ジェイラボワークショップ第82回『古典に触れよう』【図書委員会】[20241216-1229]
本記事は、ジェイラボ内で2024年12月16日から12月29日にかけて行われました、図書委員会主催の第81回ジェイラボワークショップ『古典に触れよう』のログになります。
★印の発言は図書委員からの発話、■は部外の研究員によるコメントです。
Day 1
★あんまん
12月中旬、寒さの身に沁みる季節となりました。図書委員です。
本日から12月29日までの2週間、WSを開催します。年内最後のワークショップですね。よろしくお願いします。
テーマは
「古典に触れる」です。
スケジュールは以下の通りです。
Day 1 開幕宣言
Day 2-5 こがわ担当(アヴェマリア、処女懐胎、福音)
Day 6-9 あんまん担当(聖書より愛とは)
Day 10-13 ゆーろっぷ担当(つれづれなるままに…)
Day 14 終幕宣言
座談会は12月22日21時からです。
現代は情報化社会と呼ばれます。デジタル技術の進化によってありとあらゆる情報に手軽にアクセスできるようになりました。あまりに多くの量の情報がここ数年で急激に簡単にアクセスできるようになったことで、与えられた情報がどのような流れのもとで生まれたのかを問われないまま、触れることがよくあります。今のインターネットはデジタル世界に、限りなく思えるほどの、膨大な情報の集積所を発明したに過ぎず、その情報はあまりうまく整備されているとは思えません。情報同士の有機的なつながりが見えずらい。「有機的」と書くとインターネットに有機的なつながりが見えにくいとのは当たり前のように感じられます。なぜなら情報そのものや、インターネットは有機的ではないからです。情報の繋がりが有機的になるのは、有機的な人間の頭の中でです。何も意識しないでインターネットの情報に触れていると情報の海に溺れてしまいます。
情報の川の流れを遡ってゆくと上流の方には古典があります。古典を読むことは、われわれが飲んでいる水はどこから来ているのかを知る手がかりになります。例えば、このワークショップでは聖書について扱います。日本人のうちキリスト教徒の割合は1%ほどみたいですが、この水脈は非常に広く深いところまで根を引いていることに気が付きます。また、古典を読むことで現代には流れていない池や湖を発見できることもあるでしょう。
これから2週間で見聞きする内容が、どのように我々の生活に関わりがあるのか、また関係が無いのかを意識しながらワークショップに参加していただければと思います。
Day 2-3
★Takuma Kogawa
みなさんこんにちは。私は、日常的な単語の背景にある聖書の文章に触れてみようと思います。はじめにひとつ課題を出します。新約聖書の日本語訳は、イエス・キリスト協会のものを使用します。
課題:なにげない単語の背景にある古典や歴史について調べてみましょう。キリスト教や聖書と関係なくてよいです。
今日と明日は「アヴェ・マリア」と「処女懐胎」を取り上げます。アヴェ・マリアの音楽として最も有名なのはシューベルト作曲のものではないでしょうか。
アヴェ・マリアのラテン語原文と日本語訳は以下のとおりです。
「アヴェ・マリアの祈り」は、新約聖書ルカによる福音書の1・28と1・42がもとになっています。
1・28と1・42だけを読んでもなんだかわからないと思いますが、ルカによる福音書の1・1から1・45あたりまでを読めば、おおよそわかると思います。マリアという処女(1・26)のもとにガブリエルがつかわされ、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と言われます(1・28)。
おそらく、キリスト教において重要なのはマリアが身ごもったイエスの方であり、マリア本人を信仰上の都合で神聖視する理由はないように思います。それでも「アヴェ・マリア」という言葉が現在も生き残っているということは、イエスが処女懐胎という過程やマリア本人ときりはなすことができず、身ごもったマリアを聖母とみなさないと不自然ということなのかもしれません。せっかくの機会ですから「アヴェ・マリア」のラテン語の聖歌を聴いてみましょう。「アヴェ・マリア」や「処女懐胎」について何かコメントをいただけたら、キリスト教や聖書の素人の私が素人なりに返答します。
■コバ
マリアの処女懐胎はキリストの神性の証明として聖書に書かれているように思います。キリストに普通にお父さんお母さんがいるよりは処女懐胎という神のみわざで誕生する方が人々がキリストの神性を受け入れやすくなるという要素はあると思います。
