学費問題のカラクリが高等教育の存在意義をも覆す⁈
学費問題の底流には、日本特有の慣性=怠慢が。さらに、高学費を払う動機となってきた「自己責任」論が失われると、さらに危うい状況も、、、
『中央公論 2024年 10月号』にて、苅谷剛彦氏が、議論沸騰中の学費問題について寄稿。国際的・歴史的にこの問題についての観点を広げ、核心を突く鋭い分析をしています。
▼中央公論 2024年 10月号(特集・学費値上げでどうなる教育格差)│放置された不平等の慣性(イナーシャ)―授業料と財政支援の国際比較から見る日本の大学:苅谷剛彦
筆者はタイトルの「慣性」にイナーシャ(inertia)のルビを振っていますが、inertia とは物理学における慣性の法則で用いられる用語。実は、他の訳語としては「惰性」もあり得ます。
つまり、日本において高等教育費用の負担をどうするかについて、これまできちんと検討されてこなかったという“怠慢”の意味をタイトルに込めているわけです。
筆者は、まず、ドイツの比較政治学者が行った各国の授業料・学生支援政策の論考を援用し、日本はその学者が最も驚くべき組み合わせである「高負担・低支援型」に属することを紹介。
では、どうして日本がそのような状態に至ったのか――
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歴史的に見ると、戦前は「低負担・低支援型」だったものが、戦後、受益者負担論などの様々な世論、高等教育への政府支援抑制策により今の状態に至ったと説明していますが、ここで重要なのは、18歳人口増加期における高等教育政策の質と量の関係への言及です。
量的な面では、急増する大学進学者の受け皿として私立大学の拡張に依存し、質の面では、「保守政権が平等(equality)より国立大学の質(quality)を重視した」とする比較政治学者の分析を紹介しています。
そうした状況を乗り切れた背景については、「経済の高度成長期を通じ家計収入が増えた」ことが、「私大の授業料を負担できる家計の増加」があったことを挙げ、それが「進学率の上昇に寄与した」わけです。
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筆者は、日本においては、「民主主義の重要な価値の一つである教育を通じた機会の平等という政策を、高等教育レベルでは政策として選択することがなかった」とし、「それ以外の選択肢が与えられてこなかった」という「高負担・低支援システムを当然のことと受け入れる慣性(イナーシャ)」、つまり、日本特有の実態を浮き彫りにしています。
💡研究員はこう考える
私が、この論考で特に注目したいのは、末尾に書かれた、大学入試に関わる指摘です。
大学入試での成否は、どれだけ頑張ったかという個人の努力の成果だという見方が日本では依然として強く、リオリベラリズム(新自由主義)の個人化に通じる「自己責任」論と結びつきやすい。
この指摘には実に重い意味が含まれていると考えます。
筆者の言わんとするところを言い換えれば、
大学入試での勝者はその褒美として低学費が約束され、敗者にはあたかもペナルティの如く高学費が課せられる、ということになります。
したがって、低学力者は努力が足りなかったのだから高い学費は仕方がないのだ、という暗黙の共通の理解となり、それが文科省、大学関係者、政治家を含めた国民全体に定着してしまっている、ということでしょう。
この論法で行けば、人口減少期に突入している今後の学費問題はどう考えるべきなのか――
定員割れが続出し入試における選抜性が低くなってしまっている原状では、入試という競争原理が失われかけており、そもそも敗者が存在しない。したがって、ペナルティの意識も生まれない。
そうすると、敗者がいない素敵な世界のように思われますが、そうではないのです。
実は、大学入試における競争の場が消滅してしまうと、わざわざ高い学費を払ってきた敗者としての理屈が成り立たなくなってくる、わけです。
なぜ高い学費を払わなければいけないのか、高い学費を払ってまで大学に行く意味は何処にあるのか、と疑問に感じる高校生や親が増え、高い学費のかかる高等教育進学そのもの自体を選択肢から外す動きとなりかねないのです。
特に、私立大学にとっては、看過できないカラクリであり、高等教育の存在意義そのものも覆される状況を引き起こしかねないカラクリでもあるのです。
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