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自意識の萌芽
近影に惹かれてしまったのが後ろめたいが、私は今「市街地ギャオ」に夢中である。小説『メメントラブドール』で太宰治賞に選ばれデビューした作家だ。著者が好きだからといって、作家を作品抜きに推すのはさすがに罰当たりだろう。なので後ろめたさを払しょくするために、改めてなぜこの作家に夢中になったのかを、小説を読んで感じたことを踏まえ、言語化することで整理したい。
『メメントラブドール』を初めて読んだのは、猛暑日が続いた去年の夏だった。タイトルにラブドールとあるようにこの小説は、誰かに面と向かって紹介するには少しハードルが高い。
主人公の「私」にはいくつかの顔があり、平日昼間は会社員「忠岡」として働くかたわら、マッチングアプリで釣ったノンケとの性行為の動画を「たいちょー」の名でSNSの裏アカウントに上げている。ノンケを喰う生活を維持するため、アクセスのいい部屋に住む必要があることから、夜や週末には”建前上バイ”の男の娘「うたちょ」としてコンカフェで働くことで生計を立てている。様々な顔をもつゲイの青年の日常が生々しく描かれた小説だ。
冒頭からノンケとのマッチングアプリでのやりとりが描かれ、生々しい性行為の場面へと移行する。ノンケ男が理性と快楽の間で揺れ動くさまにはおかしみを感じた。
作中には「チー牛」「バキ童」といったスラングが多用される。小説の世界へ没入するには、知らない単語を調べつつ読まなくてはならなかったが、それでも作品全体の疾走感は損なわれない。描き出される世界が破綻することはなく、あけすけに書かれた物語の世界に夢中になり一気に読み通した。
主人公は表立って主張が強いタイプではないのだが、会社でもコンカフェでも意欲的ではなく、静かに悪態をつきながら周囲を煽り生きている。軽妙に腐していくさまは爽快ですらあった。
この小説には、時折り主人公にマチズモな視線や言葉が投げかけられる。それはコンカフェの雇われ店長や客、会社の上司らによるものなのだが、それらのある種の暴力すらも、煽りの燃料かのように感じてしまう。
会社員として“意識が高い“世界を冷めた感情で忌避する様子には親近感を抱く。己の性の価値が低下していくことに、焦燥や諦念を感じている姿には、胸を締め付けられた。
私にとってこの読書体験は衝撃的だった。まったくの別人格である主人公に、自身を重ね合わせずにはいられないのだ。自分ではないのに、まるで自分自身の隠していた欲望や、屈折、寄る辺のない心許なさを暴かれてしまったような衝撃が残った。
ここまでで終わればいい読書体験をした報告なのだが、私が「市街地ギャオ」に夢中になったのは2024年が終わるころの話である。
好きとは言っても相手は作家である。アイドルやアーティストと違い、露出が多い職業ではない。なので著書を読むほかに何をしていたわけでもなかったが、年の瀬に「市街地ギャオ」のSNSアカウントがあることを知ってしまったのである。(夏の間に気がつかなかったことを未だに引きずっている。)そこから一気にのめり込んでしまった。過去の投稿をさかのぼりインタビュー記事やエッセイなどを蒐集していく。おすすめの本や好きな音楽もチェックする。オタクの誕生である。記事やSNSの近影を見てはやっぱり好きだと思った。私の好きはちょっと湿度が高い。その身のあり方を少しでも正当化するために、サイン本を買いに走り、再び『メメントラブドール』を読みふけった。
それからの一ヶ月は、「市街地ギャオ」の小説を読めることが幸せのゴールだったはずなのに、このようにして文章を書きたいと思ってしまった。あまつさえそれを公開するなど自分でもこじらせていると思う。しかし『メメントラブドール』を読んで抑えきれない衝動が、こうして文章を書かせるに至っている。それはなぜか。
主人公に共感することで生まれた寄る辺のない感情が、私の自意識を刺激して、何かをしなければと駆り立てるのだ。そんな力がこの小説にはあるのだと思う。
改めて感想を言語化するために、今度は心を動かされた箇所に付箋をはりながら読んだ。ピンクの付箋があっという間に本の天に咲いてゆく。
私がこの小説で改めて注目したいのは、自意識と承認欲求の歪みだ。
主人公は性欲を、ノンケを喰うこと、行為をSNSで拡散することによって発散させている。いわばノンケの性を搾取しているのだが、その生活を維持するために働くコンカフェでは、バイで男の娘という押し付けられた役割を全うすることを強要される。こちらではむしろ性を搾取される側に立っている。息苦しさを感じながらも、辞めてしまうと『ありあまる可処分時間に飲まれて気が触れてしまいそうだとも思う。』という。
キャストとしてやる気があるわけでもなければ、男の娘になりたい願望もなく、コンカフェでは浮いた存在である。あくまでノンケ喰い性活を維持するための仕事であったひとつの自意識に過ぎない。それでも自身を目当てに店を訪れる客の存在には、感情を動かされてしまう。その客なくして、「うたちょ」としての承認欲求は満たされず、自意識は心もとなく歪んでいく。
自意識と承認欲求の歪みは、主人公と性行為をしたノンケの男にも表れる。ノンケだったはずの男が、自身の性行為を記録した動画のインプレッションを伸ばすために、自ら率先して行為をエスカレートさせていこうとする。承認欲求を歪ませた結果、性欲を発散させるためだけの行為から新たな自意識が生まれる。SNSを使うと否が応でも直面させられる、自意識の変化や承認欲求の歪みだ。
2人ともが自身の中にこじらせ、ねじれた自分自身を抱えたまま生きている。
これらの自意識や承認欲求の歪みをを蔑んだり、批判したりすることは簡単だ。
けれど、私たちは簡単に切り離せない様々な自意識を持っている。混ざりすぎても、分離し過ぎても、ひとりの人間としてバランスを保つのが難しいそれぞれの自意識。それらがお互いに作用しあった結果として、自意識はさらに歪んでいく。
『メメントラブドール』はそんな自意識と承認欲求の歪みをあらゆる場面で様々に照らし出す。読んでいると寄る辺のなさに胸が苦しくなる。けれど私は、その歪みすらも愛すべきことなのではないかと、小説を通して肯定されたように感じた。
自分を愛することは難しい。だが小説に出てくるこじらせ、ねじれた人物たちはそれぞれに愛おしい。
本の帯には、「ペルソナたちがハレーションする、どうしようもない人間のどうしようもない梅雨明けまでの一ヶ月。」とある。このどうしようもない人間は私ではないが、私もまたどうしようもない人間のひとりであり、私のこの一ヶ月もまた、どうしようもない一ヶ月だったと思う。
本を読み感じたことを言語化することに執着し、それを公開したいという抑えきれない衝動と闘い続けた。私もまた寄る辺のない世界で自意識と承認欲求を歪めて生きている。
『メメントラブドール』を読んで、気がつけば私は、自分自身の中に「市街地ギャオ」を推すことでしか保てない新しい自意識を生み出していたのだ。
どうかこれからも「市街地ギャオ」の小説が読める世界にいられますように。作家の大成を願わずにはいられない。