ちょっと話は逸れるかもしれませんが「処女に価値がある」というような価値観はどこから来たのでしょうね。生物学的なものというよりは文化的なもののはずですがが、確かに思春期の時は私も「処女に価値がある」というような価値観が誰に教わるでもなく植え付けられていたような気もします。今はどうでもいいので思春期特有のものなのか。。。なんなんでしょうねあの価値観。
Takuma Kogawa
処女というか処女性(未経験、1回目)には固有の価値はあると個人的には思います。処女性を一度失ってから取り戻すことはできないので。信念があるのかないのか、カントは童貞のまま生涯を終えたようですが、それが彼の哲学によい影響を与えていたのかは誰にもわかりません。三島由紀夫『不道徳教育講座』に「童貞は一刻も早く捨てよ」というエッセイがあるように、童貞に処女性を見出して守ろうという規範はないかもしれません。ごさいじ『同人作家はコスプレえっちの夢を見るか』に収録されたマンガでは、同人作家が自身の童貞を守ろうとする描写があり、芸術方面の人はそういう信念があるかもしれません。
Day 4-5
★Takuma Kogawa
今日と明日は「福音」と「福音書」を取り上げます。現在「福音」といえば、良い知らせという意味でしょう。福音はギリシア語でeuangelion、日本語で発音すればエヴァンゲリオンです。あの有名なアニメのことはよく存じ上げませんが、キリスト教が下敷きになっているのかもしれません。
キリスト教における福音書は、新約聖書におさめられているマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書を指します。これらの福音書ではイエスの誕生やその生涯、教えについて書かれています。それぞれの福音書は重複はありつつも、異なる視点からイエスについて書かれています。イエスの誕生に絞って内容を見てみましょう。
マルコの福音書はイエスの誕生については触れていません。
実際に読んでみていかがでしょうか。素人の私は、わからんでもないが背景知識がないからきちんとは理解できない、という感じです。それでも、聖書や古文漢文などは意味がわからなくても読んでみる(特に音読する)ことそのものに価値があるように思います。江戸時代の寺子屋では繰り返し音読していたといいます。寺子屋の精神を、このワークショップで一度体験してみてはいかがでしょうか。
Day 6-7
★あんまん
みなさんこんばんは。もうすぐクリスマスですね。私はキリスト教徒ではありませんし、どっちかというとキリスト教は嫌いな部分が多いですが、素朴に「愛するということ」には、関心があります。クリスマスは愛する人とゆっくり過ごしたいものです。ということで、今日から愛について考えてみようと思います。
キリスト教は「愛の宗教」と言われるくらいに、愛はキリスト教における最も重要な概念だと言えます。現代では馴染みのある言葉として定着している愛ですが、キリスト教徒のいう愛は、そうでは無い人の使う愛とはかなり意味が違います。まず、新約聖書には「神は愛である」と書かれています。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛する者はみな、神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネ第一 4:7-8)
キリスト教の愛は人間の感情に還元されません。単なる「好き」という感情ではなく、男女間の欲望でもない。神の存在なしに愛を語ることはできません。
みなさんは国語の古文の授業で「愛」は「かなし」と読むと習ったはずです。「しみじみとかわいい。いとしい。心がひかれる」のような意味で使われていました。また、「めづ」(愛づ)と読む使われ方も存在しました。こちらは「思いしたう、賞賛する、好きになる」などの意味で使われていました。
古語における愛には神という概念は存在しません。ただ人間の感情が表されています。一方でキリスト教の愛は神として語られます。この点が日本古来の愛と西洋由来の愛の大きな違いの一つです。
では、次に聖書において愛について書かれている最も有名な箇所を引きます。
この4節から7節は特に有名です。愛に関して具合的に書かれています。どうでしょうか。私の感想は、聞こえの良い気持ちの良い言葉が並んでいるなという感じです。いくらキリスト教徒でも、この愛を実現できているとは思いません。ですが、実現できているかの有無によらず、愛を掲げていることで、常にその愛を実現しようとする人たちが生まれてくるので、それがキリスト教を支えているのかなと思います。
みなさんは素朴にキリスト教の愛についてどう思うでしょうか?コメントいただければ返信します。
質問1:愛する人はいますか?また、それはどんな方ですか?
