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コーチングとカウンセリング②~陰陽の視点から


コーチングスクールでの学び


ラッセルコーチングスクールのベーシックコースを修了しました


1月から学び始めたコーチングスクールのベーシックコースを、昨日無事に修了しました。

オンラインのスクールなので、修了式もオンライン。
zoomの学帽をかぶって、エアーで修了書をいただきます。

便利な時代だなぁと思うし、式典の厳かさみたいなものはないのですが、それでも万感去来するというか、うるっとくるものがあります。

短い期間だったとはいえ、一緒に学んだ同期の方たちとは、普通のコミュニティでの人間関係の中ではありえないような、深い関係を結んだつもりになっていますから、感慨もひとしおです。

みな、それぞれの動機を抱えて入門してきているわけですから、スクールと先生についてはとても吟味して、検討して、迷ったかどうかは人それぞれでしょうが、少なくとも自分の意思で選択しているはずです。

でも、同期にどんな方がいるかは、あらかじめ知る方法がないですし、ホームページに掲載されている卒業生のインタビューなどをちゃんと読めば、それなりの傾向などは伺い知れるかもしれませんが、あわてんぼの私はそれもしなかったというか、頭にもなかったので、出たとこ勝負のガラガラポンでした。

まさに『袖振り合うも他生の縁』

自分の息子より若い20代新卒の男性から、定年退職された後の学びという女性など、年齢層も性別も偏りがなく、そしてオンラインという特性上、全国各地からの参加で、均質な集団ではありません。

でも、ウェルビーイングというワードに惹かれて集まったからなのか、それともやはり代表のありさんのあり方がとにかく絶大な力をもつからなのか、人生においての優先順位とか、人との関係の中でなにを大切にしているか?といったことについては、相違点よりは共通点のほうが多く、そういう意味では、均質的な居心地の良さを感じる集団でもありました。

学び始めてすぐのときに書いた感想はこちらから

ベーシックコースを受講中に考えていたこと

コーチングとカウンセリングについて、思っていたことは①に書きました。

わたしは、学び始めるまで、コーチングとカウンセリングは、まったく別のものと思っていました。

最初に、カウンセリングはマイナスをゼロに、コーチングはゼロをプラスにするもの・・というような説明を受けて、すごく納得がいったし、私自身の指圧師の仕事が、患者さんのなにか困った症状を治す治療モデルではなく、症状がなくなっても、よりよくその方が生きていくための自己治癒力を渙発する伴走者モデルであると定義したときに、わたしがしていることには、コーチングがとてもよくあてはまるだろうと思っていました。

たとえば、更年期障害で当院にご来院いただく方というのは、とても多いのですが、動悸や息切れ、不眠というような身体的な不調から、今までできていたことができなくなる不安、焦燥感…と心理的な不調を訴えられることはよくあります。

時期的にも、職場での責任が増したり、職を失ったり、子育ての卒業、介護のはじまり・・と、更年期のころの女性は普通になにもなく通り過ぎることなんて、たぶんないのではないかと思うほど過重な負荷がかかりやすい時期です。

そういうときに、身体的な症状をきっかけにご来院くださり、長くご通院くださるようになったときに、患者さんご自身の物語が語られることがあります。

それはそれぞれに大切で貴重なお話で、その方自身が忘れていたことを突然思い出されることもあれば、ずっと抱えていたわだかまりを今やっと話せました・・と語られることもあります。

そのときに、よく語られるのが母親との葛藤です。

こんな自分はダメだ、自分は怠けている、自分はもっとできるはずなのにできない・・というような、自責感を語られることはとてもとても多い印象なのですが、「どうしてそう思われるのですか?」と問うと、根っこのところに母との関係が語られることがとても多いのです。

