絶対的矛盾を生き切るメソッド群
「法華経とは何か」、一旦、最後まで読んだので、追記的エントリ。
結論までたどりつくと、質量感のたっぷりした読後感であった。大きいものを受け取った感覚がある。
そもそも、同時代に、サンスクリットベースで原典を精読し、既存の翻訳に物申せる人がいるというのが、本当にすごいことだと思った。
言ってしまえば、自分も含めて、そういうことをやりたくなるのって、市井のちょっと変わった人だったりする可能性があるわけで、読み進めながら「果たしてこの人は本物なのだろうか?」という疑問が湧いては消え、消えては湧く、という往復運動が発生する。そして、自分はその当否を直接的に判定する知識を持ち合わせてはいない。
岩波だから、とか、中村先生の系譜だから、とか、◯◯先生のお墨付きだから、とか、どこそこの学会や大学に所属してるから、みたいなことで、つい読み手は、信頼性を担保したくなる。
それはまったくもって検討外れも良いところで、そのアプローチやメッセージ、あるいは自分なりに他の一次情報なり傍証に触れ、検証していくしかない。
この本は、時代時代で、そのときの社会や経済の要請から、法華経が(もとい仏陀の教えそのものが)恣意的に解釈され、運用されてきたことを描いている。
だとするならば、本書もまたその例外ではない可能性を免れない。
共感、という意味ではものすごく共感したのだった。これしかありますまい、というぐらいに。一方で、だからこそ、手放しで絶賛しても良いものなのかどうか、少し躊躇うところもある。この共感は、単なる同時代性にほだされたシンクロなのだろうか?
もとい、これだけの著作を前に、称賛を躊躇うなんて、失礼かつ的外れ、言語道断も甚だしい話である。
と同時に、躊躇うことができなければ、この本のメッセージを半分、受け取り損ねてしまうような気もするのである。
信じることと疑うことを同時に把持し、学び続ける。これしかないのだろう。「これが正解だ」と安住することに意味はない。
いやむしろ、安住にこそ誤りのリスクがあったことをこの書は伝えていて、そのテーゼにはおそらく一片の誤りもない。
法華経という創作物の存在それ自体が、そうした困難さを暗喩している。
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そんなことを言いながら、こうして学びを続けているうちに、例えば禅の公案で、つまらない問いを発する人間は、たとえ師匠だろうが名のある高僧だろうが、殴り倒し、蹴っ飛ばした一連のエピソード群(あるいはそれを目撃したのに殴り倒せなかった人間を批判した一連のエピソード群)のことが、感覚としてスッと入ってくるようになった。
多分、自分のなかで、何かが確かに前進している。もうちょっとで、その予感がもっとハッキリした形を取るんじゃないかという気がする。
絶対的矛盾を生き切る、ということ。その実践者である自分を発見し続けること。あるいは、駄目は殴るしかない、という超絶的パンクの爽快さ。あるいは、ただ単に、日々、自分にできる善行を、いわゆる日常的な意味合いにおける、ある意味ではまったく新鮮味のない善行を、積み重ねるということ。
次は何を読もうか。法華経自体の訳書は間違いなく読むべきだが、逆にむしろ華厳経も気になり始めた。これまで踏み込めなかった日蓮、親鸞への道も拓けた気がしている。
一方で、ちょっとそろそろ本当に年表を作りたくなっているし、「花鳥風月の科学」も読み直してみたい。(なぜか手元で見つからないので再び購入する必要がある)
好きな漫画の新刊が楽しみな感覚に似ている。漫画でなくて仏教書というのが、我ながら抹香臭いこと甚だしくてちょっと可笑しいが、何にも替えがたいほどに、面白いのである。
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