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岸田将幸『風の領分』の感想文

岸田将幸『風の領分』を一年ぐらい前から読みたい読みたいと思っていてようやく手に入れて、こればかり読んでこの一週間をすごした。ファムファタル詩とぼくが勝手に呼んで愛好している詩にふくまれるものがいくつかあると思った。朔太郎の浦詩篇(『艶めかしい墓場』、『沼沢地方』、『猫の死骸』)は、相手はすでにこの世にいなくて語り手もその次元まで幻視によってみずからも死んでしまうが、岸田将幸は死なない。相手に同化することなく、あくまで対話を手放さない。ファムファタルによくある不幸を屈折してしあわせとして受け取るような暈かしはどこにもなく、あくまで彼女と彼は死と生を挟みながらも同じ高さにいる。強靭だ、澄んでいる、研ぎ澄まされている、きこえてくる、死んでいない、生きている、それがぼくにはうれしい。これから何度でもかならず読み返すだろうと家が火事で燃えようともこの詩集だけは取りに戻るだろうと宝物のように枕元に鞄の中につねにそばに置いてある。こんな詩集がこの世にこの身とともにあることがとても、とても。あいかわらずゆるいことばかり言っているが、この詩集はとてもこんな感想文ではつたえられないくらい厳しい。生きることはこの身で世界と対することで、仮にも死んだりしては死ねない。繊細に澄ます強靭な声、耳。幻視もない、同化もない、決然とした距離がある。きみの胸のスピードは今どれほどだろう。恋。恋歌。こんな稚拙な感想文でごめんなさい。いまのぼくには恋しすぎるあまりに何も言えないのです。ただこの詩集を読めてほんとうによかった、それだけです。

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