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ジェイラボワークショップ第82回『古典に触れよう』【図書委員会】[20241216-1229]

本記事は、ジェイラボ内で2024年12月16日から12月29日にかけて行われました、図書委員会主催の第81回ジェイラボワークショップ『古典に触れよう』のログになります。

★印の発言は図書委員からの発話、■は部外の研究員によるコメントです。


Day 1

★あんまん

12月中旬、寒さの身に沁みる季節となりました。図書委員です。
本日から12月29日までの2週間、WSを開催します。年内最後のワークショップですね。よろしくお願いします。

テーマは
「古典に触れる」です。
スケジュールは以下の通りです。

Day 1    開幕宣言
Day 2-5  こがわ担当(アヴェマリア、処女懐胎、福音)

Day 6-9 あんまん担当(聖書より愛とは)
Day 10-13 ゆーろっぷ担当(つれづれなるままに…)

Day 14   終幕宣言

座談会は12月22日21時からです。

現代は情報化社会と呼ばれます。デジタル技術の進化によってありとあらゆる情報に手軽にアクセスできるようになりました。あまりに多くの量の情報がここ数年で急激に簡単にアクセスできるようになったことで、与えられた情報がどのような流れのもとで生まれたのかを問われないまま、触れることがよくあります。今のインターネットはデジタル世界に、限りなく思えるほどの、膨大な情報の集積所を発明したに過ぎず、その情報はあまりうまく整備されているとは思えません。情報同士の有機的なつながりが見えずらい。「有機的」と書くとインターネットに有機的なつながりが見えにくいとのは当たり前のように感じられます。なぜなら情報そのものや、インターネットは有機的ではないからです。情報の繋がりが有機的になるのは、有機的な人間の頭の中でです。何も意識しないでインターネットの情報に触れていると情報の海に溺れてしまいます。

情報の川の流れを遡ってゆくと上流の方には古典があります。古典を読むことは、われわれが飲んでいる水はどこから来ているのかを知る手がかりになります。例えば、このワークショップでは聖書について扱います。日本人のうちキリスト教徒の割合は1%ほどみたいですが、この水脈は非常に広く深いところまで根を引いていることに気が付きます。また、古典を読むことで現代には流れていない池や湖を発見できることもあるでしょう。

これから2週間で見聞きする内容が、どのように我々の生活に関わりがあるのか、また関係が無いのかを意識しながらワークショップに参加していただければと思います。

Day 2-3

★Takuma Kogawa

みなさんこんにちは。私は、日常的な単語の背景にある聖書の文章に触れてみようと思います。はじめにひとつ課題を出します。新約聖書の日本語訳は、イエス・キリスト協会のものを使用します。

課題:なにげない単語の背景にある古典や歴史について調べてみましょう。キリスト教や聖書と関係なくてよいです。

今日と明日は「アヴェ・マリア」と「処女懐胎」を取り上げます。アヴェ・マリアの音楽として最も有名なのはシューベルト作曲のものではないでしょうか。

アヴェ・マリアのラテン語原文と日本語訳は以下のとおりです。

Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen.

「アヴェ・マリアの祈り」
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。

「アヴェ・マリアの祈り」は、新約聖書ルカによる福音書の1・28と1・42がもとになっています。

御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

ルカによる福音書1・28

声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています」。

ルカによる福音書1・42

1・28と1・42だけを読んでもなんだかわからないと思いますが、ルカによる福音書の1・1から1・45あたりまでを読めば、おおよそわかると思います。マリアという処女(1・26)のもとにガブリエルがつかわされ、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と言われます(1・28)。

おそらく、キリスト教において重要なのはマリアが身ごもったイエスの方であり、マリア本人を信仰上の都合で神聖視する理由はないように思います。それでも「アヴェ・マリア」という言葉が現在も生き残っているということは、イエスが処女懐胎という過程やマリア本人ときりはなすことができず、身ごもったマリアを聖母とみなさないと不自然ということなのかもしれません。せっかくの機会ですから「アヴェ・マリア」のラテン語の聖歌を聴いてみましょう。「アヴェ・マリア」や「処女懐胎」について何かコメントをいただけたら、キリスト教や聖書の素人の私が素人なりに返答します。

■コバ

マリアの処女懐胎はキリストの神性の証明として聖書に書かれているように思います。キリストに普通にお父さんお母さんがいるよりは処女懐胎という神のみわざで誕生する方が人々がキリストの神性を受け入れやすくなるという要素はあると思います。

ちょっと話は逸れるかもしれませんが「処女に価値がある」というような価値観はどこから来たのでしょうね。生物学的なものというよりは文化的なもののはずですがが、確かに思春期の時は私も「処女に価値がある」というような価値観が誰に教わるでもなく植え付けられていたような気もします。今はどうでもいいので思春期特有のものなのか。。。なんなんでしょうねあの価値観。

  • Takuma Kogawa
    処女というか処女性(未経験、1回目)には固有の価値はあると個人的には思います。処女性を一度失ってから取り戻すことはできないので。信念があるのかないのか、カントは童貞のまま生涯を終えたようですが、それが彼の哲学によい影響を与えていたのかは誰にもわかりません。三島由紀夫『不道徳教育講座』に「童貞は一刻も早く捨てよ」というエッセイがあるように、童貞に処女性を見出して守ろうという規範はないかもしれません。ごさいじ『同人作家はコスプレえっちの夢を見るか』に収録されたマンガでは、同人作家が自身の童貞を守ろうとする描写があり、芸術方面の人はそういう信念があるかもしれません。

