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これはどの動物のこと?それぞれの表現方法

今日は視点の違いの寓話についてです。

インドに6人の男性がいました。彼らは全員目が見えなかったのですが、とても勉強熱心でした。
6人はあるものについて知りたいと思い、皆んなで出かけて行きました。

そのあるものに触れた彼らそれぞれの感想はこんな感じでした。


1人目の男性
なんだか壁のようだね
2人目の男性
なんだか尖っているな。槍のようだ
3人目の男性
ん?これは蛇のようだよ
4人目の男性
本当かい?何だか木のようだよ
5人目の男性
これは大きなうちわのようなものだよ
6人目の男性
ん?これは縄のようだな


同じ感想はひとつもありませんが、彼ら全員の主張はどれも真実で、真実ではありませんでした。
それぞれ一部を触って、自分が思うことを言っただけなのですが、その、あるものを理解するには不十分だったのです。

ちなみにこの、あるものは何だか分かりますか?
インドの代表的な動物です。そう、象さん。


1人目の男性
「なんだか壁のようだね」 → 象さんの脇腹を触った
2人目の男性
「なんだか尖っているな。槍のようだ」 → 象さんの牙を触った
3人目の男性
「ん?これは蛇のようだよ」 → 象さんの鼻を触った
4人目の男性
「本当かい?何だか木のようだよ」 → 象さんの膝を触った
5人目の男性
「これは大きなうちわのようなものだよ」 → 象さんの耳を触った
6人目の男性
「ん?これは縄のようだな」 → 象さんのしっぽを触った


これはアメリカの詩人、ジョン・ゴドフリー・サックスの「盲目の男たちと象」という詩ですが、「群盲象を評す」や”Seven Blind Mice”など、インド発祥の寓話が色々な形で、伝えられているものです。

このお話からの学びは、「全体を知ることの重要性」、「他人(異なる意見や考え)がいるからこそ、自分や世界をより良く理解できる」、「自分の考えは、同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する」などでしょうか?


私は、色々な視点を知ることで世界が広がることが面白いな、と思っていて、私の視点はこうだけど、あなたはどう見ますか?という意図を持って、このnoteを書いている部分もあります。
(よかったら、私のプロフィール記事もご覧ください「わたしの景色」)

なので、最初はこの寓話を紹介しようと思った時も、他の視点を持つことって大切で、より豊かになるよね、ということが言いたかったのですが、この寓話について調べていて、こうやって文章を書いている時に、また違う発見があったので、思いつくまま書いていきますね。


それは、「自分が思ったこと、体験したことをそのまま表現する」ことの重要性です。(自戒を込めて)、もし自分がこの象さんの身体のどこかを触って、みんなに共有するシチュエーションだったときに、例えば人と違う意見だと怖いから、前の人の言ったことをそのまま言う、またはこう言ったら皆んなが喜ぶかな?とか、これを言えば無難だろう、のような「自分が体験したり、湧き上がった本当の思い」以外のことを表現してしまっては、全く意味がないと思ったのです。

頭で考えた答えを自分のものとして表現することは、もちろん自分に嘘をつくことでもあり、また他の人のためにもならないんだと思いました。例えば、自分が触っている場所が象さんの耳だとして、「何これ?うちわみたい」と思ったとしても、他の誰もそんなこと言っていないし、間違っているかもしれないし(←この「間違い」という発想自体が間違い)、こんなこと言ったら笑われるかもしれないし…という余計な考えによって「私も蛇のようなものだと思う」、なんて3人目の人と同じように言ったとしたら、象さんの本当の姿が共有できません。

(結局は同じものについて、皆んながそれぞれの思いを表現しているだけで、皆んな正解なのだから)安心して自分を表現していいし、その人の視点こそが皆んなのために必要なのだから、自信を持って本当に思ったことを表現しよう、と思いました。

私はこの寓話について、こんな気づきがあったのですが、皆さんはどう思われますか?


こちらは、葛飾北斎先生の「群盲象を撫でる」。こちらは、11人もいる!

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「盲目の男たちと象」”The Blind Men and the Elephant”(英語)


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