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その後の仁義なき「ベイ・シティ・ローラーズ」

中学校時代に女子の間で大人気だった「ベイ・シティ・ローラーズ」ですが、けっこう男子の中にも「隠れファン」はおりまして。かくなる小生も、その中のひとり。土曜日を英語で「Saturday」と書く、なんてえのはBCR(長ったらしいので以下BCRと省略させていただきます)の「Saturday Night」を歌いながら覚えました。「エス・エー・ティー・ユー・アール・ディ・エ・ワイ・ナイト♫」ってな感じで。

辛口な音楽評論家の渋谷陽一氏も、当時、NHKFM「サウンドストリート」で、「BCRって、ポップスのセンスがよかったよね。単なるアイドルじゃなかったよ」とのたまっておられました。

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■BCRは、メンバー入れ替えの激しいバンド

前身は1965年に結成された「サクソンズ(The Saxons)」というグループ。アラン(ベース)とデレク(ドラムス)のロングミュアー兄弟と4人の友人により結成され地元のパブ等で演奏するようになる。
タム・ペイトンがマネージャーになり、ロングミュアー兄弟は1968年にグループ名を「ベイ・シティ・ローラーズ」に改称。1971年夏にシングル「朝まで踊ろう(Keep on Dancing)」でデビューした。当時のリードボーカルはノビー・クラークであった。この曲は全英9位になるヒットとなり、のちにエリック・フォークナーが加入した。メンバーによるとバンド名にある「ベイ・シティ」とは、アメリカ合衆国の地図を開いてダーツを投げたところ、ダーツが刺さった箇所が、ミシガン州の「Bay City(ベイシティ)」を指しており、これをグループ名としたという。この逸話は日本で放映されたテレビ番組でも取り上げられたことがある。
マネージャーのペイトンは、幾度かのメンバーチェンジを行い、1974年にレスリー・マッコーエン(リード・ボーカル)、エリック・フォークナー(リード・ギター)、スチュアート・ウッディ・ウッド(サイド・ギター後にベース)、アラン・ロングミュアー(ベース)、デレク・ロングミュアー(ドラム)による5人編成になってから、「バイ・バイ・ベイビー」(1975年)、「サタデー・ナイト」(1976年)などのヒット曲を生み出し、本国イギリスを皮切りに、その後アメリカや日本など、世界中で人気を博し、日本でも度々公演が行われた。ラジオ・パーソナリティの山本さゆりは、この頃からの熱烈なファンである。「二人だけのデート」もヒットするなど大人気の中、年長者であるアラン・ロングミュアーが脱退した。その後、イアン・ミッチェル(ギター)が新たに参加するが、同じ年にミッチェルは脱退し、パット・マッグリン(ギター)が参加した[6]。しかし、パット・マッグリンも短い期間で脱退してしまい、メンバーチェンジが激しかった。日本では1977年頃まで、イアン・ミッチェルを中心に脱退したメンバーが結成したロゼッタ・ストーンの曲まで、洋楽チャート番組に採り上げられるなど、ベイ・シティ・ローラーズの人気が持続した。しかし、1978年頃からはその人気にも翳りが見えてくる。
1978年秋の3度目の来日公演を最後に、レスリーが脱退。新たにラビットから、ダンカン・フォール(リード・ボーカル、ギター)が加入し、グループ名を「ザ・ローラーズ」に改称して活動を続けたが、1981年に解散した。ウ<ウイッキーペディアより引用>

と、まあ、ウイッキ先生を頼りに、ざっと、メンバーの変遷をご紹介いたしました。まあ、大人たちにつくられたアイドルバンドってところだったのですが、彼らのポップセンスは非常に優れており、往年の名曲をカバーする際の選曲にも、そのセンスは発揮されています。

カバー曲で「これ一番!」となると、やはり、この曲でしょう。

二人だけのデート Only Want to Be with You」。オリジナルは、ダスティ・スプリングフィールドが1963年に発表。イギリスだけでなくアメリカでもヒットしました。ダスティーはそれまで、兄弟たちでフォーソングを歌っていましたが、アメリカのフィル・スペクターがつくる「ウォール・オブ・サウンド」「ガールグループソング」に激しいショックを受け、自分もああいう壮大なサウンドをつくりたいと思い、この曲を録音。エンジニアに「もっと、大きな音で!もっとエコーをかけて!音が割れてもかまわないの!激しいサウンドがほしいのよ!」と発破をかけたのだとか。このことは生前の大滝詠一さんが、ネットで書かれていました。(「アミーゴガレージ」すでに生前の記事は削除されているようです。残念)