Day 4-5

★Takuma Kogawa

今日と明日は「福音」と「福音書」を取り上げます。現在「福音」といえば、良い知らせという意味でしょう。福音はギリシア語でeuangelion、日本語で発音すればエヴァンゲリオンです。あの有名なアニメのことはよく存じ上げませんが、キリスト教が下敷きになっているのかもしれません。
キリスト教における福音書は、新約聖書におさめられているマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書を指します。これらの福音書ではイエスの誕生やその生涯、教えについて書かれています。それぞれの福音書は重複はありつつも、異なる視点からイエスについて書かれています。イエスの誕生に絞って内容を見てみましょう。

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
しかし、子が生まれるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

マタイによる福音書1・18-1・25

六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。
この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。
御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。
この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。
すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。
見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。
彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。
そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。
御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。
あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。
神には、なんでもできないことはありません」。
そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

ルカによる福音書1・26-1・38

そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互いに語り合った。
そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。

ルカによる福音書2・1-2・21

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者ものはまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

ヨハネによる福音書1・1-1・18

マルコの福音書はイエスの誕生については触れていません。

実際に読んでみていかがでしょうか。素人の私は、わからんでもないが背景知識がないからきちんとは理解できない、という感じです。それでも、聖書や古文漢文などは意味がわからなくても読んでみる(特に音読する)ことそのものに価値があるように思います。江戸時代の寺子屋では繰り返し音読していたといいます。寺子屋の精神を、このワークショップで一度体験してみてはいかがでしょうか。

Day 6-7

★あんまん

みなさんこんばんは。もうすぐクリスマスですね。私はキリスト教徒ではありませんし、どっちかというとキリスト教は嫌いな部分が多いですが、素朴に「愛するということ」には、関心があります。クリスマスは愛する人とゆっくり過ごしたいものです。ということで、今日から愛について考えてみようと思います。

キリスト教は「愛の宗教」と言われるくらいに、愛はキリスト教における最も重要な概念だと言えます。現代では馴染みのある言葉として定着している愛ですが、キリスト教徒のいう愛は、そうでは無い人の使う愛とはかなり意味が違います。まず、新約聖書には「神は愛である」と書かれています。

愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛する者はみな、神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネ第一 4:7-8)

キリスト教の愛は人間の感情に還元されません。単なる「好き」という感情ではなく、男女間の欲望でもない。神の存在なしに愛を語ることはできません。

みなさんは国語の古文の授業で「愛」は「かなし」と読むと習ったはずです。「しみじみとかわいい。いとしい。心がひかれる」のような意味で使われていました。また、「めづ」(愛づ)と読む使われ方も存在しました。こちらは「思いしたう、賞賛する、好きになる」などの意味で使われていました。

「いかでこのかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、おとに聞きめでてまどふ」
訳:なんとかしてこのかぐや姫を手に入れたいものだなあ、結婚したいものだなあと、うわさに聞いて思い慕って思い乱れる。

竹取物語 貴公子たちの求婚

「光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえて、付け奉りける」
訳:「光る君」という名前は、高麗の国の人がおほめ申して、お付けしたのである。

源氏物語 桐壺

古語における愛には神という概念は存在しません。ただ人間の感情が表されています。一方でキリスト教の愛は神として語られます。この点が日本古来の愛と西洋由来の愛の大きな違いの一つです。

では、次に聖書において愛について書かれている最も有名な箇所を引きます。

1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。
2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

コリントの信徒への手紙一 13

この4節から7節は特に有名です。愛に関して具合的に書かれています。どうでしょうか。私の感想は、聞こえの良い気持ちの良い言葉が並んでいるなという感じです。いくらキリスト教徒でも、この愛を実現できているとは思いません。ですが、実現できているかの有無によらず、愛を掲げていることで、常にその愛を実現しようとする人たちが生まれてくるので、それがキリスト教を支えているのかなと思います。
みなさんは素朴にキリスト教の愛についてどう思うでしょうか?コメントいただければ返信します。

質問1:愛する人はいますか?また、それはどんな方ですか?
質問2:これまでに聖書を読んだことはありますか?

■Hiroto

1:「この人は愛してる人!この人は違う!」と区切りたくないです!「こいつは親友」とちょっと前のWSで言うときにも少し抵抗ありました。
2:街ゆく信仰者から何冊かもらいましたが、少ししか読んでないです。

  • あんまん
    人間は皆、神のもとに平等に愛されているらしいので、それに近いのかもしれません。

■コバ

Q1:愛する人はいますか?また、それはどんな方ですか?

A:仲間ですね。家族、友人、仲間(ジェラボや職場)、また自分も含めて抽象化して「仲間」という概念で捉えています。

Q2:これまでに聖書を読んだことはありますか?