質問2:これまでに聖書を読んだことはありますか?
■Hiroto
1:「この人は愛してる人!この人は違う!」と区切りたくないです!「こいつは親友」とちょっと前のWSで言うときにも少し抵抗ありました。
2:街ゆく信仰者から何冊かもらいましたが、少ししか読んでないです。
あんまん
人間は皆、神のもとに平等に愛されているらしいので、それに近いのかもしれません。
■コバ
Q1:愛する人はいますか?また、それはどんな方ですか?
A:仲間ですね。家族、友人、仲間(ジェラボや職場)、また自分も含めて抽象化して「仲間」という概念で捉えています。
Q2:これまでに聖書を読んだことはありますか?
A:あります。とはいえ重要なのは聖書そのものよりもキリスト教というものを知ることだと思います。キリスト教を俯瞰して捉えることは現代を生きる上でとても重要なことだと思っています。そこに世界観を知るという意味でプラスオンとして聖書を読めばより深い洞察もできるようになるはずです。
Day8-9
★あんまん
今日は隣人愛について考えていこうと思います。聖書ではよく「隣人を愛しなさい」という文言が出てきます。
マルコ、マタイによる福音書では第一の掟に神への愛、第二の掟に隣人への愛が書かれており、愛の対象をわざわざ分けて書いています。ここから、神に対する愛と隣人に対する愛はどっちも同じくらい大切ですが、別物だと読み取ることができます。そして、どれも「自分自身を愛するように」と書かれているのがあんまん的には注目ポイントです。自分自身を愛せていないと隣人を愛することができないというように聞こえます。
聖書には隣人とは誰なのかを書かれている箇所があります。
ここから隣人とは、単に物理的な近さや同じ民族、宗教の人を指すのではないことが読み取れます。そして、隣人とは自分自身を愛してくれる人と私はこのたとえから解釈します。ですが、隣人を「自分自身を愛してくれる人」と解釈するとちょっと厄介です。なぜなら、誰かが最初に自分自身を愛してくれないと、隣人は生まれないからです。上のルカによる福音書の善きサマリア人のたとえからは、隣人愛とは、愛してくれる人のお返しとしての愛というふうにしか読み取れず、無条件の愛では無いということがわかります。だから結局、イエスはこう言います。
この部分では、愛する条件などについては一切書かれていません。ただ「愛せ」と命令します。まずこの命令があって生まれた愛に対してお返しをしなさいという意味で隣人愛があるのだと思います。そして何気に重要だと思うのが、これが「愛せ」という命令であるということです。わざわざ命令するということは、万人を愛するということが人間の本能に備わっていないというふうに読み取れます。
質問3;愛を感じたエピソードを教えてください。
■コバ
Q3:愛を感じたエピソードを教えてください
A:今WSに返信していることそのものが自分なりの「愛」ですね。他者が何を感じ、何を考えているのか、そこに興味関心を持つことが「愛」だと思っています。
★あんまん
ヨハネによる福音書15章1-17節です。私が聖書の一部分の切り抜きが好きでは無いので一応その前の文を載せておきます。
Day 10
★ゆーろっぷ
はじめに
みなさん、メリークリスマス。クリスマスを迎え、明日になればいよいよ年の瀬を意識し始める頃でしょうか。
こがわさんとあんまんさんには、クリスマス間際ということもあり、西洋の古典でありなおかつキリスト教などの現代の世界宗教にとって最も重要な文献である聖書の記述について、独自の視点で語っていただきました。しかしこの文章を投下していく時にはもうクリスマスも過ぎる頃となっておりますので、ここでは聖書とは全く違う視点から書かれた古典を通じて、現代にも通じるような普遍性を探っていきたいと思っております。
