読了 『金閣寺』(三島由紀夫)
三島由紀夫の『金閣寺』を読了。
今さらながら読みました。
※ネタバレありなのでご了承ください。
読み終わって一番驚いたことは、事実を元にしたフィクションだったことです。
恥ずかしながら、1950年に金閣寺放火事件があったことを知りませんでした。
この事件だけでも謎が多く、興味を引きますね。
そういえば私は京都に4年半も住みながら、金閣には行っていなかったと思います。
修学旅行で訪れた後は、通信教育のスクーリングの際に、あの付近を散策したのを覚えています。
銀閣は左京区なので住んでいたところと近いこともあり、春や秋には訪れていました。
『哲学の道』からの銀閣は定番ですね。
ということで、これが事実だったのかと思うと、考えはまた別の方向へと向かいます。
水上勉さんもこの事件を題材に作品を書いているようですね。
読みながら思い浮かべたのは沢木耕太郎さんの『テロルの決算』です。
こちらは完全にノンフィクション作品ですが、山口二矢と溝口には何か通じるところがあります。
山口は浅沼稲次郎をダイレクトに刺殺しましたが、溝口は金閣寺という具体的な建造物です。
しかしそれが抽象的なある概念として彼の人生に立ちはだかり、時に魅了し苦しめたことが小説には書かれており、それが何なのかを問うことがテーマでもあったと思います。
山口もまた、浅沼稲次郎本人への恨みではなく、大きな思想的象徴として存在し、それを排除することに美学を感じていたと思います。
溝口の美学は三島本人とも通じるものがあったのだと思います。
だから様々な対比がとてもリアルで、それゆえに気持ち悪くもあり、ああ、文学だなぁ、と久しぶりに懐かしく読み進めていました。
純文学は高校時代~22歳くらいまでによく読みましたが、当時の若さとしての鬱屈した精神状態で読むのと、色々と経験をし、学んだあとに読むのとではやはり違いがありますね。
三島も難しい言葉を使いますが、衒うわけでもなく、とても美しくまとまっていると思いました。
彼が盾の会を作り、やがて割腹自殺を遂げるという人生を知っているがために、美への執着がより一層感じることができます。
よく、○○は終わった、と絶望の言葉を口にしますが、生きている限りは終わっていないのだと思います。
三島の自死は本当にそれ(彼の理想とする未来)が終わったことを意味しているので凄みがあるのです。
『金閣寺』の溝口は、『生きよう』と決心して終わります。
彼は金閣寺を燃やすことで”理想”を達成できたと思ったからでしょうか。
この場合、理想ではなく、”吃り”という事象に支配されてきた価値観の転覆を果たせたからだと思います。
金閣寺を燃やせずに終わってしまったら、むしろ彼は絶望によって自死をしたかもしれません。
金閣寺は完全体の象徴として描かれていますが、その金閣寺にさえ、『漱清』というはみ出た”異物”が付随していることに着目しており、そこにある種の希望を見出していたようにも思います。
火の手が上がり、死ぬのであれば金箔の間『究竟頂』で、と入ろうとしますが、何をしても扉は開きませんでした。
そして火の中を無我夢中で駆け抜けて脱出に成功します。
これは苦難を”乗り越える”こと、その先に希望があることを示唆していると思います。
だから彼は生きる決心をして終わったのだと思います。
彼の中の精神の闇は、金閣寺炎上というとんでもない代償を払うことで払拭できたのかと思います。
現実の炎上事件を考えれば酷い話ですが、これは文学です。
読者は自分の中の金閣寺をどう燃やすことができるかを考えればいいのだと思います。
以上、感想でした。
特に批評を読んではいないので解釈が間違っているかもですが、それは私が感じたことということで、受け取っていただければと思います。