A:あります。とはいえ重要なのは聖書そのものよりもキリスト教というものを知ることだと思います。キリスト教を俯瞰して捉えることは現代を生きる上でとても重要なことだと思っています。そこに世界観を知るという意味でプラスオンとして聖書を読めばより深い洞察もできるようになるはずです。

Day8-9

★あんまん

今日は隣人愛について考えていこうと思います。聖書ではよく「隣人を愛しなさい」という文言が出てきます。

復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

レビ記 19:18(旧約聖書)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

マルコによる福音書12:28-31(新約聖書)

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』」

マタイによる福音書22:36-39(新約聖書)

マルコ、マタイによる福音書では第一の掟に神への愛、第二の掟に隣人への愛が書かれており、愛の対象をわざわざ分けて書いています。ここから、神に対する愛と隣人に対する愛はどっちも同じくらい大切ですが、別物だと読み取ることができます。そして、どれも「自分自身を愛するように」と書かれているのがあんまん的には注目ポイントです。自分自身を愛せていないと隣人を愛することができないというように聞こえます。

聖書には隣人とは誰なのかを書かれている箇所があります。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書 10:25-37(善きサマリア人のたとえ)

ここから隣人とは、単に物理的な近さや同じ民族、宗教の人を指すのではないことが読み取れます。そして、隣人とは自分自身を愛してくれる人と私はこのたとえから解釈します。ですが、隣人を「自分自身を愛してくれる人」と解釈するとちょっと厄介です。なぜなら、誰かが最初に自分自身を愛してくれないと、隣人は生まれないからです。上のルカによる福音書の善きサマリア人のたとえからは、隣人愛とは、愛してくれる人のお返しとしての愛というふうにしか読み取れず、無条件の愛では無いということがわかります。だから結局、イエスはこう言います。

互いに愛し合いなさい。これは命令である。

ヨハネによる福音書15:17

この部分では、愛する条件などについては一切書かれていません。ただ「愛せ」と命令します。まずこの命令があって生まれた愛に対してお返しをしなさいという意味で隣人愛があるのだと思います。そして何気に重要だと思うのが、これが「愛せ」という命令であるということです。わざわざ命令するということは、万人を愛するということが人間の本能に備わっていないというふうに読み取れます。

質問3;愛を感じたエピソードを教えてください。

■コバ

Q3:愛を感じたエピソードを教えてください

A:今WSに返信していることそのものが自分なりの「愛」ですね。他者が何を感じ、何を考えているのか、そこに興味関心を持つことが「愛」だと思っています。

★あんまん

ヨハネによる福音書15章1-17節です。私が聖書の一部分の切り抜きが好きでは無いので一応その前の文を載せておきます。

イエスはまことのぶどうの木
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

ヨハネによる福音書15章1-17節

Day 10

★ゆーろっぷ

はじめに

 みなさん、メリークリスマス。クリスマスを迎え、明日になればいよいよ年の瀬を意識し始める頃でしょうか。
 こがわさんとあんまんさんには、クリスマス間際ということもあり、西洋の古典でありなおかつキリスト教などの現代の世界宗教にとって最も重要な文献である聖書の記述について、独自の視点で語っていただきました。しかしこの文章を投下していく時にはもうクリスマスも過ぎる頃となっておりますので、ここでは聖書とは全く違う視点から書かれた古典を通じて、現代にも通じるような普遍性を探っていきたいと思っております。

 さて、スケジュールにある紹介からも察せられる通り、ここでは日本三大随筆の一『徒然草』を扱います。もちろん、徒然草といってもその内容は多岐に渡りますので、今回は「冬」というテーマに絞ってみていきましょう。と言っても、このテーマは表向き、あるいは導入のためのものであり、後半になるにつれてだんだんと本来の、いわば裏のテーマへと向かっていきたいと思っております。その主題はキリスト教を含むあらゆる宗教に通じる、宗教の核心と考えられるものです。
 せっかくの年の瀬ですので、古典を通して思索に耽ってみるのも悪くないのではないでしょうか。4日間という短い期間ではありますが、どうぞお付き合いいただければと思います。

注:以降で扱う『徒然草』の文章および現代語訳は以下の書籍を参考としています。


 まずはじめに、兼好が四季の移り変わりについて書いている第十九段を扱います。ここでは「冬」に関する一部のみの記述を抜粋しますが、これだけでも『徒然草』がどういった趣をもっているのかが分かります。まさに名文と言える文章ですので、できれば原文を読んでみましょう。その際には注釈も活用してくださればと思います。もちろん、現代語訳だけでも十分にその情緒を味わうことができるはずです。

第十九段(折節の移りかはり)


 さて冬枯れのけしきこそ、秋にはをさをさおとるまじけれ*1。汀の草に紅葉の散りとどまりて、霜いと白うおける朝、遣水*2より煙の立つこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる*3ころぞ、またなくあはれなる。すさまじき*4ものにして見る人もなき月*5の、寒けく澄める二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名*6・荷前*7の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事*8ども繁く、春の急ぎ*9にとり重ねて催し行はるるさまぞいみじきや。追儺*10より四方拝*11につづくこそおもしろけれ。晦日の夜いたう闇きに、松どもともして、夜半すぐるまで人の門たたき走りありきて*12、何ごとにかあらん、ことごとしく*13ののしりて足を空に*14まどふが、暁がたよりさすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とてたままつるわざ*15は、このごろ都にはなきを、東のかたにはなほすることにてありしこそ、あはれなりしか。
  かくて明けゆく空のけしき、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへめづらしき*16ここちぞする。大路のさま、松立てわたして*17花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