さて、スケジュールにある紹介からも察せられる通り、ここでは日本三大随筆の一『徒然草』を扱います。もちろん、徒然草といってもその内容は多岐に渡りますので、今回は「冬」というテーマに絞ってみていきましょう。と言っても、このテーマは表向き、あるいは導入のためのものであり、後半になるにつれてだんだんと本来の、いわば裏のテーマへと向かっていきたいと思っております。その主題はキリスト教を含むあらゆる宗教に通じる、宗教の核心と考えられるものです。
せっかくの年の瀬ですので、古典を通して思索に耽ってみるのも悪くないのではないでしょうか。4日間という短い期間ではありますが、どうぞお付き合いいただければと思います。
注:以降で扱う『徒然草』の文章および現代語訳は以下の書籍を参考としています。
まずはじめに、兼好が四季の移り変わりについて書いている第十九段を扱います。ここでは「冬」に関する一部のみの記述を抜粋しますが、これだけでも『徒然草』がどういった趣をもっているのかが分かります。まさに名文と言える文章ですので、できれば原文を読んでみましょう。その際には注釈も活用してくださればと思います。もちろん、現代語訳だけでも十分にその情緒を味わうことができるはずです。
第十九段(折節の移りかはり)
いかがでしょうか。兼好は冬の季節感を、単なる情景描写にとどまらず、その時期特有の人々の営みと対応させて巧みに描いています。冬枯れの風景から始まって、行事が数多くある年の瀬の慌ただしさ、年が明けゆく大晦日の夜、年が明けた後の華やかさなど──具体的な主題は時を経るにつれて変化していきますが、その多くが「あはれ」、すなわち事物への深い共感と物悲しさを兼好に感じさせています。この独特な語り口は、次の『枕草子』の有名な一節と対比させることで際立つことでしょう。
兼好が「あはれ」の人だとするなら、『枕草子』を書いた清少納言は「をかし」の人だと言えます。「あはれ」はしみじみとした深い共感のことで、対象について否応もなく「感じてしまう」類のものです。一方で「をかし」については、共感や感情移入というよりも「(直感的に)良い」というような、対象の外から能動的に下す「評価」といったニュアンスでしょうか。引用した箇所に「をかし」は直接には使われてはいませんが、「いふべきにもあらず」「いとつきづきし」「わろし」は全て「をかし」系の表現です。清少納言は自身の感性に基づいて、これは良い/これは悪いという判断を鋭く行なっており、これが文章全体に鮮やかでかつ明るい感じを与えているのです。
では、ここで2つほど質問を置いておきます。お手隙の際に考えてみてください。
徒然草と枕草子について:
Q1. どちらが自分の感性に響きましたか。あるいは響きそうだと思われますか。
Q2. あなたは「あはれ」の人ですか。それとも「をかし」の人ですか。そう考えた理由もお聞かせください。(あえて「どちらでもある/どちらでもない」は除外します。どちらか一方をお答えください。)
追加Q. ちょうど20日過ぎなので、有明の月を見てみてください(見えるでしょうか?)。写真撮影してみて共有してもOKです。
■Hiroto
Q1. 徒然草は現代語訳の方でも苦痛でした。これだけでも長いし。枕草子は短いので良い。
Q2. 上でも苦痛とか良いとか言ってるので、をかし系。あはれならわざわざ言うまでもないかもと思っちゃいます。言うなら独自の観点から切ってる感が欲しいです。
ゆーろっぷ
文章の長さそれ自体は本質的な原因ではないでしょう。「言うなら独自の観点から切ってる感が欲しい」とあるように、Hirotoさんはおそらく文章に「面白さ」を求める人なのだと思います。がしかし、故橋本治先生に言わせれば、『徒然草』は──正確には『枕草子』を面白いと思う人にとって『徒然草』は──「つまらない」んですよね。以下著書からの引用しますが、
ということだそうです。ひどい言われようですね笑。
