、前向きで肯定的な智子の対比が多分に表現されているといえる。
壮真の彼女を智子が見たときは「壮真くんってああいうタイプが好きだったんだ」と言って’意地悪そうに’笑った。意地悪そうに笑うという表現は、ニヤリと笑う、冷笑を意味する。前述した’ふふっと’笑う、嘲笑に近い意味だが、こちらのほうが親密度が高い表現のように感じる。実際に意地悪そうに笑ったのは学生時代、ふふっと笑うようになったのは現在と智子の壮真に対する親密度には大きな差がある。さらに、意地悪そうに笑ったのは壮真の’行動’に対してで、その彼女を作ったという行動の真意を問うときに使用している。対して’ふふっと’笑ったのは壮真の’発言’に対してであり、そこには既に壮真の真意が含まれている。2つの笑い方を比較すると、智子が壮真に対して斟酌の余地があるか無いかがこの微妙なニュアンスの違いを生み出しているといえる。
さて、ここまで智子の笑い方にフォーカスを当ててきて、彼女の表情や表現が非常に豊かであることは理解していただけたろう。だが、一転して「もう智子は笑うでもなく、まっすぐに僕を見つめていた。」と描写された場面がある。それは智子が「本当に私が仕事で東京に来たと思ってる?」と壮真に訊ねた場面だ。読み返してみると、智子の表情の描写は序盤こそ多いものの、終盤にかけて非常に少なくなっていることがわかる。この真剣な表情が描写されたとき、直近で彼女の表情が描写されたのは「多分、全部、覚えてる」とつぶやき’静かに’笑っていた場面までさかのぼる。作者はその間のやり取りにおいて一切彼女の表情を描写しないことで、読者にはよく笑う智子とあくまで和やかな雰囲気で会話しているように想像させていた。いうなれば、いままでの彼女の表情の描写すべてがこの真剣な表情への前フリになっていたのだ。
実際には尻上がりに智子の表情の真剣さは増していき、それと反比例するように壮真の余裕は喪失していった。その結果、壮真は彼女の表情を捉えて会話することが難しくなり、表情の描写が減ったと捉えても面白い。智子は鈍感な壮真に察してほしいと思っている。言葉の裏側を読んでほしいと思っている。しかし、その願いも空しく壮真は彼女の真意を見透かすことができなかった。彼女の期待に応えることができなかった。諦めた智子は少し間をおいて再びふふっと笑いだし、緊張の糸と共に交友の糸をも絶ってしまったのだ。
•私たちはなんか「あれ」だった
いよいよ最後のシーン。
書籍版で智子は「いくじは、ないよりあるほうが、いいじゃんね」という強烈なインパクトを与えるセリフの前に、「壮真くん、私たち、あれだったね、なんか」と、含みを持たせたセリフを吐いている。しかしHP「かがみよかがみ」の掲載版では含みを持ったセリフの代わりにはっきりと「私たちはいくじなしだった」と書かれているのだ。なぜ作者は書籍版を刊行するにあたって智子の「いくじなしだった」というセリフをぼかしたのか?
掲載版の「わたしたちはいくじなし’だった’」というセリフはお互いにいくじなしだったという過去の肯定にすぎない。そこから成長した現在について触れていないのだ。それに対し、書籍版ではお互いに意気地なしだったというあの頃の関係の答えを壮真に伝えずに曖昧なままにしている。つまり、現在の智子はいくじなしではなくなったから結婚することができる=成長したという事実と共に、お互いに「あれ」だったという言葉の含みから自分が相変わらず意気地なしのままであることを壮真自身で察してほしいのである。そう、作品全体を通して智子はひたすらに「察してほしい」女性なのだ。
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このように表にしてみると、掲載版より書籍版の表現がより含みを持たせた表現であることが分かりやすい。
壮真に察してほしいことは、読者にも察してほしいこと。この小説の面白さは魔性の女、智子によって各所に含みが持たせてあり、考察の余地が多分に残されている点である。
•終わりに:成長と停滞
いくじなしだったと自己分析して成長した智子と、過去から目を背けて停滞していたことを彼女とのやり取りのなかで気づいた壮真。壮真は彼女にあの頃のままであることを願ったが、智子はそんなちゃちなレベルで壮真と接する気はなく、彼との関係に見切りをつけた。というのがこの小説の大筋である。
考察の余地のある結末や人物の仕草、各場面のディティールの細かさ、話のまとまりの良さを総括して私の趣向を煮詰めて濾したような作品であった。
短編小説という手軽さから友人に進めやすく、読後の感想によって女性の心理を理解しているか?察する能力、洞察力を有しているか?という点を推し量ることができる。壮真がいくらなんでも鈍すぎる点と智子がミステリアスすぎる点は現実離れしている気もするが...
私がここまでこの小説に肩入れする理由は冒頭で説明した、1度読んだだけで理解できなかった悔しさのほかにもうひとつ、心当たりがある。それは私が最近、女性絡みのやりとりで失敗したからである。その原因こそまさに自分が意気地なしだったことなのだ。それも相まって過剰なまでに壮真へ自己投影してしまい、智子のセリフの1つ1つが私の心にささった。その結果としてこの小説は私の中で特別な存在へと昇華したのだ。
この小説の面白さと凝らされた技巧をなんとか多くの人へ伝えたいという想いでここまで長々と書いてきた。それと同時に私の好きだと思った作品の面白さをどれだけ言語化できるのかということにも挑戦させていただいた。
これは私の小さな挑戦であったが、これを書いた前後で停滞していた私が少しでも成長していてほしいと祈るばかりだ。
最後にこのヒコロヒー著「覚えてないならいいんだよ」が収録されている短編小説集「黙って、喋って」をぜひ手に取って読んでいただきたい。
「覚えてないならいいんだよ」の「かがみよかがみ」掲載版ももちろん良いが、再三お伝えした通り書籍版では情景描写や言葉の節々がよりブラッシュアップされていて読みごたえがある。さらにこの「黙って、喋って」収録されている全ての短編小説が男女の話で構成されており、それぞれの作品に異なった魅力がある。三者三様の恋愛事情のなか、私がこの作品に魅力を感じただけで、読者それぞれの好みの作品がきっと見つかるだろう。
僭越ながら「黙って喋って」に収録されている小説の中で「覚えてないならいいんだよ」に次いで私が好きな作品を伝えさせていただくと「大野」という短編だ。ぜひとも読んでみてほしい。
ヒコロヒーへのインタビュー
「覚えてないならいいんだよ」についても言及されいる。
https://mirror.asahi.com/article/14370148(引用元)
ありがとうございました。