〈注〉
*1 をさをさおとるまじけれ:「をさをさ」は下に打消の語を伴って「ほとんど〜(ない)」の意。「まじ」は打ち消し推量の助動詞。
*2 遣水(やりみず):庭園などに水を導き入れて流れるようにした細流。
*3 人ごとに急ぎあへる:皆が皆(迎春の)用意をしている。
*4 すさまじき:殺風景だ。
*5 見る人もなき月:十二月の有明の月は見る値打ちのないものとされる。
*6 御仏名(おぶつみょう):12月19日より3日間仏名経によって三世の三千の仏の名前を3日間唱えて、罪の消滅を祈る法会。宮中でも室町時代まで恒例の行事として清涼殿で行われた。仏名会。
*7 荷前(のさき):諸国から朝廷におさめた貢物の初穂を,十二月中旬に伊勢神宮はじめ諸陵に奉ったこと。
*8 公事(くじ):朝廷の政務や諸儀式。
*9 春の急ぎ:新年の諸行事の準備。
*10 追儺(ついな):鬼やらい。現在は節分の行事となっているが、当時の宮廷行事としては大晦日に行われていた。
*11 四方拝:一月一日に行われる皇室祭儀。四大節の一。明治以前は元日の朝に天皇が清涼殿の東庭で属星(ぞくしよう)を唱え、天地・四方・山陵を拝して年災を払い、五穀豊穣・宝祚(ほうそ)長久を祈った。現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。
*12 走りありきて:走りまわって。「動詞+ありく」で「〜してまわる」の意。
*13 ことごとし:おおげさだ。仰々しい。
*14 足を空に:落ち着きを失っている様子を表す。
*15 たままつるわざ:魂を祭る行事。
*16 ひきかへめづらしき:うって変わって新鮮な。この「めづらし」は現代語の「珍しい」とは意味が異なるので注意。
*17 松立てわたして:門松をずっと立て並べて。

〈通釈〉
 さて、冬枯れの風景こそ、秋と比べてもほとんど劣っていないであろう。池のみぎわの草に散った紅葉がとどまって、霜が真っ白に降りた朝、遣水より煙だっているのはなんとも趣深い。年がすっかりと暮れて、各人が皆そろって迎春の用意をしている頃は、この上なくしみじみと感じられる。殺風景なものとして見る人もいない(12月の有明の)月が、寒々として澄んだ光と放っている二十日過ぎの空は、まことに心細い感じのするものだ。宮廷で御仏名が行われたり、荷前の勅使がつかわされたりするのは、感慨深くかつ貴いことだと思われる。宮中の儀式が数多く、新年の諸行事の準備にとり重ねて行われる様子は、ほんとうに大したものだ。大晦日の追儺式から元旦の四方拝に続いていくのもまことに興趣深い。市中では大晦日の夜、まっくらな中に松明をともして、夜なか過ぎるまで、人の家の門を叩きながら走り回って、何ごとだろうか、大声でわめきながら、足が宙に浮くほど慌ただしく飛び回っているのが、夜の明けるころからは、さすがに静まりかえってしまって、過ぎゆく年に対する名残り惜しさが物寂しく感じられる。亡き人がこの世に戻ってくる夜だというので、魂を祭る行事は、近ごろ都ではすたれたが、東国方面では今もなお行うことであって、これはいかにもしみじみと感じられることであった。
 こうして明けゆく空の風情は、(外観は)昨日と変わったようにもみえないのに、うって変わってすべてが新しくなった気持ちがするものである。都大路の眺めも、門松をずっと立て並べて、華やかでもありうれしげでもあるのが、またしみじみと感慨深いものである。

『徒然草』第十九段

 いかがでしょうか。兼好は冬の季節感を、単なる情景描写にとどまらず、その時期特有の人々の営みと対応させて巧みに描いています。冬枯れの風景から始まって、行事が数多くある年の瀬の慌ただしさ、年が明けゆく大晦日の夜、年が明けた後の華やかさなど──具体的な主題は時を経るにつれて変化していきますが、その多くが「あはれ」、すなわち事物への深い共感と物悲しさを兼好に感じさせています。この独特な語り口は、次の『枕草子』の有名な一節と対比させることで際立つことでしょう。

 冬はつとめて*1。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし*2。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば*3、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

〈注〉
*1 つとめて:早朝。
*2 つきづきし:ふさわしい。似つかわしい。ここでは「火など急ぎおこして、炭もて渡る」のが冬の早朝にふさわしいことをいう。
*3 ゆるびもていけば:寒さがしだいにやわらいでいくと。「ゆるぶ」は「(寒さなどが)やわらぐ」、「動詞+もていく」は「だんだんと…する」の意。

〈通釈〉
 冬は、早朝(が良い)。雪の降った朝は言うまでもないが、霜が降りて真っ白になったのも(良く)、またそうでなくともとても寒い早朝に、火を急いで起こして、炭を(いろいろな部屋に)もっていくのも、冬の朝にはたいへん似つかわしい光景だ。(しかし、)昼になって、だんだんと生暖かく、寒さがやわらいでいくと、丸火鉢の炭火も白い灰が目立つ状態になって、みっともない。

『枕草子』第一段

 兼好が「あはれ」の人だとするなら、『枕草子』を書いた清少納言は「をかし」の人だと言えます。「あはれ」はしみじみとした深い共感のことで、対象について否応もなく「感じてしまう」類のものです。一方で「をかし」については、共感や感情移入というよりも「(直感的に)良い」というような、対象の外から能動的に下す「評価」といったニュアンスでしょうか。引用した箇所に「をかし」は直接には使われてはいませんが、「いふべきにもあらず」「いとつきづきし」「わろし」は全て「をかし」系の表現です。清少納言は自身の感性に基づいて、これは良い/これは悪いという判断を鋭く行なっており、これが文章全体に鮮やかでかつ明るい感じを与えているのです。

