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飲酒運転の危険運転適用ハードル苦闘事例の共有(誰がレスをしてくれるのか)

論点の本質を適切な温度で簡潔に第三者に説明するのは非常に難しい。

その第三者が関心を持ってくれる人かどうか分からない場合、あるいは、関心を持ってくれている人でも、その人が欲しがっている事は我々がフォーカスしている論点とは違う場合、それぞれに難しさがある。

あるテーマについて話をする時、自分の温度や空気感にその場を一瞬で変えてしまうような、そんな鮮やかな話術を持つ人がいる。
仕事において、私はその様な人に憧れてきたが、遂にはその様な話術を会得する事はなかった。

話の段取りが悪いのか、詰め込み過ぎるのか、テンポか、声か、表情か?
仕事の場合、勉強不足と言うのが最も大きな要因だった。

今自分が訴えようとしている事は仕事ではない。

しかし、伝わっているか手応えが得られない消化不良感がある。
それは自分の話術、プレゼン能力が低いからではないか?
そうしたある種の拗らせたコンプレックスを抱え、然るべき相手にも自分のイメージ通りに説得力を持って語り切れていない苛立ちがある。

一方で、今訴えようとしている事は、そもそも話術で伝わる様な話ではないので、自分が体験した事、感じている事、それを魂を持って発信し続ける以外に方法はない。すなわち、形式にこだわっている場合ではないという思いもある。

ただ、どうしたら自分事として関心を持ってもらえるのか?

その事がとても難しい。

今持っている感触としては、体験者がそれぞれの体験を、できる限りありのまま話す事と、話す場を提供してもらえる事が最も重要ではないかと言う思いがある。

話すべき相手は実務家、政治家、役人と何れも手強い相手である。
相手の属性に応じてどの様に合理性を持たせ、相手への動機づけを行うか、微妙に温度調節をしなくては行けないと思う。

近々、法を司っている役人と接触できる可能性がある。

どれだけ爪痕を残せるか。
きっかけを作れるか。

その事を考えている。

危険運転致死傷罪の創設のきっかけにもなった代表的な悪質運転は、飲酒運転だろう。

客観的な基準で最もその悪質性の理解が容易なのは、大分の一般道194㎞事件などの速度超過運転だろう。

自らは、故意の赤無視については語れる知識がある程度ある。
一般道194㎞事件についても、その悪質性と法規制の有名無実さが端的に分かる典型例である事の説明がし易い。

しかし、飲酒運転については、体験者として悔しさを代弁できるほどの強烈な思いが私にはない。体験が無いからである。

危険運転致死傷罪の問題提起を行う時、飲酒運転にスポットを当てない事はあり得ないことであろう。
役人と会うにあたって、飲酒運転についての問題提起は絶対に外せないと考えた。
しかし、付け焼刃の知識では弱い。
誰か頼れないか。そう考え、頼ってみた。
すると、体験と問題提起を語ってくれた。

その内容が非常に意義深い(体験者しか語れない内容)のでご紹介したい。

私と同じように、危険運転(飲酒)で子を殺され、現行法の枠内で限界ギリギリの闘いをしてきた父親が、怒りで狂いだしそうな感情を押し殺して書いたものである。


飲酒量に関する店員の証言について
・証拠採用されるには、警察や検察での供述調書と法廷での証言が一致する必要があります。一致しなければ、被告人の供述と齟齬が生じない範囲内でしか、飲酒量は認められません。
・伝票があればよいのですが、キープしたボトルから飲む場合や、伝票に書き漏らした場合は、飲酒量の証明が困難になります。
・被告弁護人は、供述調書などの証拠の同意・不同意を速やかに明確にしないなど時間稼ぎをして、初公判の日時を引き延ばし、その結果、事故から公判が遠くなるほど証人の記憶が薄れていき、証言は曖昧になります。弁護士はそこを突いてきます。
・証言の信ぴょう性を高めるためにも、ハイレベルで緻密な警察の捜査及び、警察の主観の入らない、店員、目撃者の証言に忠実な調書作成が肝要と思料します。
 
 
被告人の供述について
・被告人の供述は基本的に信用できませんが、その中でも事故直後の供述は比較的信ぴょう性は高いかと思います。
・公判の証拠書類を確認できる段階に進むと、第三者の供述に合わせて飲酒量を変えてきます。
・私達の加害者は、公判において、「警察に話したのは、考えうる最大限の量であり、実際に飲んだ量ではない」という屁理屈をこねました。
・おそらく「自分の記憶の中では3杯飲んだけども、3杯という第3者の証言がないのなら、それに合わせて2杯飲んだことにしよう」と加害者が悪知恵を働かせたのだと私はにらんでいます。
・こんなバカなことを言わせないように、やはり、事故直後からのハイレベルで緻密な警察の捜査及び調書作成が肝要と思料します。
 
 
飲酒検知について
・現場の警察官は、酒の匂いの有無、顔の赤さ、歩行状態などを確認の上、飲酒検知するようですが、交通事故の場合、それに関わらず、呼気検査すべきと思います。
・加害者がケガをしていると救急搬送を優先されてしまうので、その場合、搬送の際に血液採取を義務付ける必要があると思料します。
・さもなければ、私達の事件のようにウィドマーク式を用いて血中アルコール濃度を推定することになりますが、これは捜査や公判が長引く原因にもなります。
・事故直後の飲酒検知がベストではありますが、ウィドマーク式は、事故直後に飲酒検知できなかった場合でも、数時間後に検知できれば血中アルコール濃度を推定できるので、積極的に用いればよいと考えます。
・呼気検査をしたとしても、私達の事件のように、検査キットの保管状況や検査方法、検査した警察官の勤務実務歴までが争点とされることがあります。そういったことがないように、より正確な血液による判定が有効だと思います。


ご紹介する部分は以上である。
 
危険運転致死傷罪は、飲酒運転や著しい高速運転など、最も基本的な交通ルールを無視した無謀な運転による悪質・重大な死傷事犯を取り締まるために創設されたものである。
しかしその悪質性と故意性を客観的に証明する事の難易度が非常に高い。
裁判でそれを証明せねばならない。
加害者の弁護人は徹底的に争ってくる場合が殆どだ。

わざとじゃないと否認した者は許されて,自白した者だけが処罰されるという、加害者の主観でどうとでもなる法の抜け穴が放置されている。

当事者以外の多くの人はこの現実を全くと言って良いほど知らない。

体験を語ってくれた父親はその悔しさと不合理を以下の様に語っている。
「実刑判決を逃れたい、反省する気のない犯罪者から、危険運転致死罪の実刑判決を勝ち取ることの難しさを思い知らされました。」

法が果たすべき役割を果たしているか?
点検を決断するのは政治家であろう。
そして、点検を実行するのは役人(あるいは学者)であろう。

子を殺され、更には司法の理不尽さに泣かされた当事者が怨み骨髄に入る思いで過ごしている事と役人はどう向き合うのか。

バグの一つとして無意識のうちにもみ消す事を続けるのか。
そして、政治家は決断をするのか。

昨晩、その事について考えていた。


 





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