ホモ・サピエンスの本性──殺人ザルか?高貴な天使か?:ルソーvs.ホッブズの人間観を調停する #RevDom ⑴|エボサイマガジン
“ 自分の敵を殺すことは問題解決としては最後の手段であるが、われわれの祖先は、人間になるずっと以前から、その最終手段を知っていた。“
────マーゴ=ウィルソン&マーティン=デイリー『人が人を殺すとき』
# 「人類もっとも平和な時代」
“ われわれ人間の本性は「暴力的」なのか? ”。
────これは、思想史においても科学史においても何千年ものあいだ激論が交わされてきたにも関わらず、未だはっきりした結論が出ていない厄介なテーマだ。
もしかしたら「最近は平和になった」おかげで、2020年現在では "暴力的な人間観" は劣勢に立たされているかもしれない。ハーバード大の進化心理学者スティーブン=ピンカーが名著『The Better Angels of Our Nature/邦題: 暴力の人類史』において ”人類もっとも平和な時代“ の到来を高らかに宣言したことは記憶に新しい。
ピンカーは、同著において、歴史的進展とともに人類社会における暴力が明らかに減少しているという自身の主張を裏付ける豊富なデータを提出し、悲観論がメディアをジャックする中、多くの人々に希望を与えた。ほら、TED Talkは拍手喝采だ。
>スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念(TED Talk)
だが、ピンカーの主張を短絡的に理解しちゃいけない。彼は「ヒューマンネイチャー(=人間の本性)が変化した」という旨の主張を繰り広げているわけではないのだ。
ピンカーがこの世界的ベストセラー書で訴えたかったのは「暴力的な人間の本性をもってしても、暴力は封じられる」というメッセージだ。
───どうやって?「世界を変えることによって」だ。生息環境の”地形“が変化すれば、生物=生存機械は意思決定アルゴリズムの出力を適応的に変化させるもの。俺たち人類も、その例外には当たらない。
俺たちが今生きる「平和な現代社会」は間違いなく称賛と評価に値するものだろう。良いものは良いと認めよう。文句ばかりつけてればインテリぶれる時代は終わった。
とはいえ、現代サピエンス社会が達成しているその「ワンダー」にばかり目を向けるのもよくない。歴史家たちの忠告に従い、ほんの少しだけ時計の針を過去へと巻き戻してみよう──── "過去" だって?いや、現在である。人類700万年史、ホモサピエンス30万年史からしてみれば。
ここ100年を通して世界では無差別殺人、大量虐殺、国家間戦争、核をはじめとした恐ろしい兵器の使用によって何千万人、何億人という人々の命が奪われてきた。
サピエンスの時間感覚は、その生物学的な寿命に合わせて進化的に調節されているので、太平洋戦争の終結が75年前といえば大昔のようにも感じられるかもしれないが、進化論者からすれば一瞬だ。
当時を生きた歴史学者たちが語るように(いまやみなさんすっかりお陀仏してしまって本の中でしか出会えない著者も多いが)第二次世界大戦(WW2)の終わりから20世紀半ばにかけて、
人類に突きつけられていたもっとも重要かつ深刻な課題とは「過剰な人間の攻撃性をいかにしてコントロールするか」
ということだった。
『ファクトフルネス』でも述べられていたようなサピエンスの「犯人探し」本能は、すかさずアドルフ=ヒトラー、スターリン、ポルポト、毛沢東といった悪名高き独裁者たちを、人類の暴力的な不始末の全責任を負うべき被告人に仕立て上げた。
────しかし、それで ”善良なる市民たち“ の気分はいくらか晴れるとしても、「狂った政治的指導者個人さえいなければ、すべての悪事が起こることはなかった」としてこの問題を片付けるのが不可能なのは、誰の目にも明らかだった。
むろん、いまさら法的責任を問うことなどできない。だが、振るわれた暴力の道義的責任を真に問われるべきは、市民ひとりひとりだったんじゃないだろうか。
悲観すべき事実がここにある:人間の本質(human nature)を進化にもとめる立場をとるなら、第二次世界大戦が終わってからのたった100年間で、人類の生物学的基質が進化的に"改善"されることなどあり得ない。
* *
# ヒューマンネイチャー/人間の本性への関心がふたたび高まっている
さて、色々と話は変わるけど、
「ヒューマンネイチャー(=人間の本性、自然な本質)を知りたい」
というのは、われわれ人間にとって普遍的な望みなのだろうか?
