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マジョリティ
マジョリティ・・・・多数派です。みんなの意見という意味合いで使っているかもしれません。
マイノリティがその対になる言葉で、少数派ですね。これはとるに足らない意見という意味を持ちます。
最近のニュースを見ながら、実はマジョリティも、多数派でもなく、みんなの意思決定ではないような気がします。誰かがセンセーショナルな口火を切ったら、深く考えずにマジョリティになり、そのことが崩れたら同じ意見がマイノリティになる。もっといえば、意見が同じものを瞬間的に個々の見解という名のもとに、マジョリティのままで少数意見の集合体と化す。
この根源にあるのが、マジョリティは多くの意見を代表するものだから、正しいという暗黙の了解がある、あったのだと考えます。
ここ最近のニュース、取るに足らないニュースをあたかも重大事項のように扱うことが増えています。芸能人の不祥事をまるで正義の執行のように取り上げ、それに追従する。そこには社会的正義のようにすべての人が振る舞う。言い方が乱暴だが、見も知らない芸能人が不倫しようが、後輩と揉めていようが、そこに社会的な正義を掲げる必要もなければ、個人の問題ではないだろうか。その人が好きだけれど自分が許せないならファンをやめたらいいだけことではないか。
社会的に生活が出来なくなるような制裁をマスコミも、見も知らない人たちもするべきではない。そこで形成される社会正義のマジョリティの在り方はおかしいというか歪だと思います。
意見は分かれると思うが、再選を果たした某県知事の場合も社会正義はそこにあったのか。曖昧な社会正義だったから、新しい媒体のSNSでひっくり返される程度の社会正義のなったのではないだろうか。
SNSは、マジョリティがマイノリティの集合体でしかない魏事態であることは感覚的に理解できると思います。そこには意見の責任性のなさ、正義への感覚の麻痺があるのではないでしょうか。
さらに、マスコミや雑誌のありかたも、SNSを起点にしている傾向が大きく、責任を持った取材もなければ、記事に対する重責を感じない記者のありかたがあると思っています。
自分の都合のいいニュースソースを気軽に寄せ集めて、あたかも正義の実行をしているような雑誌やマスコミが自分たちの立場を崩された瞬間を、日本によらず、世界でも多くなったと思います。これから如何にその対応をすべきかを憂いてしまいます。