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腕立て伏せやめました

エヴァンゲリオンの庵野秀明さんのドキュメンタリーを観た。

シン・エヴァンゲリオンが劇場公開されて、エヴァンゲリオンの物語に終止符が打たれたから放送されたものだった。

4年の歳月をかけて密着していた。

その中で庵野さんは「作品を始めた以上、終わらせるのが責任だ」みたいなことを言っていた。発言の言葉は違うかもしれないけど主旨は合っていると思う。

終わらせるのは始めた者の責任。

やめるという選択肢、終わらせるという選択肢は、始めた者だけが持つ特権。

始めてもいない者は終わらせることについて、やめることについて、語ることはできない。

やめる、続ける、の選択肢は始めたからこそ生まれる。

夏に思い立って始めた、続けてきた腕立て伏せを、私はやめることにした。

運動は行う、続けるけど、腕立て伏せはやめた。(そういえば、糖質制限やめました的な記事を書いた記憶がある)

一般的に筋トレと呼ばれるモノや、ストレッチと呼ばれるモノの類いをやめた。

私が過去に始めたからこそ、やめることができた。

筋トレと称して筋肉を縮ませるのも、ストレッチと称して筋肉を伸ばすのも、なんだか不自然に感じられてきたから。

もっとしなやかに、自然でありたい。

身体の何処かに硬さを感じたとする。

硬い場所はストレッチするとか、マッサージするとか、そういうのが一般的な対処法だと思う。

それはそれでいい。

対処法の1つとしてストレッチをしたり、弱ってる筋を鍛える名目で筋トレするのを否定しない。もちろん、見た目をかっこよくするため、痩せるため、などいろんな理由で筋トレやストレッチするのを否定しない。

私はやめた。不自然に感じられるから。それだけだ。

例えば、筋が弱るのも、筋が硬くなるのも(硬いのが筋とは限らないけど、ここは専門的すぎるので割愛)、不自然な状況が生まれた結果だと考えている。

それは、過剰に運動が起きたせいかもしれないし、運動が過剰に不足していたせいかもしれない。

そうすると一見、筋トレやストレッチは有効な手段に見える。

けれど、ストレッチや筋トレで行われる運動が不自然なのだ。

日常生活そのものを見直すといい。

寝ている姿、立ち姿、座り姿。

寝ている時間、立っている時間、座っている時間。

歩き格好、歩いている時間。

寝返り、起き上がり、立ち上がり。

何の意識もせず自然に行えている動きや姿勢に改善のヒントがあるのだと思う。

だから非日常的なフォームやポーズをがんばっても日常的なあれこれを無視してしまうと不調は改善しないし、最悪の場合は痛めてしまう。

ああ、食べるモノ、身につけるモノ、発する言葉、思考、そういうものにも目を向けると良さそうだ。

あれこれ始めて、続けて、やめて、やり直して、を繰り返して、少しだけわかった。

体の状況は感情面に反映されるし、感情の様子が肉体にも出て来る。

そういうのもわかった。

体の調子がいいと、感情も穏やか。逆もしかり。

体の調子がいいのに感情面で落ち着かないとか、そういうのはあまりない。気分はいいのに体の調子が悪いとかも。

もしもあるとしたら、何かを見落としている。

それを探さないといけない。

何かを始めたり、やめたりしながら。

腕立て伏せはやめた。始めて、そして続けたからこそできたこと。

でも、名前のつかない運動の数々をやっている。身体のあちこちに気を配りながら。

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