しかしあえてそんな「つまらない」文章を取り上げているのには理由があります。橋本先生も言うように、『徒然草』には『徒然草』で別の存在意義があるのであり、それは今回の「裏のテーマ」と関わってくることでもあります。短い期間ですので、もう少しお付き合いいただければと思います。
Hiroto
自分が内発的に読もうと思うなら、むしろ徒然かもしれません。わからなさが「面白い」のだろうと思うので。
外発的に課題として出されて、「どっちが響いた?」と聞かれたから枕草子と答えた気がします。
■コバ
Q1. どちらが自分の感性に響きましたか。あるいは響きそうだと思われますか。
A:枕草子
Q2. あなたはあえて言うなら「あはれ」の人ですか。それとも「をかし」の人ですか。そう考えた理由もお聞かせください。(「どちらでもある/どちらでもない」は除外します。どちらか一方をお答えください。)
A:「をかし」の人ですね。ゆーろっぷ君からの二択を読んで直感で『自分は「をかし」の人だ』と思ったからです。
Day 11
★ゆーろっぷ
今日は『徒然草』第三十一段を扱います。内容的な繋がりはないので、独立して読むことができます。短くわかりやすい文章ですので、さらりといきましょう。
第三十一段(雪の朝)
さて、実はこの段の前段(第三十段、この後で扱う)は、『徒然草』の中でも一際「無常観」が全面に押し出された文章です。しかしこの第三十一段はそれとは打って変わって、故人(おそらく女性でしょう)の思い出を語っています。これは本文中にもあるように「をかしかりし」思い出で、「あはれ」に付随するような重苦しさはなく、さっぱりとした趣です。しかしそれと同時に、最後に添えられた一文からはこの人物に対する兼好の思い入れの深さも察することができます。個人的にはかなり気に入っている文章です。
例の如く、質問を置いておきます。
雪について:
Q3. 雪にまつわる思い出があれば教えてください。
過去を振り返ることについて:
Q4. 過去を意識的に振り返ることはありますか。また、それを文章化する(書き出す)ことはどうでしょうか。
Q5. フラッシュバックのように、過去を無意識的に、意図せず思い出してしまうことはありますか。あるとすれば、それはどんな状況で起きますか。
■コバ
Q3. 雪にまつわる思い出があれば教えてください。
A:スキー、雪合戦、雪だるま作り、ホワイトクリスマス、初詣、楽しい思い出がいっぱいです。
Q4. 過去を意識的に振り返ることはありますか。また、それを文章化する(書き出す)ことはどうでしょうか。
A:意識的に過去を振り返ってそこから自分なりの学びを抽象化して箇条書きで整理はしています。同じ過ちを2度はしないためですね。自分なりのライフハック術みたいなものです。
Q5. フラッシュバックなどのように、過去を無意識的に、意図せず思い出してしまうことはありますか。あるとすれば、それはどんな状況で起きますか。
A:人間の思考はかなり無意識に支配されている部分が多いのでその無意識に過去の体験が浮かぶことは毎日あります。どんな状況かと考えると副交感神経が優位になっている時が多いと思います。
Day 12-13
★ゆーろっぷ
さて、いよいよ真の主題へと入っていきましょう。テーマはずばり「死と葬送」です。まずは以下の文章を読んでみてください。少々長いので、現代語訳だけでも構いません。
第三十段(人の亡きあと)
前日の第三十一段(雪の朝)の解説でこの段のことを「無常観が全面に押し出されている」としましたが、まさに人の死にまつわる無常、儚さが語られています。(特に親しい)人が死ぬことはもちろん「悲し」いのですが、兼好はそれだけではなく、その人の死が月日を経て跡形もなく忘れ去られていく過程にまで思いを馳せ、それも含めて「悲し」としているわけです。これほどの思索は、自分自身の「死」を目を背けず見つめることなしには不可能でしょう。おそらく兼好は、人の死一般について語るという体を取りつつ、実際には自分自身の「死」について書いているのです。そして兼好は、むしろそれによってこそ、逆説的に人の「生」について語ることができるのだと直観していたのではないでしょうか。
