自立。偏った富を信じられたなら。
自立ってつまり自分でお金を稼げるかどうかを指すでしょう。
「いやいやそうじゃないよ。自分を律して自分で立てるかどうかだよ。」
なんていい話をする人もきっといるかもしれない。でもさ、それもそうだけど、結局お金が稼げるかどうかを指すんだもんな。
もしお金を全然稼がなくても、自然の中で自給自足で暮らしていけるのならすごいなと思うけど、それはもう自立を越えると思うな。
お金も電気もなくてもずっと暮らしてきたどこかの島の民族の人たちがいるけど、そんな人たちには自立なんて言葉ないんじゃないかな。あったとしても全然意味が違うだろう。
自然として自然の輪の中で生きてて、依存とも共存とも違う。ただ、あるがままの循環の中にその命があるという感じに、当てはまる言葉を私は知らないな。それにしてもここから見るとそれは夢みたいだな。
「自立」って偏った富があるところで生まれてる言葉だろう。
自然にはそんな発想なさそう。だってそんな発想に自然は縛られないもの。
この社会では自立する時の通過儀礼として、偏った富への依存や忠誠を誓い受け入れる。そうやって通過儀礼をすませた多くの仲間たちとの社会で、うまくやっていく必要がある。
楽しいこともたくさんあるだろうけど、そんなことばかりじゃない。辛く苦しいこともたくさんあるはずだ。でも、たくさんの仲間がいるから共に助け合って生きていける。この社会ではそういうプログラムを組まれている。
とにかく仲間だ。仲間のための労働があって、手に入る豊かさのほとんどは結果に過ぎない。きれいな野菜がスーパーに並んで、様々な洋服が指先でポチリとタップしたら家に届く。全てが専門の労働者によって作られたものばかりで、それをお金と交換する。豊かさの醍醐味のクリエイトは労働によって大量消費される。
できるだけ多くの人と関わって助け合ってお金を得て豊かさの結果と交換し生きる。これさえできたら色んな生き方をしてもいいんだけど、「これさえできたら」だ。「これさえ」に関しては一択なんだよな。偏る富を信じ、仲間と関わり、豊かさの結果と交換しないわけには、お金も富も、多様な生き方すら難しいんだよ。
私もここに生まれてるから、この社会でそうやって自立するしかない。でもできない。偏る富を信じることも、多くの仲間と関わることも、豊かさの結果で満足することも苦手なんだ。
だからって自然のように生きれるわけでもない。
じゃあどうしたらいいの?ってなる。今ここ。何年ここにいるだろう。
畑始めたの。何もないよ。ビジョンなんて。
ただただ、豊かでいたいなとそれだけ。自然の邪魔しないように、耕したりもしないし草も抜かない。もちろん農薬も使わないし、たくさん収穫しようとも思わない。何もしなくても豊かな、森みたいな畑を目指してる。
みんなで少しずつ分け合えたなら、富は偏らなかったかもしれないな。
みんなで少しずつ痛みを受け入れたら、富は偏らなかったかもしれないな。
自然の邪魔をしてまで欲張らなかったら、富は偏らなかったかもしれないな。
偏らない豊かさのためにお金が動くとよかったな。
そう思って、いきなり豊かで幸せだなと思うことからやってみた。自立もできず、偏った富に支えられながら。
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