言葉に殺されかけたあの日
「人の感情の機微に敏感で、『相手が今何を考えているのか』『この人の気持ちにはどうしたら寄り添えるのか』常に考える。」
これは私という人間をすごくわかりやすく説明した一文であり、ある人に言わせれば「私の欠点」である。
それは、例え周りがどうだろうと、唯一最後まで私の味方でいてくれると思っていた人。
すぐに相手の心情を読み取ろうとしてしまい、そしてその読み取った感情と自分の感情との境がなくなり、混ざり、自分が飲まれてしまう。
「他人の感情を気にする私」の感情は、一体誰が気にしてくれるのだろうか。
一体誰が寄り添ってくれるのだろうか。
今からちょうど1年前。
自分という存在が、透明で触れられない、誰の目にも見えないものなんじゃないかと考えるようになってしまった時に、その人に助けを求めた。
しかし、私の話を聞いて「そもそもあなたのその素質が悪い」と指摘されたのが、冒頭の部分だ。
人生で、「辛い」と思ったことはたくさんある。
ゲーム感覚で始まる「仲間外れごっこ」の対象になった数週間や、私を「娘」としてではなく「1人の人間」として見てほしいと思った日。
呆気なく終わる学生によくある恋愛や、死という別れ。
子どもの頃から大人になるまで、数えきれないほど「辛い」経験はあった。
それでも、この時ほど、「自分の存在が誰にも認められていないのではないか」「いなくなってしまったとて、困る人はいないのではないか」と思ったことはない。
子どもの存在がなんとか私の心を繋ぎ止めてくれた。
今、私がいなくなることで困る人はいないかもしれないが、子どもたちに対してあまりにも無責任だと思った。
命を捨てないために、言葉を求めた。
自分のことを理解してくれている、と信じている人たち(そう思っていた人からの言葉で傷ついたのだが…)からの、自分という存在を認めてもらう言葉を。
そして、その言葉に救われた。
「そういう素質や性格があるのが、あなた。そこが無くなったらあなたではなくなる。その性格があなただけの、あなたの、良いところだ」
と、皆私を包み込んでくれた。
今、私は、欠点だと指摘されたことを長所だと思って日々を生きている。
人の感情に敏感(すぎる)私だからこそ、人の想いに寄り添える。
言葉は、たった一言で人の息の根を止めることができる。
言葉は、たった一言で人の心を救うことができる。
そんな当たり前の言葉の力を、身をもって知る経験となった。
殺しかけてくれて、ありがと。