母の気配を乗り換えるとき

稼ぎ方へのこだわりはどこからきているのか?というテーマに向き合っていると、チラチラと母の存在がチラつきます。

んーーなぜなのだろう?
稼ぐことと母の、何が関係してるっていうんだろう?

そんな疑問を感じながら数日過ごして、突然「なるほどな」と腑に落ちました⚡️

私は自分に自信がありません。
もっと具体的にいうと、例えばコーチングのスキル、インストラクショナルデザインのスキル、造形表現など、経験があるないにかかわらず関心のあるスキルについては自信がある。
自己効力感も高いです。

けれど本当は、新しいことを始めることに対して自信がないような気がする…もっというと、「私はこれがやりたい」「私はこうしたい」と宣言してそのとおり実行することを、理想で思うほどはできていないという実感があります。

表向きできる自分でいるけれど、深層心理が「できない」と行っている感じ…

それで思ったのが、子どもの頃味わった「私はできるんだ!」という洗脳感覚と、「本当の私はできない」という本音を出せずにいた葛藤です。

母は幼い子どもたちに、「あなたはなんでもできる!」といつも勇気づけてくれる人でした。
そうした言葉をかけてもらって、私は「私はそんなにできた人間じゃない。人前に出るのも怖い。でも母がいうならきっと私はできる人間なんだ!!」と信じて疑わず、できる人間の素振りをしてきました。

勇気づけてもらったことで沢山の挑戦ができたし、本来の自分だけでは経験できないことを経験させてもらいました。

当時は気づきませんでしたが、いまになって感じるのは、ずっと私の中にできる私と気が弱い私の2人が存在し続けていることです。

そして、母は私が何かを新しく始めようとするとき、何かと先回りして過保護に見守り、事故が起きないよう手を打ってくれていました。
そんな母にとても感謝する気持ちがあることも事実ですが、最近気づいたのは口で「あなたはできる」といってはいても、母は私の持つ可能性を信じていなかったのだろうということです。あるいは、私を信じ続けることよりも心配がまさり助け舟を出してしまっていたのでしょう。

私の中に母に信じてもらえなかった体感、インパクトが、正体不明のまま奥に眠り続けていて、それがいまコーチングをきっかけに表に引きずり出されてきた感じ。

そんな体感覚を俯瞰して眺めると、私自身が自分を信じてあげられていないことに気づきます。無意識下の私は、本当は自信がないけどスタートさえ切れば私はできるはず、そしてピンチになったら母が助けてくれるという感覚を持っているように思います。

でももう大人だから、母に助けてもらえないことは(一人の大人として助けてもらいたくない)頭では分かってる。

だから、スタートを切った後に不安になるのではないでしょうか。気弱な私は「こうしたい、こうやって仕事をしたい!と思ってスタートを切ったけど、これでやり方はあってる?間違ってない?」と思いながら、母が正解を示してくれない事実に空回りしている。

これは様々な物の見方の仮説の一つにすぎませんが、私にとって必要な気づきだったと思います。


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