宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
また大分間を置いてしまったなあ。
みなさんいかがお過ごしですか。自分のノートを見返してると、その記事を書いてる時のことを思い出すけど、直近のを読んでも、少し懐かしい感じがして、改めて社会の動きの早さを実感した今日この頃。
今回は文学作品について書いていく。
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宮沢賢治の銀河鉄道の夜について。
あらすじは
いじめられっ子で家が貧しい少年ジョバンニは、活版所で働きながら学校へ通う。
銀河祭の夜、親友のカンパネルラがいじめっ子のザネリと祭へ行くところにすれ違う。
悲しくなったジョバンニは丘の上に佇んでいると、銀河を走る電車の中に突然移動する。
向かいにはカンパネルラがおり、二人は列車で様々な景色や人を目撃する。
乗客が全て降車し、二人が残ると、ジョバンニは夢(列車での出来事)から覚め、
街の川で人集りを見つける。
話を聞くと、川に落ちたザネリを救うために飛び込んだカンパネルラが一向に見つからない、ということだった。
みたいな感じかな。
物語自体は短編なので、そこまで長くはないけど、密度がすごいというか。前半は切ない少年の日常で、中盤は宇宙の風景と不思議な乗客を描いた童話、最後はまた最初の雰囲気に戻る、といった感じ。
さらに、現実的な感触と、あまり現実味がなくふわふわした感じが一つの物語に含まれていることが、余計にこの物語の「夢オチ」感を強めている。
この作品自体、私は三回ほど読んだのだが、初めの部分が何度読んでも辛い。どことなく私の幼少時代を想起させるためだ。
十年ほど前、私は田舎で母と二人暮らしをしていた。一人っ子であることから、一人で時間を潰すことには慣れていたものの、時折孤独感に苛まれることがあった。
ジョバンニには父親も姉もいるが、作中で実際にやりとりが行われるのは彼と母親だけ。さらに彼の家は貧しい上に、学校生活はパッとしない。さらに親友のカンパネルラが自分をいじめているザネリとつるんでいる描写が、彼の孤独感を強めている。この点が私の過去にオーバーラップするので、少し辛いのだ。
とは言っても、こういった児童文学には、幼少期に体験する多くの要素を含んでいる場合が多いため、私のような感想を持つ人や、ほかの部分で何らかのノスタルジーを感じる人がほとんどなのかもな。
作中には、多くの意味深な描写や象徴的な場面が登場する。
銀河鉄道に乗車した時から既に、カンパネルラは自分が死んでいることを匂わせる発言をしているし、タイタニックの乗客であろう団体が乗車してきたりする。
死をテーマにしていたり、この作品のように直接死を語らないものの、暗示している作品などは昔から人気が出る傾向にある、というのをどっかで読んだことがある。確かに、この部分に漂う不思議な雰囲気は魅力的で、彼らがどういう人間なのか、どのような経緯でここに来たのか、読者は気になってしまい、物語に引き込まれていく。
終着駅近くになって、ドヴォルザークの「新世界より」が流れる演出も象徴的だ。個人的にはあの荘厳な雰囲気の曲が、彼らにとっての目的地(あの世)が近づいていることを知らせるという演出で、どちらかというと(主人公たちの心情とは反して)「切ない」というより、「怖い」印象を受けた。
ここまでつらつら書いたけど、この作品のメインである数々の停車場で主人公たちが目撃する宇宙的な風景描写には、あまり付いていけなかったのが正直なところだ。
おそらく宮沢賢治は、自分の見ている空想の世界がかなりはっきりとしている人で、筆に迷いがないのだが、その超越したゾーンの最たるこの作品のテンションが、割と現実主義な私という読者との距離を離してしまったように思う。
なので、もしこの文章を読んでいる人で、ここが特に好き、という方がいれば、意見を教えて欲しい。良かったら。
そして、私にとって少し馴染みにくかった銀河鉄道での場面からまた現実に戻る。
個人的な理由もあり、辛い現実パートに挟まれている本作だが、少しだけ希望もあり、博士なる人物から、父親が仕事から帰ってくることをほのめかされる。しかし、父親が具体的にどんな人物かは示されていないし、父親が帰って来たことで、明るい未来がもたらされるとは限らない。
こういった余計な考えが脳裏をよぎり、あまりファンタジー感を味わえなかった。でも、この作品自体、イメージやパッケージから受ける印象よりも、こういった「生きていくことの不安定さ」を感じる人のほうが多いのではないかな、と思った。
そしてこの作品の価値もそこ(児童文学と現実性を表現する文学の二面性)にあるのかな、と感じた。
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かの細野晴臣さんが音楽を担当したアニメ映画版「銀河鉄道の夜」というのがあるのを知ってますか。
なぜか主人公たちが猫で描かれていて、当初遺族の方は困惑したそうです。