では、ここで2つほど質問を置いておきます。お手隙の際に考えてみてください。

徒然草と枕草子について:
Q1. どちらが自分の感性に響きましたか。あるいは響きそうだと思われますか。
Q2. あなたは「あはれ」の人ですか。それとも「をかし」の人ですか。そう考えた理由もお聞かせください。(あえて「どちらでもある/どちらでもない」は除外します。どちらか一方をお答えください。)

追加Q. ちょうど20日過ぎなので、有明の月を見てみてください(見えるでしょうか?)。写真撮影してみて共有してもOKです。

■Hiroto

Q1. 徒然草は現代語訳の方でも苦痛でした。これだけでも長いし。枕草子は短いので良い。
Q2. 上でも苦痛とか良いとか言ってるので、をかし系。あはれならわざわざ言うまでもないかもと思っちゃいます。言うなら独自の観点から切ってる感が欲しいです。

  • ゆーろっぷ
    文章の長さそれ自体は本質的な原因ではないでしょう。「言うなら独自の観点から切ってる感が欲しい」とあるように、Hirotoさんはおそらく文章に「面白さ」を求める人なのだと思います。がしかし、故橋本治先生に言わせれば、『徒然草』は──正確には『枕草子』を面白いと思う人にとって『徒然草』は──「つまらない」んですよね。以下著書からの引用しますが、

 後に兼好法師となる卜部兼好は、鎌倉時代末期の中下級貴族です。華やかなところはなにもありません。王朝文化は、もう滅んだ後です。そして、もし王朝文化が華やかな頃に生きていたとしても、決して華やいだところはなかったでしょう。なぜかと言えば、彼は身分の低い貴族──国家公務員でしかないからです。(中略)管理社会の中に生きる国家公務員のどこに「華やぎ」が宿るでしょうか?兼好法師のポジションは、日本の男のあり方そのもののようなものです。
(中略)
 その〔注:王朝文化の〕「美の世界」を知ってしまった彼は、決してその世界の中に入って行くことは出来ない。彼は、「終わってしまった美の世界」の傍観者になるしかない。彼は、その世界の当事者ではないからです。そんな彼の書いたものを、「枕草子」を読んでおもしろがった読者達が、「おもしろい」と言うわけはありません。『徒然草』には『徒然草』で、別の存在意義があるのです。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』p.130, 134
  • ということだそうです。ひどい言われようですね笑。
    しかしあえてそんな「つまらない」文章を取り上げているのには理由があります。橋本先生も言うように、『徒然草』には『徒然草』で別の存在意義があるのであり、それは今回の「裏のテーマ」と関わってくることでもあります。短い期間ですので、もう少しお付き合いいただければと思います。

  • Hiroto
    自分が内発的に読もうと思うなら、むしろ徒然かもしれません。わからなさが「面白い」のだろうと思うので。
    外発的に課題として出されて、「どっちが響いた?」と聞かれたから枕草子と答えた気がします。

■コバ

Q1. どちらが自分の感性に響きましたか。あるいは響きそうだと思われますか。

A:枕草子

Q2. あなたはあえて言うなら「あはれ」の人ですか。それとも「をかし」の人ですか。そう考えた理由もお聞かせください。(「どちらでもある/どちらでもない」は除外します。どちらか一方をお答えください。)

A:「をかし」の人ですね。ゆーろっぷ君からの二択を読んで直感で『自分は「をかし」の人だ』と思ったからです。

Day 11

★ゆーろっぷ

 今日は『徒然草』第三十一段を扱います。内容的な繋がりはないので、独立して読むことができます。短くわかりやすい文章ですので、さらりといきましょう。

第三十一段(雪の朝)


 雪のおもしろう降りたりし朝、人のがりいふべきことありて*1文をやるとて、雪のこと何ともいはざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人*2のおほせらるること、聞きいるべきかは。かへすがへす*3口をしき御心なり」といひたりしこそ、をかしかりしか。
 今は亡き人なればかばかりのことも忘れがたし。

〈注〉
*1 人のがりいふべきことありて:「人のがり」は「人のもとへ」の意。「がり」は「の」を伴って、形式名詞のように用いられる。
*2 ひがひがしからん人:ひねくれている人。情趣を解さないような人。「ひがひがし」は動詞「ひがむ」から派生した形容詞。「ん」は婉曲の助動詞。
*3 かへすがへす:重ね重ね。よくよく考えても。

〈通釈〉雪が趣深く降っていた朝、ある人のもとへ言ってやらねばならぬことがあって手紙を送ろうとして、そこでは雪のことには一言も触れないでいたのだが、その返事に、「この雪を見てどう思うかと、一筆もお書き添えくださらなかったような、情趣を解さないお方のおっしゃることを、聞き入れる気持ちにはなれません。重ね重ね、情けないお心でございます」と言ってきたのは、実におもしろく感じられた。
 すでに故人となった人なので、こればかりの(たわいのない)ことも忘れられない。