歴史的な文献が示すように、古今東西、アカデメイアや諸子百家の時代から、オタク的専門家やインテリ哲学者たちの間では「人間の本性/ヒューマンネイチャー」への興味は連綿と続いてきた。
だが、記録や文献に残っていないだけで、「ヒューマンネイチャー」は一般的な庶民にとっても、主要な関心事であり続けてきたのかもしれない。
リチャード=リーのような著名な人類学者たちは、文明化されていない狩猟採集社会で暮らす人々であっても、性善説や性悪説のような哲学的テーマに関して焚き火を囲みながらとんとんと議論を交わすことを記述している。サピエンスはその天性から議論好きなアニマルだ。
それにしても、ここ最近の欧米における「ヒューマンネイチャー」ブームは凄いことになっている。Human Natureをタイトルに冠する書籍の発行部数は増加の一途を辿っているし、大手新聞紙のウェブ版には「Human Nature」のニュースカテゴリがふつうに設けられるようになった。
人間存在を「自然」や「動物」あるいは「進化」と結びつける考え方は、にわかに大衆的な広がりを見せている。
なぜ、いま「ヒューマンネイチャー」なのだろうか?───もしかしたら、それは「人工化された暮らし」に対する、ある種の「野性的反発」なのかもしれない。
ジャンクフード漬けにされてきた人びとが「こんなのもうたくさんだ」とオーガニックな自然食に回帰したがっているように、中身は全くヘルシーではないくせに見せびらかしのために美しくコマーシャライズされた思想、進歩的人間観の押し付けに欺瞞を覚えた人々は、人間存在としてのあり方を "自然" にもとめはじめているのかもしれない。実際、どうなんだろう。
あいも変わらず────20世紀の終わりから今に至るまで、こうした「ヒューマンネイチャー」探求のセンセーションを過剰に警戒している人もいる。米国を中心として昂りを見せる「ポリティカル=コレクトネス」勢力は自然主義的人間観の押さえ込みを図っている。
ヒューマンネイチャーを探究する進化心理学は、米国では伝統的に右派からも左派からも敵視されていることで有名だ。
元はと言えば宗教的保守主義に対抗してヒューマンネイチャーの探究が始まったのだが、進化論的人間観が "神の信仰" への攻撃を超えてリベラルの矛盾をも突こうとする中で、2000年代以降この分野はすっかり左派の攻撃対象となっている。
それがここ数年で一気に勢いを増した「キャンセルカルチャー(=著名人の過去の発言や行動、SNSでの投稿を掘り出し、前後の文脈や時代背景を無視して問題視して糾弾するナウな文化)」と結びつき、
いよいよSJW(=social justice warrior, 社会正義の戦士たち)の言論弾圧対象、ポリコレ文化大革命の規制対象になった
というわけだ。
昨年騒ぎになったピンカーのLSAアカデミックフェロー除名運動に関して、ジェフリー=ミラーはこう呟いている;
“ 人間の行動の進化を真剣に考えているあらゆる研究者は、どれほど細心の注意を払うことを心がけていたとしても、つねにキャンセルカルチャーの狙撃リストの上位に載っています。”
また、ピンカーも「最後のコメント」としてこうツイートしている;
” わたしたち人間の自然状態とは、無知であること、誤謬に陥ってしまうこと、そして自己欺瞞だ。進歩は、馴染みがなかったり不快に感じたりする考えも含めて、アイデアを洗練して評価するところからしか生まれない。“
>参考: 一つの「失言」で発言の場を奪われる…「キャンセルカルチャー」の危うい実態────「ピンカー除名騒動」の背景|ベンジャミン・クリッツァー(現代ビジネス)
「われわれはどんなアニマルなのか?」という問いに、「われわれはアニマルではない」というアンサーが返される状況こそが、進歩的な社会には相応しい──と信じて疑わない人がいる。
────だが、質問には正しく答えなくちゃならない。「質問が許されない」のは宗教的なものの特徴だ(教会とは、神や聖書を侮辱するような質問は却下され、「ただしい答え」のみが与えられる場所だ)。
ポリコレ宣教師たちの、質問に対する"はぐらかし"も長くは持ち堪えないだろう。政治が宗教的な支配下にあった中世ヨーロッパでも、真実の探究は水面下で進められていた。人間の「知りたい」という気持ちを政治が食い止めることはできない。
────現代のポリコレ信奉者たちの意見は異なるかもしれないが、
「正しいポリティクス(政治)のためには、まず、人間の自然状態を正しく規定する必要がある」
というのが政治哲学の基本だ。
そのため、ヒューマンネイチャーの探求は政治学的に言って、大いに意味があるんだ。ヒツジ農家は、生物学的な視野から野生のヒツジの習性をきちんと把握・理解しておかなければ務まらないだろう?どこまでいっても、政治の機能とは、結局のところ〈人間の管理〉にある。
────もっともヒツジ農家がヒツジを飼うのは経済的利益を産み出すためだが、政治がサピエンスを管理するのは税金をたくさん搾り取るためではないし、もしそうなっているなら大問題だ。
政治家は、冬の寒さに凍える市民から羊毛を剥ぎ取って、「今年はこんなにたくさんウールが取れたよ!」と「収穫」の成果を誇るような勘違いをおかしちゃいけない。
* *
# 「社会契約」とヒューマンネイチャー
さて、「正しいポリティクス(政治)のためには、まず、人間の自然状態を正しく規定する必要がある」と言った。
近代ヨーロッパの政治哲学は「社会契約」という概念から理論展開される。社会契約(social contract)とは、国家の正当性は市民と政治体のあいだの"契約"によって担保されるという考えだ。
社会契約論には、論者によって、さまざまなヴァリエーションがある。だがそのすべてに共通するのが:
「”野生の存在“として生まれた人間が、単独の自然状態のままでは維持不可能となり、集団生活や社会を必要とすることによって、何らかの政治的統治機構との社会契約を結ぶ───」
というストーリーとしての骨格を持つことだ。
自然な人間性(ヒューマンネイチャー)をいかに概念化するかによって、これらの議論の方向性と結論は変わってくる。
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