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大谷翔平はグリーフケアでした

大谷翔平がやはり凄いらしい。

彼が日本の地に居ると言う事だけでも興奮を覚える。
大谷翔平の素晴らしさと言うか、理屈抜きに、いいねえと言える事の共感性は高いだろう。
世の中に100%の合意は、多分、絶対?無い。

しかし、大谷翔平の活躍に理屈抜きに痛快な思いを抱いた人は少なくないのではないかと思う。

私がそうだ。

大谷翔平がエンジェルスで目覚ましい活躍を見せ始めたのは2021年のシーズンだ。

2021年。

私は大谷翔平など、どうでも良い、生活が始まっていた。

2020年12月末には勤務先の退職を視野に入れていた。
私を可愛がってくれていた上司への義理もあった。
上司は、娘の通夜にも葬儀にも来てくれた。(もちろん職務上と言う事情はあったと思う)
葬儀の時、車椅子に乗り、顔中包帯だらけの私と、その上司はしっかりと目が合った。
別に長い事一緒に働いたわけではない。
しかし、目で会話できる間柄ではあったと思う。
数々の嫌な場面を共にしてきた。

葬儀の時の上司の私の状態を窺う目は忘れられない。

組織での仕事と言うのは、生意気に言えば、大小問わず、全く簡単ではない。超難しい。
結果、終わってみれば大したことは無くても、その渦中では、海に出ている船のごとく、常に風を見、波を見、潮を見、あらゆる事に気を配って、自分の船、クルーの事を考えねばならない。
結果オーライと言うのは簡単だが、舵取りは、常にあらゆる事に気を配った上での事である。

そんななか、起きた部下の私の不幸に、上司は想定外もいいところだったと思う。
しかし、私の職場復帰後も、最善を尽くしてくれた。

限界事例に当たった時、指標になるのは、善意があるか無いかではない。
合理的であるかどうかだ。その様に思う。

そもそも私がいた組織が合理性の塊(稼げるか否か)みたいな所であったが、上司はその合理性に加えて、善意(優しさ)があった。
仕事における合理性のおいて、善意(優しさ)は諸刃の剣になる。
合理的であればあるほどその事(諸刃の剣)を熟知しているから、鉄則的には触らないと言うのが常であろう。しかし、その上司は違った。

だから、私は本当に全てをマルにして、退職して良いものかと、当時は相当に悩んだ。
しかし、組織において合理性を軸にして動く自信が無かった。
合理性を前にすると自身がおかれている不合理が際立つ。
故に、合理性に徹する自信がなく、それは、組織にとって迷惑な話だし、自身も自分が最も重要と考えている事に、なんのしがらみも無く集中したかった。
私が、最も重要と考えていた事は、合法的に可能な限り、加害者に重い罰を与える。すなわち、絶対、刑務所に10年以上入れてやる事だった。

そして、2021年になり、私は上司に退職を告げた。

3月に職場を後にし、4月に足に埋まっているチタンを抜く手術を受けた。
これはまた別の機会に書くが、手術後は超絶痛い。心の痛みと合わさる複雑性は当事者しか分からないだろう。

定職を辞め、毎日家に居るのが当たり前になった。

娘はいない。

裁判もすぐには来ない。

ただただ、音も色も無い時間が過ぎるだけの時間が過ぎた。

そんなとき、まったくノーマークだった大谷翔平が活躍し始めた。
彼のメジャーでの投打二刀流はすっかり失敗に終わっているもの、そのくらいの理解だったが、連日放送されるその活躍に、「へえ」と思い、妻から娘も大谷君が好きだったと言う話を聞き、いつしかメジャー中継を少し見る様になった。

全く、音も色も無い、失った、毎日。

そこに大谷翔平が現れた。

これは私にとって、間違いなくグリーフケアだった様に思う。

全く、何にも受け付けない毎日。
退職して、益々その色合いが強くなるなかで、ある意味何もかもがどうでも良いと言うか、やけくそな気持ちになっていた。

そこに大谷翔平が現れた。

何にも感じない男が、ただ大谷翔平が活躍する姿の前だけでは、すこしテレビの画面に向かう。
そして、次の日もまた、テレビに向かい大谷翔平の活躍を見る。
大谷はすごいね、そんな会話をし始める。

これはグリーフケアであろう。


世の中に100%の合意は、多分、絶対?無い。
しかし、大谷翔平の活躍に理屈抜きに痛快な思いを抱いた人は少なくないのではないかと思う。

その様に、冒頭に書いた。

世の中に100%の合意は、多分、絶対?無い。

子の命を奪われる不合理。
これはどうであろうか?
100%と言っても良い確率で皆が不合理であると言うだろう。

しかしである。
子を奪われた不合理の真ん中にいる親たちはどうか?
※全ての親ではない。一部の私の様に戦闘的な親である。

ほぼ100%の不合理の上で、更に、互いに争い合う人達がいる。
そんな境遇に陥るのは0.1%、0.001%、その様な極めて特異な世界で互いをけん制し合うのである。(これは私の感想です。)
私はもちろん全てを知っている訳ではない。
しかし、危険運転致死傷罪についてどうか?この法律が出来て20年超。

集合知の形成が積み上がっているとは思えない。
なんとかしたいという現実的かつ継続的な熱があるとも思えない。

政治家が本質的に本気にならないのもさもありなんであろう。

集合知の歴史が無い。(これは私の感想です。)
新しい取り組みに期待しようと言う機運も無い。(これは私の感想です。)
孤軍奮闘の当事者がコニョコニョやっておしまいである。(これは私の感想です。)

話が脱線したが、大谷翔平は私にとってはグリーフケアであった。
全く、音も色も無い、失った、毎日
それに、彼は何かを入れてくれた。

大谷翔平の活躍に何かを思うのは理屈ではないだろう。
100%の合意などどうでも良い話しだ。

一方で、理屈を超えた不合理に向き合う時、人々はどうするのか。
当事者として、答えは見つからないが、何かをやり続けねばと、その様に思うのである。





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