人間は必ず死ぬということ。これは宗教にとっても極めて重要な意味を持ちます。例としてキリスト教の経典である聖書ついてみてみると、キリストの「誕生」に関しては福音書によっては描写がないものもありますが、他方、キリストの「復活」(いうまでもなくこれは「死」を伴う)については、4つの福音書全てにその記述があります。また、仏教については言うまでもなく「輪廻転生」の概念がその死生観を表していますね。さらに、各宗派によって形式の相違はありますが、死者の「葬儀」そのものがない宗教は少なくとも世界宗教には存在しません。カルト宗教ですら一定の規模のものには独自の葬儀の形態があることでしょう。こうしたことを考えると、「死」は人として「生きる」にあたって切っても切り離すことができないものであり、だからこそその解釈をめぐって様々な宗教が生まれるのだとも言えそうです。
さて、ここで個人的に思い出されるのは、ジョルジョ・アガンベンというイタリアの哲学者がコロナ禍の中で発表した論考です。このような論考があったことは2023年に出版された國分功一郎氏の講演集『目的への抵抗』を読むまで知らなかったのですが、コロナ禍における外出自粛を批判したことで、当時は大きなセンセーション──要はネット炎上──を引き起こしたそうです。
しかし、コロナウイルスの猛威が一定の収束をみた今、アガンベン氏の主張を振り返ってみると、人間の社会を見直す上で極めて重要な示唆が含まれていることに気がつきます。國分氏によれば彼の主な論点は2つですが、ここではテーマに沿って「死者」にまつわる方をみてみたいと思います。アガンベン氏によれば、それは「死者が葬儀の権利を持たない」ということです。國分氏による該当箇所の日本語訳を引用しましょう。
死者を弔う権利、死者として弔われる権利が奪われることは、死者が公共空間からただ消去されるということであり、人間の死が単に医療的・防疫的対象として処理されるだけの世界を浮き彫りにします。アガンベンはそれを「生存以外にいかなる価値をも持たない社会」として、それに沈黙しままの教会も含めて批判したのです。
しかし、そもそもなぜそのような社会が問題となるのでしょうか。この論点に関する質問を置いておきますので、ぜひ考えてみていただければと思います。
死者の葬儀について:
Q6. 葬儀への参列や火葬の立ち会いなど、葬送儀礼への参加経験はありますか。ある方はその時の体験について振り返ってみてください。
Q7. アガンベンはなぜ「死者としての権利の剥奪」を問題としたのでしょうか。言い換えるならば、葬送儀礼を行うことは自分自身の「生物的生存」には一切の寄与をしないにも関わらず、人はなぜ死者を弔うのでしょうか。それは「人間として生きる」ことにとってどのような意味を持っているのでしょう。
■Hiroto
Q6. 母方の祖父のものに参列経験あり。葬式は身近な生きている人のための区切りのためのものだと体感しました。死んだ当人のためだという題目で、死んだ当人の周りの人のため。だから死んだ当人のためのものではないのですが、そう言語にすると先ほどの題目と対立するので、しない。結局やっぱり死んだ当人のためのものだよね〜ということになる。
Q7. 上にも書いたように、死者を弔うのは、周りの生者が無理くり区切りをつけるためと思います。「意味」は周りの情報との関係性により生まれ、その大半を占めるのが人間関係で、それが喪失したのだから、そのことに対する区切りは人間として生きる上でむしろ意味しかない気がします。翻って、自分の葬式はマジで興味ないです。今炎上してる解剖実習をSNSに上げてしまった云々の話も、自分の死体でやられたとてどうでもいいです。死んでるので。
ゆーろっぷ