『徒然草』第三十一段

 さて、実はこの段の前段(第三十段、この後で扱う)は、『徒然草』の中でも一際「無常観」が全面に押し出された文章です。しかしこの第三十一段はそれとは打って変わって、故人(おそらく女性でしょう)の思い出を語っています。これは本文中にもあるように「をかしかりし」思い出で、「あはれ」に付随するような重苦しさはなく、さっぱりとした趣です。しかしそれと同時に、最後に添えられた一文からはこの人物に対する兼好の思い入れの深さも察することができます。個人的にはかなり気に入っている文章です。

 例の如く、質問を置いておきます。

雪について:
Q3. 雪にまつわる思い出があれば教えてください。

過去を振り返ることについて:
Q4. 過去を意識的に振り返ることはありますか。また、それを文章化する(書き出す)ことはどうでしょうか。
Q5. フラッシュバックのように、過去を無意識的に、意図せず思い出してしまうことはありますか。あるとすれば、それはどんな状況で起きますか。

■コバ

Q3. 雪にまつわる思い出があれば教えてください。

A:スキー、雪合戦、雪だるま作り、ホワイトクリスマス、初詣、楽しい思い出がいっぱいです。

Q4. 過去を意識的に振り返ることはありますか。また、それを文章化する(書き出す)ことはどうでしょうか。

A:意識的に過去を振り返ってそこから自分なりの学びを抽象化して箇条書きで整理はしています。同じ過ちを2度はしないためですね。自分なりのライフハック術みたいなものです。

Q5. フラッシュバックなどのように、過去を無意識的に、意図せず思い出してしまうことはありますか。あるとすれば、それはどんな状況で起きますか。

A:人間の思考はかなり無意識に支配されている部分が多いのでその無意識に過去の体験が浮かぶことは毎日あります。どんな状況かと考えると副交感神経が優位になっている時が多いと思います。

Day 12-13

★ゆーろっぷ

 さて、いよいよ真の主題へと入っていきましょう。テーマはずばり「死と葬送」です。まずは以下の文章を読んでみてください。少々長いので、現代語訳だけでも構いません。

第三十段(人の亡きあと)


 人の亡きあとばかり悲しきはなし。中陰*1のほど、山里*2などにうつろひて、便あしく狭き所にあまたあひゐて*3、後のわざ*4ども営みあへる、心あわたたし。日かずのはやく過ぐるほどぞものにも似ぬ。はての日*5は、いと情けなう*6、たがひにいふこともなく、我賢げに物ひきしたため*7、ちりぢりに行きあかれぬ。もとのすみかに帰りてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ*8、跡のため忌むなることぞ」などいへるこそ、かばかりのなかに何かは*9と、人の心はなほうたて*10覚ゆれ。

〈注〉
*1 中陰(ちゅういん):中有(ちゅうう)とも言い、人の死後四十九日間をいう。この間は死後の世界、すなわち“後生”に落ちつかず、中に迷っている期間である。
*2 山里:都の郊外を意味する語。
*3 あひゐて:一緒にいて。
*4 後のわざ:死後の仏事供養のこと。中陰の間は七日を一区切りとし、初七日、五七日、七七日は特に重んぜられた。
*5 はての日:満中陰の日。
*6 情けなう:思いやりがなく薄情だ。現代語の「情けない」とは意味が異なる。
*7 我賢げに(われさかしげに)物ひきしたため:他人に構うことなく身の回りの整理をしている状態。
*8 あなかしこ:ああ恐れ多いことよ。
*9 かばかりのなかに何かは:「かは」は反語の係助詞で下に「いふ」が省略されている。
*10 うたて:いやに。不快に。

〈通釈〉
 人が亡くなったあとほどいたましいものはない。中陰の期間中は親類縁者たちが山里などにひき移って、不便な狭い所に大ぜい雑居して、追善供養の法事をみんなでお勤めしているが、これは気ぜわしいことである。日数があっというまに過ぎていくのはたとえようがない。満中陰の日は、人間であることを忘れたかのように、たがいにものも言わず、自分だけがさっさと身の回りの整理をして、ちりぢりに別れていってしまう。自分の家に帰ってみると、今さらのように悲しい思い出もあれこれと浮かんでくることだろう。「これこれのことは、ああ縁起でもない、あとあとのために避けた方がよいそうだよ」などと言っているのを聞くと、これほどの悲嘆に沈んでいる時に何たることかと、人の心というものは何だってこうも無情なものかと、心の冷える思いがする。

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 年月経てもつゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎し*11といへることなれば、さはいへど、そのきは*12ばかりは覚えぬにや、よしなしごと*13いひてうちも笑ひぬ。からはけうとき山の中*14にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく卒都婆*15も苔むし、木葉ふり埋みて、タべの嵐、夜の月のみぞ、こととふ*16よすが*17なりける。

〈注〉
*11 去る者は日々に疎し:『文選』の作者不明の詩「古詩十九首」の中の一節による。死んだ人は一日一日と忘れられていくということ。
*12 そのきは:その当座。ここでは人が亡くなった直後のこと。
*13 よしなしごと:他愛もないこと。
*14 けうとき山の中:人気のない不気味な感じのする墓地。
*15 卒都婆:ここでは墓標そのもののこと。
*16 こととふ:訪れる。たずねる。
*17 よすが:たよりとする縁者。