BCR版の「二人だけのデート」は、日本では、TBS「はなまるマーケット」のテーマソングとして使われており、朝からゴキゲンな気分になったものでした。

というわけで、今回は、BCRを脱退したメンバーが結成したグループの曲をご紹介しようと思います。

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■パット・マッグリン「あの娘はアイドル」1977年

たったの六ヶ月でBCRを脱退したパット・マッグリン。なにが、イヤだったんでしょうか? イジメにでもあったのでしょうか? しかし、パットはその半年の間に日本公演を果たし、ジパングにおいて絶大な人気を得ました。この曲はタートルズのカバーです。(オリジナルは1967年発売)ちなみに、次のレコードから、「パット・マッグリンとスコッティーズ」名義になります。ジャケットに写っている人たちがスコッティーズさんなのでしょうね。ティッシュペーパーみたいなバンド名ですなあ。

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■ロゼッタ・ストーン「僕のシェイラ」1978年

イアン・ミッチェルは、カバー曲が良い出来です。初期の3曲は素晴らしいポップスです。

イアン・ミッチェルとロゼッタ・ストーン名義で発売された「サンシャイン・ラヴ」はクリームのカバー曲。「二人のパラダイス」はエーメン・コーナーのカバー。下に貼り付けたユーチューブ動画を観ると、「日本のファンに媚を売っているなあ」と思いますが・・・。

この後、イアンはポルノ男優になるのですが、それはまた別の機会に。

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■レスリー・マッコーエン「銀河のロマンス」

1980年、レスリー・マッコーエンは、突然、GSの名曲・タイガースの「銀河のロマンス」を発表します。1978年末に、レスリーはBCRを離れ、ソロとして活動します。いろんなコンテストを受けたりします。

2021年4月20日、自宅で死去。死因は不明。65歳没。ご冥福をお祈りいたします。

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■BCRののライバルたち

BCRが活躍し、人気が出ますと、当然のように同じようなコンセプトのバンドが登場します。業界の常識ですね。おとなの事情ですね。そんなバンドの中から2組をご紹介。

●バスター「すてきなサンデー」1976年

この曲は好きでよく聴きました。日本でもかなり人気がありました。ちなみに、BCRの衣装は「タータンチェック」でしたが、バスターの衣装は「縦ストライプ」でした。なのでレコードジャケットでも縦ストライプのジャケットを着ております。

●フリントロック「青春の夜明け」1877年

あんまりポップでなかったので、小生は好きではありませんでした。ちなみに「フリントロック」というのは昔の拳銃の方式のこと。下のような拳銃をフリントロック式といいます。

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■おわりに

しかし、まあ、このころは、洋楽のタイトル(邦題)の付け方が面白いですねえ。

『恋のロックン・ロール(Shang-A-Lang)』/ベイ・シティ・ローラーズ
『青春の夜明け(Dawn)』/フリントロック
『すてきなサンデー(Sunday)』/バスター

『想い出の17才(It's getting sweeter all the time)』/ショーティー
『初恋にレッツ・ゴー!(Have I The Right)』/デッド・エンド・キッズ

※『初恋にレッツ・ゴー!』のところで、思わず爆笑しちゃいますが…これって、ハニカムズのカバーですよねえ。ちょっと調べてみたら・・・。

う〜〜ん、小生はやっぱりハニカムズのオリジナル版のほうが好きですね。

変人奇人プロデューサー・ジョーミークのサウンドのほうが。大滝詠一ファンとしては、しっくりきます。

では、また。Bye Bye。。。

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■おまけ

こんな曲がありました。日本だけでヒットした「洋楽一発屋」です。タータン・ホード憧れのベイ・シティ・ローラーズ」。タータン・ホードの正体は、なんとニック・ロウです。

ローラーズはみんなの憧れ。ローラーズを観に行こう。チケットを手に入れよう。すべてがサイコーだ。今夜のショーを楽しもう」と歌う、当時大人気だった英スコットランドのアイドル・ポップ・バンド、ベイ・シティ・ローラーズ賛歌である。当時の彼らの世界的な人気にあやかった、まあなんと言うか、便乗商法みたいな曲であります。

この曲、バック・バンドは、なんと、ヒューイ・ルイス&ニュースらしい。ニック・ロウ自身は実際この曲をどう思ってるのか知らないが、わたしはこの曲が大好きだ。ニック・ロウの傑作のひとつだと思っている。

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ゆうもあ倶楽部
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