現実の関係の中では、お母様と良好な関係のかたもいらっしゃるし、距離を置いていらっしゃる方もいる。お母様が亡くなっていらっしゃることもあります。

それでも、既に60代の方が10代のころのお話、50年以上まえのやりとりに心縛られて、苦しんでいらっしゃることもあるのです。

そういうときに、わたしはただただ聴くしかできません。
たいてい、側臥位で横たわっていらっしゃるその後ろにわたしは位置していて、目隠しのタオルをかけていますから、お顔の表情を見ないままに、手掌をあて、指をあて、指圧を続けます。

カウンセリングのように正面から受け止めずに、患者さんから出ていく、辛い想い、刃として返ってくる可能性のある言葉たちを、一緒に見送っていくような心持ちで、その空間に一緒にいられることをいつも有難く思っています。

毒親ということばが広く拡がっているように、子どもが自分の生きづらさの原因、または起源を親に感じるとき、その親には毒があるのだと思います。
邪といってもいいでしょう。

その毒や邪は、子どものこころもからだも深く蝕みます。
ときには、50年を超えて、自らがこの世にいなくなってからも、こどもの人生を蝕み、苛み続けることがあるということは恐ろしいことです。

そして、それは指圧師の手に余ります。

ご自身がその呪縛の中にある人は、どうやってその邪を払えばいいのでしょうか。

親から注がれ、じぶんのこころとからだの奥深くに溜めこんでしまった毒は、どうしたら放つことができるのでしょう。


意味なく柴犬

邪を瀉するカウンセリング

東洋医学的な価値観においては、中庸ということを尊びます。

中庸とは、臨床においては外邪とよばれる季節の邪、寒さの寒邪、湿気の湿邪や、内邪とよばれる感情の乱れを払うことであり、同時に氣を補うことで、絶えまない動的平衡を保つことです。

わたしの中で、カウンセリングというのは、永らく葛藤の原因を探り、その葛藤と和解をする過程を一緒に歩むことでした。

とくに、母子関係に問題があるという自覚が患者さん側にあるときに、そこに焦点をあて、徹底的にそのトラウマと取り組むこと、それができる心理的安全を保つ場をカウンセラーがつくることがカウンセリングではないかと思っていました。

そんな風に思っていたのは、たぶんこの著書を読み過ぎたからだと思います。

森瑤子さんは、バブル時代を代表する人気作家でした。
おしゃれでかっこよくて、憧れのハンサムウーマン。

その彼女自身と思える主人公が、セラピストとのセラピーを受け、そのカウンセリングの対話を実際に再現しながら作品とされた、フィクションともドキュメンタリーともいえる、凄い物語なのですが、繰り返し語られる母との葛藤は、こんなふうに血だらけになって昇華するもの・・というような思いこみがわたしにはあったかもしれません。

その実際のセラピストをつとめられたのは、河野貴代美先生。

母に愛されなかったと血を吐くように叫ぶクライアントを、温かく包容力のあることばで抱きとめていらっしゃるお姿は、神々しいほどでした。

カウンセラーとしての類まれな才能をお持ちの上に、専門的な最高級のトレーニングを受けたが上に可能だったのではないかと思わされる河野先生の個性と当代最高の感性で言葉を発する作家とのやりとり。

よくある傾聴トレーニングなどでは、とてもおよびもつかないであろう真剣勝負に私は恐れおののいていたかもしれません。

心理療法というのは、クライアントさん次第で血みどろの格闘技のようなものになってしまう・・・という恐れ。

クライアントさんがおぼれそうになって、全力でしがみついてきたら、わたしはその方を支える力がない・・ということも大きな恐れでした。

その恐れをコーチングという手法なら解消できるかもしれない・・という希望を、ラッセルコーチングスクールで学びました。

カウンセリングが邪を払う格闘をする、邪を瀉する過程を含むものと考えたときに、コーチングなら、その過程をあえて踏まずに、氣を補するだけで、もっと自分もクライアントさんも楽に前に進めるのかもしれないという希望。

それを、ウェルビーイングコーチングのプログラムの中で見出したのでした。

話がまた長くなってしまったので、続きは『コーチングとカウンセリング③』へ・・・。

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 ならまち月燈/こころとからだをつなぐあかり
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