〈通釈〉
 年月がたったからといって、(死んだ人のことを)いささかも忘れたわけではないが、「去る者は日々に疎し」と言ってあるとおりでもあるし、忘れないとはいっても、その当座ほどは深刻に感じないのであろうか、(死んだ人についての)他愛もないことを話題にして思わず笑ってしまうような時もある。遺骸は人気のない不気味な感じのする墓地に埋葬して、命日などの参詣すべき日にだけお参りしてそのたびに見てみると、間もなく墓標にも苔が生え、木の葉が散り落ちて墓を埋めてしまうほどで、夕方に吹いてくる荒々しい風と夜の月ばかりが、訪れてくる縁者というしだいなのである。

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 思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ*18、そもまたほどなくうせて、聞きつたふるばかりの末ずゑ*19はあはれとやは思ふ*20。さるは、跡とふ*21わざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ*22。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

〈注〉
*18 こそあらめ:…はよいだろうけれど。…は構わないが。
*19 末ずゑ:子孫たち。「すゑ」のみで子孫の意。
*20 あはれとやは思ふ:反語表現。思うはずがない、の意。
*21 跡とふ:死者の霊を弔う。
*22 『文選』の「古詩十九首」に「古墓は犁かれて田と為り 松柏は摧かれて薪と為る」とある。

〈通釈〉
 思い出してなつかしがってくれる人が生きているうちはまあよかろうが、そういう人もやがて死んでしまったあと、聞き伝えるだけの子孫たちは(死んだ人のことで)特別の感動をいだくはずもない。それで、墓参というようなこともいずれは絶えてしまうことになるが、そうなればどこのだれの墓だと名前さえもわからなくなってしまい、毎年墓地にしげる春の草ばかりを、物のあわれを解する人はしみじみと感動して見るであろうが、とどのつまりは、嵐に吹かれてしのび泣くような音を立てていた松も千年と経たぬうちに切りくだかれて薪となり、古くなった墓は鋤で掘りかえされて田になってしまう。(こうして人間一個の存在は)そのあとかたさえなくなってしまうのがまことにいたましいかぎりである。

『徒然草』第三十段

 前日の第三十一段(雪の朝)の解説でこの段のことを「無常観が全面に押し出されている」としましたが、まさに人の死にまつわる無常、儚さが語られています。(特に親しい)人が死ぬことはもちろん「悲し」いのですが、兼好はそれだけではなく、その人の死が月日を経て跡形もなく忘れ去られていく過程にまで思いを馳せ、それも含めて「悲し」としているわけです。これほどの思索は、自分自身の「死」を目を背けず見つめることなしには不可能でしょう。おそらく兼好は、人の死一般について語るという体を取りつつ、実際には自分自身の「死」について書いているのです。そして兼好は、むしろそれによってこそ、逆説的に人の「生」について語ることができるのだと直観していたのではないでしょうか。

 人間は必ず死ぬということ。これは宗教にとっても極めて重要な意味を持ちます。例としてキリスト教の経典である聖書ついてみてみると、キリストの「誕生」に関しては福音書によっては描写がないものもありますが、他方、キリストの「復活」(いうまでもなくこれは「死」を伴う)については、4つの福音書全てにその記述があります。また、仏教については言うまでもなく「輪廻転生」の概念がその死生観を表していますね。さらに、各宗派によって形式の相違はありますが、死者の「葬儀」そのものがない宗教は少なくとも世界宗教には存在しません。カルト宗教ですら一定の規模のものには独自の葬儀の形態があることでしょう。こうしたことを考えると、「死」は人として「生きる」にあたって切っても切り離すことができないものであり、だからこそその解釈をめぐって様々な宗教が生まれるのだとも言えそうです。

 さて、ここで個人的に思い出されるのは、ジョルジョ・アガンベンというイタリアの哲学者がコロナ禍の中で発表した論考です。このような論考があったことは2023年に出版された國分功一郎氏の講演集『目的への抵抗』を読むまで知らなかったのですが、コロナ禍における外出自粛を批判したことで、当時は大きなセンセーション──要はネット炎上──を引き起こしたそうです。

 しかし、コロナウイルスの猛威が一定の収束をみた今、アガンベン氏の主張を振り返ってみると、人間の社会を見直す上で極めて重要な示唆が含まれていることに気がつきます。國分氏によれば彼の主な論点は2つですが、ここではテーマに沿って「死者」にまつわる方をみてみたいと思います。アガンベン氏によれば、それは「死者が葬儀の権利を持たない」ということです。國分氏による該当箇所の日本語訳を引用しましょう。

死者──我々の遺体──が葬儀の権利をもたない。我々の近くにいる者たちの遺体がどうなるのかも分からない。我々の隣人たちが抹消されつつあるのであって、このことについて教会が黙ったままであるのは奇妙なことだ。誰もいつまで続くか分からないこのような生き方に慣れきってしまった国で、人間の関係はどうなってしまうのだろうか?そして生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?

