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読書記録011「感情教育」フローベール

 金持ちで学識もある主人公フレデリック君のアプローチにヒロインたちはしばしば気を許し、イベントも発生するのだが、肝心なところでフレデリック君の優柔不断やその場の感情に流されてしまう性格が裏目に出てしまい、関係は思うさま上手く結実しない。言ってみればこれは、「複数のヒロインに目移りしていてたら正規ルートを逃してしまう青年の物語」なのである。フレデリック君は子供っぽく場当たり的で、誠実さもなく思いやりもない、「感情」のままに動くエゴイストだ。そういった彼の牛の角のような「感情」が、その性質ゆえに幾度もの失望や挫折を経験していき、「矯正(=教育)」されていくところがこの物語の見どころのひとつであるだろう。ゆえに第一に、フレデリック君が成長していく物語、ビルドゥングスロマンとして読める。だが他方で、パリ革命前後を描いた群像劇という魅力も捨てがたい。
 そもそもフレデリック君には、主人公としてのアクのようなものがいまひとつ設定されていない。いざというときにデモには行かないし、ヒロインとの好機は取り逃すし、約束を反故にするし……といって完璧な悪人というわけではない。彼はただ自分の感情の向くままに動いているだけだからだ。主人公ではあるのだが、いささか凡庸な人物として設定されている。しかしそれによって、逆に周りの人物たちの魅力が映えてくることにもつながり、それが物語全体の成功を彩っているといえるだろう。フレデリック君を下げることによって、数多く登場するキャラクターたちが活き活きして見えてくるのだ。主人公の故郷の人びと、サロン(工芸美術)に集まる人びと、あるいは社交界やクラブに集まる人びと。彼らは彼らで自らの成功を願う欲望をたぎらせている。歴史的な事件を織り交ぜながらも、小説内の人物関係を流動的かつ生々しく描くことができているのは、やはりフレデリック君の位置を下げていることによるところが大きい。

 次に構造の話をしよう。
 よくある小説の構造として「起承転結」という展開の方法がある。それらがはっきりしていると分かりやすいドラマになる。だが本作では、起承転結がなんとなくあやふやな印象がある。でもその分、説得力のようなものは感じる。どういうことかと言うと、「起承転結」をはっきりさせ、ドラマを作っていくと、そのいくつかのドラマに焦点が当てられ、それによって主人公の境遇や思想が不可逆的に変化していくことになる。しかし現実として、そのような物事のひとつやふたつで人生はそんなに変わるものだろうか? そういった一般小説へのアンチとしての意味合いも本作は備えている。変動する日常を淡々と綴っていくことで、実際の人生の感覚に近づけようとして、描かれているのだ。人生はドラマがひとつふたつあった程度では終わらない。これはRADWIMPSが『シュプレヒコール』で歌ったことへの回答にもなるだろう。

語り継がれた物語は、いつも終わり方は決まっていた
「そして彼らはいついつまでもしあわせに暮らしましたとさ」
ちょっと待ってよ、知りたいのは
その続きだよ、守りたいのは

 『感情教育』は「めでたしめでたし」では終わらない。フレデリック君がすべてのヒロインに振られたあとのことすらも書かれているのだ。おそらく作中で二十年以上は経過しているのではないだろうか。政治的・歴史的なことに疎い私であったけど、なぜかパリの喧噪のなかにいるような気分になれたのは、そういったフローベールの技術のなせる業なのだろう。


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