私の茶色い瞳
田中 青葉(2001年生まれ 浦添市城間出身)
自分の瞳を見ると、おばあを思い出す。私の瞳の色はこげ茶色で、自分で言うのも変だけど、綺麗な色をしていると思う。私は自分の瞳の色が好きだ。だから私は、シャワーを浴びる時、メイクをする時、朝起きて寮の洗面所で顔を洗う時、鏡を見るたびに自分の瞳を見ては、良い色をしているな、自分らしい色だなと思う。それと同時に、いつも宜野湾のおばあと同じ色だと懐かしくなる。
私のおばあは、1937年生まれで、末っ子で甘えん坊だった(と、いつも母が口にしている)。若い頃と比べることはできないけれど、少なくともおばあが本当におばあになってからも、その甘えん坊っぷりは健在だった。普段の生活のめんどくさいことはおじいに全部任せて、自分の身の回りの世話は娘である私の母や叔母さん叔父さんにやらせていた。そして何故かわからないけど、用事もないのによく西原シティに行きたがっていた。宜野湾だったらコンベンションシティの方が近いのに。私の叔母さんやお母さんはいつも半分呆れていたが、結局はおばあの言うことを聞いていた。
対しておじいはしっかりしていて頭も冴える人なので、今は免許を返納したけど昔は自分で運転もしていたし、携帯電話の契約にも自分1人で行く。昔の戦時中の話、捕虜になったときの話、戦争が終わってからの話もよくしてくれていた。そんなおじいの隣にちょこんと座るおばあは、特に何もしていないのにいつも満足そうに笑っていた。昔話はするけど微妙に毎回内容が違っている気がするし、おしゃべりな割には、おじいのように戦前・戦時中の話は絶対にしなかった。
そんなおばあが、一度だけ戦時中の話をしてくれたことがある。それは、確か小学校低学年くらいの頃だった。私はふと、おばあの顔を見て、「なんで私とお母さんとおばあの瞳は茶色いの?」と聞いた。すると、おばあはにっこり笑って、こう答えた。「おばあは戦争のときパラオに疎開してたから、こんなに目が茶色いんだよ。だから青葉のお母さんも茶色いわけさ。あんたもそのうちもっと茶色くなるはずよ~」。
戦時中、パラオ諸島を含む南洋諸島は、日本の占領下にあり、日本人や占領統治下の台湾や朝鮮から来た人たちが移り住んでいた。沖縄県民も例外ではなく、多くの人が疎開してきていた。しかし、太平洋戦争が激化すると、パラオに住んでいる多くの県民が徴兵されたという。ペリリュー島の戦いなど、パラオもまた戦火に巻き込まれた地域だった。敗戦を迎えると、県民は強制送還でパラオから引き揚げ、沖縄に戻っていった。
おばあの話を聞いた当時の私は、当然そんな歴史を知るはずもなく、パラオってどこ? 疎開って何? と具体的なことはわからず、ただ、海外に行ったら瞳って茶色くなるんだ! すげー! くらいに思っていた。しかし、ある程度大人になった今思うのは、「パラオに行ったから瞳が茶色いって何?」だ。何も根拠になっていない。パラオの日差しとかで瞳も日焼けしたのかな、パラオの人の瞳が茶色だったのかな、と色々と考えてみたけれど、どれもしっくりこない。おばあは、それ以降戦争に関する自分の話はしなかった。そして、パラオの話を聞くこともないまま、私が上京する前に亡くなってしまった。だからこんなに印象的なのかもしれない。
あんなにてーげーで、ちゃらんぽらんで、過去の話をあまりしなかったおばあが、ふとした私の質問にああやって答えたのは、なんだったんだろう。おばあは、パラオの生活のことをどう思っていたんだろう。「パラオに疎開したから目が茶色い」は、おばあのどういう想いが表れていたんだろう。パラオで生活していたというおばあの歴史を、おばあなりに紡ごうとしてくれていたんだろうか。おばあは、戦争で焼け野原になっていく故郷の沖縄を、遠くの島からどう見つめていたんだろう。
でもちょっと考えてみれば、自分はA型だとずっと言い続けてたのに、血液型検査をしたら実はO型だったり、ミステリアスなのかちゃらんぽらんなのかよくわからない陽気な人だったから、幼かった私にてーげーにふざけて話しただけなのかもしれない。本当のところはよくわからないけど、亡くなってもなお私の記憶の中に、おばあとパラオの記憶はずっと残り続けている。私はある意味おばあという人のライフヒストリーの一部を引き継いだことにはなるのかもしれない。
私は現在、東京の大学院で沖縄の女性をテーマに研究をしているが、沖縄に関する論文を読むたびに、寮に帰って自分の瞳を見つめるたびに、おばあの謎の発言の真相をずっと考えている。未だに答えは見つからない。
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