引用:https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-chiarimenti
日本語訳は國分功一郎氏による。

 死者を弔う権利、死者として弔われる権利が奪われることは、死者が公共空間からただ消去されるということであり、人間の死が単に医療的・防疫的対象として処理されるだけの世界を浮き彫りにします。アガンベンはそれを「生存以外にいかなる価値をも持たない社会」として、それに沈黙しままの教会も含めて批判したのです。

 しかし、そもそもなぜそのような社会が問題となるのでしょうか。この論点に関する質問を置いておきますので、ぜひ考えてみていただければと思います。

死者の葬儀について:
Q6. 葬儀への参列や火葬の立ち会いなど、葬送儀礼への参加経験はありますか。ある方はその時の体験について振り返ってみてください。
Q7. アガンベンはなぜ「死者としての権利の剥奪」を問題としたのでしょうか。言い換えるならば、葬送儀礼を行うことは自分自身の「生物的生存」には一切の寄与をしないにも関わらず、人はなぜ死者を弔うのでしょうか。それは「人間として生きる」ことにとってどのような意味を持っているのでしょう。

■Hiroto

Q6. 母方の祖父のものに参列経験あり。葬式は身近な生きている人のための区切りのためのものだと体感しました。死んだ当人のためだという題目で、死んだ当人の周りの人のため。だから死んだ当人のためのものではないのですが、そう言語にすると先ほどの題目と対立するので、しない。結局やっぱり死んだ当人のためのものだよね〜ということになる。
Q7. 上にも書いたように、死者を弔うのは、周りの生者が無理くり区切りをつけるためと思います。「意味」は周りの情報との関係性により生まれ、その大半を占めるのが人間関係で、それが喪失したのだから、そのことに対する区切りは人間として生きる上でむしろ意味しかない気がします。翻って、自分の葬式はマジで興味ないです。今炎上してる解剖実習をSNSに上げてしまった云々の話も、自分の死体でやられたとてどうでもいいです。死んでるので。

  • ゆーろっぷ
    自分は母方の祖父の火葬とお骨拾いに立ちあった記憶があります。火葬後は本当にバラバラになった骨と灰が残るだけで、ある意味で「死」を身近に感じた瞬間でもありました。

    「関係」はキーワードですね。死者を弔うことは、単なる儀式的慣習以上の意味合いがある。それは、死者と生者、死者と超越的存在(神)とを結ぶ関係性の「再構築の場」と捉えることができる。キリスト教でも仏教でも、その死生観をみていると、死者を非-実在として抹消するのではなく、超越的な関係性の中に再度位置づけるという意味合いを持っているのではないかと個人的には思われます。あと余談ですが、「意味」の捉え方がめちゃくちゃ数学的というか、圏論的ですね。圏論ミリも知らないんですけど。

    >>自分の死体でやられたとてどうでもいいです。死んでるので。
    死んでいるのであれば「どうでもいい」とすら感じられないと思いますが、どうでしょうか。結局「死んでいる」という状態は選べないので、自分が「死んでいる」という立場だったらどうだろうか、ということを「生きている」立場で考えるほかないですね。「生きている」自分からすれば、死んで遺体が残っている間くらいは尊厳を見出される存在でありたいな〜と思うのですが。

■コバ

Q6. 葬儀への参列や火葬の立ち会いなど、葬送儀礼への参加経験はありますか。ある方はその時の体験について振り返ってみてください。

A:あります。その度にもうその故人とは会えない「寂しさ」を感じますね。

Q7. アガンベンはなぜ「死者としての権利の剥奪」を問題としたのでしょうか。言い換えるならば、葬送儀礼を行うことは自分自身の「生物的生存」には一切の寄与をしないにも関わらず、人はなぜ死者を弔うのでしょうか。それは「人間として生きる」ことにとってどのような意味を持っているのでしょう。

A:人はなぜ死者を弔うのかというと、それは皆「死ぬのが怖い」からなんだと思います。弔うことでその恐怖を文化的、宗教的、物語的に紛らわしているのだと思います。しかし、恐怖や痛みを感じること自体が「人間として生きる」ということなのではないでしょうか。現代社会は「痛み(恐怖や不快さも含めて「痛み」と表現しています)」を極力減らす(もしくはそこに蓋をする)構造になっています。しかしその中で「人間として生きる」という要素が排除されていってしまっていることもまた事実ですね。

  • ゆーろっぷ
    コバさんらしい結論だと思いました。死ぬのが怖いから社会システムが発展してきた側面があるけれども、同時にシステムによって従来は宗教などが担っていた領域が解体されて、人間性が疎外されているようにも感じられる。この状況は本当にどうすればいいんでしょうね。

Day 14

★あんまん

最終日になりました。2週間で主に聖書と日本の古典に触れました。古典作品は現代からかけ離れた時代に生まれたものなので、古典に触れることによってこの慌ただしい12月とは異なった空気感を私たちに味あわせます。私はなんだか心がホッと落ち着くような気持ちになります。みなさんはどんなことを考えたでしょうか。

古典はなぜなぜ古典なのでしょうか。単に古いという理由だけでは何百年、何千年と読み継がれるとは思えません。その作品に価値がなければ、読み継がれ現代に残ることはなかったでしょう。古典が古典である理由は、現代の思想に影響を与えているからだと思います。聖書であれば、愛やキリスト教的な宗教観。徒然草であれば、「あはれ」などの日本人的自然観などは現代にも通づる部分があります。古典は、現代とはかけ離れています。しかし、その中でも現代に通づる部分があるからこそ読まれるのだと思います。そして、これだけかけ離れているのに通じるのが面白い。長い時間人類に共感や感動を与えるということはその内容に普遍性があるといえるでしょう。だから古典を読むことは「とは何か」を考えるジェイラボ民にこそ読むべきだと思います。

ではこの辺で。愛を込めて。2週間ありがとうございました。

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