自分は母方の祖父の火葬とお骨拾いに立ちあった記憶があります。火葬後は本当にバラバラになった骨と灰が残るだけで、ある意味で「死」を身近に感じた瞬間でもありました。
「関係」はキーワードですね。死者を弔うことは、単なる儀式的慣習以上の意味合いがある。それは、死者と生者、死者と超越的存在(神)とを結ぶ関係性の「再構築の場」と捉えることができる。キリスト教でも仏教でも、その死生観をみていると、死者を非-実在として抹消するのではなく、超越的な関係性の中に再度位置づけるという意味合いを持っているのではないかと個人的には思われます。あと余談ですが、「意味」の捉え方がめちゃくちゃ数学的というか、圏論的ですね。圏論ミリも知らないんですけど。
>>自分の死体でやられたとてどうでもいいです。死んでるので。
死んでいるのであれば「どうでもいい」とすら感じられないと思いますが、どうでしょうか。結局「死んでいる」という状態は選べないので、自分が「死んでいる」という立場だったらどうだろうか、ということを「生きている」立場で考えるほかないですね。「生きている」自分からすれば、死んで遺体が残っている間くらいは尊厳を見出される存在でありたいな〜と思うのですが。
■コバ
Q6. 葬儀への参列や火葬の立ち会いなど、葬送儀礼への参加経験はありますか。ある方はその時の体験について振り返ってみてください。
A:あります。その度にもうその故人とは会えない「寂しさ」を感じますね。
Q7. アガンベンはなぜ「死者としての権利の剥奪」を問題としたのでしょうか。言い換えるならば、葬送儀礼を行うことは自分自身の「生物的生存」には一切の寄与をしないにも関わらず、人はなぜ死者を弔うのでしょうか。それは「人間として生きる」ことにとってどのような意味を持っているのでしょう。
A:人はなぜ死者を弔うのかというと、それは皆「死ぬのが怖い」からなんだと思います。弔うことでその恐怖を文化的、宗教的、物語的に紛らわしているのだと思います。しかし、恐怖や痛みを感じること自体が「人間として生きる」ということなのではないでしょうか。現代社会は「痛み(恐怖や不快さも含めて「痛み」と表現しています)」を極力減らす(もしくはそこに蓋をする)構造になっています。しかしその中で「人間として生きる」という要素が排除されていってしまっていることもまた事実ですね。
ゆーろっぷ
コバさんらしい結論だと思いました。死ぬのが怖いから社会システムが発展してきた側面があるけれども、同時にシステムによって従来は宗教などが担っていた領域が解体されて、人間性が疎外されているようにも感じられる。この状況は本当にどうすればいいんでしょうね。
Day 14
★あんまん
最終日になりました。2週間で主に聖書と日本の古典に触れました。古典作品は現代からかけ離れた時代に生まれたものなので、古典に触れることによってこの慌ただしい12月とは異なった空気感を私たちに味あわせます。私はなんだか心がホッと落ち着くような気持ちになります。みなさんはどんなことを考えたでしょうか。
古典はなぜなぜ古典なのでしょうか。単に古いという理由だけでは何百年、何千年と読み継がれるとは思えません。その作品に価値がなければ、読み継がれ現代に残ることはなかったでしょう。古典が古典である理由は、現代の思想に影響を与えているからだと思います。聖書であれば、愛やキリスト教的な宗教観。徒然草であれば、「あはれ」などの日本人的自然観などは現代にも通づる部分があります。古典は、現代とはかけ離れています。しかし、その中でも現代に通づる部分があるからこそ読まれるのだと思います。そして、これだけかけ離れているのに通じるのが面白い。長い時間人類に共感や感動を与えるということはその内容に普遍性があるといえるでしょう。だから古典を読むことは「とは何か」を考えるジェイラボ民にこそ読むべきだと思います。
ではこの辺で。愛を込めて。2週間ありがとうございました。